ゴー宣ネット道場

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倉持麟太郎
2017.1.4 00:27

2017年憲法論議の行方と政党力学、そして我々の責任

低視聴率でにわかに揺れる紅白歌合戦と、静かな晴天で迎えた2017年。
2017年は、安倍首相就任から6年目、昨年の参議院選挙でフィクションとしての”改憲勢力”は、フィクションとしての「3分の2」を獲得し、いざ改憲の艦船の船出をみるのか。

1.「改憲勢力」は「改憲勢力」か?
まずは、「改憲勢力」が「3分の2」を獲得したという二重のフィクションを冷静に見てもらいたい。
「改憲勢力」の中には公明党も含まれており、公明党は、もともとは「加憲」の立場とはいえ、憲法審査会の議論を見ても改憲に積極的な政党ではない。その公明党は都議会では自民党と仲たがいし、IR法案では山口代表の”造反”があるなど、意識的無意識的にも明らかに政権との関係は以前とは違う。これは、政権が維新と接近していることへの牽制でもあろうし、都議会は小池パワーという磁力があるからこその自民党からの離反=小池への接近であるとすれば、権力への志向性が極めて強い公明党の立ち振る舞いが国政において根本から変わるとも思いにくい。
どちらにしろ、いわゆる”改憲”には積極的ではない公明党を含めての「改憲勢力」を前提にするのは、あまりに議論が乱暴である。民進党の中にも改憲勢力(蓮舫代表をはじめ、前原氏、細野氏等挙げればきりがない。「あの人も?!」という人も改憲賛成派だ)がいる。また、奇妙な論点設定ではあるものの、「安倍総理の下での改憲に賛成か反対か」というアジェンダ設定のもとでは、「改憲勢力」と言われている維新や公明党の支持者の賛成と反対が逆転する(2016年7月の参院選時点)。つまり、反対が半数以上になるのだ。維新の支持者でも、である。
したがって、「改憲勢力」自体の精査と「改憲勢力支持者」の精査をしなければ、これらの概念に内実は無いといってよく、これらを冠に語られる”改憲議論”なるものは、誤導ですらある。

2.3分の2は何をもって3分の2?
「改憲勢力」と同じく乱暴なのが、「3分の2」という数字だ。そもそも憲法改正の投票対象は、法律上、個別の条文ごと(例:9条の改正案に賛成か反対か、といった具合)である。
9条のように従前から反対が根強い&政治的インパクトの強い条文であれば2分の1すら形成できるかわからないし、逆に、統治機構改革であれば、4分の3を形成できるかもしれない。いったいどの問題についてのコンセンサス形成について論じているのか、はっきりさせなければ、「3分の2」という数字も無内容である。
ここで釘を刺しておきたいのが、だからといって、改憲することだけを自己目的化し、とにかく3分の2のコンセンサスを得られるお題目を、セール会場のおばちゃんのように探すムキである。
どう考えても、現実が遥か先を歩いてしまって憲法を死文化させているのは9条である。
直近でも、全き意味での”戦場”である南スーダンに、交戦権の無い自衛隊を派遣した。交戦主体となりうる戦場にもかかわらず、国家最大の暴力である軍事権がないことになっている我が国では、自衛隊が派遣される場所は”国内法上”「紛争」と呼べる状態は存在しない「安全」という看板のかかったパラレルワールドである。ここでの戦闘については、法律上の主語である現場の「自衛官」が責任を負わされ、国家も国民も責任をとれない。
このような状態を放置して、「9条という国論を二分する条項は避けて」などと発言する議員が存在する始末である。このような考えは自らが国政に責任を持つべき議員としてのアイデンティティを放棄した”知的敵前逃亡”である。私は我が国および世界の平和のために国際紛争にコミットする自衛隊の行為に責任をとるつもりはない、ということを自白していることと同義だ。
以上のとおり、3分の2とう数字もいったい何を対象にして3分の2といっているのかを特定しなければ、これまた無意味である。今後の改憲論議では、いったいどの論点において最もコンセンサスが得られているのか、という指標として、これらの数字を見てほしい。
だが、コンセンサス優先で、現実の憲政のひずみを解消しない議論は、それ自体が誤導的であるので、そのような議論が”多数派”のように報道されるようなことがあれば、徹底的に糾弾したい。
付け加えると、2013年参議院選の直後も、主要紙が「改憲勢力3分の2獲得」と報道したことを忘れてはならない。2016年選挙でまるで初めてのように報道したマスコミ、まるで初めてのように受け止めた我々市民。どちらにも責任がある。

とにもかくにも、2017にあるとされる解散総選挙についても、ナイーブに「改憲勢力」が「3分の2」を占めるか否かという観点ではなく、何をもって改憲勢力か、また、どの論点について何分の何なのか、きめ細やかに分析し、また、そのような報道を期待したい。

3.憲法審査会での議論における”制憲への胆力”の欠如
2015年6月以来、1年4か月ぶりに憲法審査会が再開した。衆参それぞれ2回ずつの実質的議論を経たが、この議論の仕方では、改憲まであと70年かかる。
理由のひとつは、各党各人のコンセンサス形成意欲の乏しさである。党なのか個人なのかわからない意見の言いっぱなしで、なんらの合意形成への意志が見られない。
理由のいまひとつは、憲法審査会自体が放つ「制憲」への胆力、迫力の圧倒的な欠如である。
これから自分たちの手で憲法を変えるんだという気概、高揚感、緊張感、これらが一切ない。はっきり言って私の方がある。
これは、与党がどう、野党がどう、という問題ではない。
憲法審査会の空気感を肌で感じたものならば、わかるはずだ。
このような低体温のまま、数の論理で改憲原案が提出されようものなら、それこそ、政治部門の死である。しかし、そのシナリオも、考え得る有力シナリオである。

憲法改正原案の提出は、衆院100参院50の賛同でするか、衆参の合同審査会形式で提出するかの方法がある。早急に合同審査会方式を決定し、審査会全体での原案作成に尽力してもらいたい。この観点から、各党の原案を出していくというやり方は、そもそも審査会の性質になじまない。原案は審査会として提出するものなのだ。
余談だが、私は、上記の自衛隊南スーダン派遣について、これが本当に外交防衛上必要であるというのであれば、9条2項に国際貢献の文脈での交戦権の行使を書き込む原案を提出し、速やかに国民投票にかけるべきだと考えている。これが否決されればもちろん内閣総辞職。イタリアの憲法改正国民投票を思い出してほしい。安倍政権が本当の保守なら真っ先にすべきだ。国家が、そして我々が軍事権に責任をとれる憲法にすべきである。

以上、憲法審査会の低体温は憲法改正にとって絶望的である。本当に良き原案が出てくるのか、熟議はなされるのか、そして、我らの代表者に、我らの憲法を「書く」能力があるのか、これは代表者を送った我々にも監視する責任がある。

4.憲法は誰のものか
参院選の直前に、18歳選挙を受けて高知で実施した若者へのアンケートの結果、「3分の2」という数字の持つ意味を理解していない若者が8割、というニュースが衝撃をもって迎えられた。
憲法改正など経済や社会保障という直截的に「日常」と思える論点から比べればかなり遠いものであることは否めず、このような結果は当然で、もちろん大人の中でもこれに類似した感覚はマジョリティなのかもしれない。
憲法改正の投票については、投票について厳しい規制のある公職選挙法が準用されないため、かなり緩やかな規制の中での投票行動になる。しかも、発議から2か月間での投票となれば、一部の憲法への思い入れのあるおぞましき「改憲派」「護憲派」両者のアジテーション合戦になりかねない。
このような狂騒は、逆に、日々の生活を生きる我々個人を憲法から遠ざけ、ますます憲法改正への興味は失われるかもしれない。

しかし、南スーダンで今まさに戦闘地域に身を置く自衛隊員も、貧困に窮する人々も、生まれつき障がいのある人も、自分とは全く異なる性的志向を持つ人も、宗教観や道徳観が正反対の人々も、同胞である。この社会に二級市民はいない。
憲法を考えることは、私たちが「個人」や「国家」をどうデザインするのか、または社会設計などという大それた話について考えるという遠くの話とも思える。
しかし、そうではない。
憲法について考えることとは、我々が、自己とはまったく違う「他者」に思いを馳せる、イマジネーションを働かせて想像する、そういう作業を迫る行為なのである。これらは、決して我々人間の本質とは馴染まない。我々は皆目の前のことに必死だし、また同じ利益や価値観の中に埋没したい。その方が楽だ。
憲法はそれを許さない。
私も日々法律家として様々な人に触れる。多種多様な世界観や立場、生活実態に触れ、そのすべてを何とかしたいと願いながら事件にあたる。しかし、すべての人に利益を分配して、すべての人の幸福を充足させることなど到底できないというジレンマにぶつかる。
私は、憲法について考えることによって、そのような同胞の存在に思いをきたし、思い悩み、それらを節度に変えて生きよう、と決意させるのである。
憲法は、「一文字も変えたくない」か「全部変えたい」と考えている「意識の高い」人々だけの(もちろん皮肉である)ものではない。我々一人一人のものである。
憲法は「難しい」、「わかりにくい」、大いに結構な感想である。しかし、そこでとどまてしまうのではなく、普段想像していなかった他者の苦悩への想像をもって、自己がどう生きるのか、そのためには、憲法はどうあるべきか、このような視点を加えて、憲法論議に向き合ってほしい。この憲法からの息苦しい問いかけに目を背けないでほしい。
責任(responsibility)のオリジンは応答(response)である。
我々は何に応答すべきなのか。
この憲法からの息苦しい問いかけへの「応答(response)」としてのまだ見ぬ「他者へのまなざし」は、”憲法制定権力”であるこの社会に生きる我々一人一人が持つ「責任(responsibility)」であり、尊厳である。
憲法に対する責任を果たそうではないか。

倉持麟太郎

慶応義塾⼤学法学部卒業、 中央⼤学法科⼤学院修了 2012年弁護⼠登録 (第⼆東京弁護⼠会)
日本弁護士連合会憲法問題対策本部幹事。東京MX「モーニングクロ ス」レギュラーコメンテーター、。2015年衆議院平和安全法制特別委員会公聴会で参考⼈として意⾒陳述、同年World forum for Democracy (欧州評議会主催)にてSpeakerとして参加。2017年度アメリカ国務省International Visitor Leadership Program(IVLP)招聘、朝日新聞言論サイトWEBRONZAレギュラー執筆等、幅広く活動中。

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