希望の党と民進党の連携が進んでいる。
ここでの参加条件として希望の党が掲げたのが、
1.憲法改正を認めること
2.安保法制を認めること
である。
改憲にあたっては、希望の党は一院制を柱にし、これに賛同できない者とは組めないというスタンスをとっていた。しかし、今回は、特に一院制が前に出るでもなく、改憲に対する賛同を踏み絵にしている。
また、肝心の9条については積極的な言及はなく、むしろ消極的に見える。国家最大の暴力である軍事権の統制にこれほどまでにナイーブな集団が、安保法制における是非をその条件に同時に掲げている。安保法制を認めるということを所与のものとするというのは、なし崩し的な9条の骨抜き化を是認・追認するということだ。
「改憲」自体の承認を掲げながら、9条は放置して安保法制を認めるというのは、2重に憲法を踏みつけていると言える。王道の改憲論議の香りをまったく漂わせていない。
第一、国防という極めて重要な国家的課題について、単一的な思想だけで構成した政党というのは、チェック&バランスの点から大丈夫か。
9条を中心に、権力統制規範としての憲法を蘇らせ、個人の善き生や自分らしさ及びわが国の「かたち(constitution)」のグランドデザインを改憲を通じて論じてほしい。
改憲に是か非かというあまりに大きい問の設定には、憲法論議に対する誠実性や期待感を持たせない。
9条はもちろん、肥大化した政治権力に対する権力均衡の回復や、多様性や包摂という普遍的価値にコミットした「憲法改革」こそが改憲の目玉であるはずである。
寛容は不寛容に対して寛容か?という命題がある。
不寛容に対して寛容であろうとすると、寛容は浸食される。しかし、不寛容に対して不寛容で迎え撃ったとしてもまた、寛容は自壊するのだ。
不寛容を許し、それでも不寛容に浸食されない逞しい寛容を獲得するには、我々一人一人は相当な覚悟を迫られる。
これは、立憲主義が予定する「個人」が要求される「やせ我慢」とオーバーラップするかもしれない。
自己と立場の違う人間を選別する不寛容は、真の寛容を涵養しない(ラッパーになった気分だ)。
「改革」と「寛容」を掲げるのであれば、是非、違いに対してぐっと「やせ我慢」をして、真正面からの憲法改革を掲げてほしい。