ゴー宣ネット道場

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倉持麟太郎
2017.10.7 09:32

アルゲリッチのシューマンと10月8日のゴー宣道場

ロベルト・シューマン(1810から1856

ロマン派を代表するドイツの作曲家だ。

シューマンはピアニストの師匠の娘で当時スターピアニストだったクララ・シューマンと恋に落ちるが、当時スターになりたてで今後を嘱望された女性ピアニストと、無名な青年作曲家の恋に、周囲は反対した。それでも、二人は結ばれた。とても幸せな時期も過ごした。しかし、シューマンはブラームスの存在もあり、精神を病んで、自らが交響曲三番で題名に冠した「ライン」川に投身自殺を図る。一命はとりとめたものの、その後すぐになくなってしまう。晩年のシューマンは、変わり果てていた。

 

そんな彼が残した唯一の完成したピアノ協奏曲がある。

 初演はもちろん、最愛の人、クララ・シューマンだった。ロベルトが書いた最愛の人を思う曲を、希代のスターピアニストクララが音にして社会に対して奏でた。

二人で作り上げた初演だった。二人は一心同体だった。

このある種の愛と狂気と孤独の入り混じったピアノコンチェルト、素晴らしい名演がある。

1974年5月29日、シャンゼリゼ劇場でのライブ録音だ(Altus

ピアニストはマルタ・アルゲリッチ、アルゼンチン出身の現代最高のピアニストの一人。天才が織りなす芸術の世界にあっても稀なほど群を抜く天才女性ピアニストだ。

何年かに一度、女性ピアニストが出てくると、プロモーション文句として「アルゲリッチの再来」と言われるがとんでもない、再来の「さ」の字も満たす演奏家は、いない。

伴奏はチェリビダッケ指揮フランス国立放送管弦楽団である。オケの技量がすばらしいわけでもないが、このCDは、あらゆる人間物語を凝縮した演奏であり、また、アルゲリッチという天才演奏家の「腕」が余すところなく発揮された怪演である。私はこの演奏が心の底から大好きだ。

 

一楽章

冒頭の短い序奏の後に有名な主題が出てくる。切ないメロディだ。この主題はC・H・A・Aの音列で導かれるが、これはシューマンの最愛の人クララ・シューマンの「クララ」になぞらえたと言われている。この主題は、三楽章まで曲を通じて、執拗なまでに繰り返される。

この第一主題からしてアルゲリッチの演奏はすごい。

「ヒャッ」と声を上げてしまいそうな、冷たさとミステリアスに満ちた細い線で描いた絵のような音で始まる。冒頭からして壊れそうだ。

ここは、腕の見せ所なので、ドヤ!と出てくるような演奏も多いが。まるで空気に溶け込むように、ただし、そこだけ空間が凍っているかのような透明感と清潔感で始まる。とにかくはっきり描かれているのに全貌をつかみきれない。認識できない。そんな不思議な出だしだ。

 その後の中間音から低音にかけての幻想曲風の音楽では、こっちを見ているのか見ていないのかわからないような目つきで、音楽が我々を捉える。音楽が流れだす。その流れはもう止められない。かと思うと、マッチョに見せたような和音の昇降音型や、ガサツとさえとれる荒々しい打鍵を見せる。

総じて豊かだ、とても豊かな音楽だ。

オケが導くメロディを後追いで奏でるところなど、さりげなく、髪をかき上げる仕草だけでぐっとくるような、そんな表現である。

主題が長調になって戻ってくる。急に昔を懐かしむ、ゆっくり昔話をしゃべる未亡人のようだ。拍の取り方も本当にゆったりで、このまま止まってしまうのではないか、終わってしまうのではないか、そんな雰囲気すらある。

 ここからまた急に音楽が動き出す。このあたりの緊迫感はすごい。カーチェイスのような緊迫感、逃走を試みたマリー・アントワネットのような、緊迫感だ。

 ここで、最初の主題がもう一度戻ってくる。まったく同じフレーズだ。しかし、一つとして同じではない。そこには豊かな豊かな時間が流れたから、まったく同じフレーズなのに、まったく違う。もう、同じではない。

 カデンツァという、ソリストの腕の見せ所がある。この曲でも、終盤にカデンツァがある。

 ここは荒々しい。本当に伝えたいことはこれだ!と言わんばかりで、こちらが気おされそうな荒々しさである。その熱弁の時、目に涙が浮かんでたんじゃないかと、思うような、そんな感情的な演奏である。それを確かめることも許されないまま、そのまま、第一楽章は終わっていく。

二楽章

 二楽章は、暖かい木漏れ日の中庭を散歩するような、軒下で日向ぼっこをしているような、そんな音楽である。あたたかい風に揺れて葉がこすれあい、その心地よい感覚に、まどろむ。

 アルゲリッチのピアノは、何かをつぶやいている、ぼそぼそっと、何かつぶやく、おどけたようなそぶりで、何かをつぶやいている。でも聞こえない。それでも、そこにいることで安心する。そこにその音楽があることで安心する。だからこそ、三楽章で見せる底抜けの儚さとのコントラストがすごい。本来明るく、元気の良い三楽章が、震えるくらい儚い。2楽章のまどろみと安心が、この儚さに拍車をかける伏線だ。本当はまどろみの中のつぶやきなどなかったのかもしれない。

二楽章から三楽章への移行のときの高温からおりてくる不思議な和音の連続は、その後の離別を暗示している。

三楽章

2楽章から続けて切れ目なく3楽章は始まる。「元気よく」始まるが、アルゲリッチの演奏は、音自体のみずみずしさやはじけるようなパワーはあるものの、「元気よく」などで表現されるほど単一的ではない。

2楽章のまどろみで気づかなかった、見ないようにしていた、その中で、もう進んでいた。音楽は確かに進んでいた。もう戻れないところに進んでいた。

 右手の高温が細かい音を奏でると、それは胸のざわめきをそのまま音にしたような演奏だ。不安、焦燥、動揺。

 低音からの分散和音で駆け上がるところなど、何を言ってももう聞いてもらえない覚悟を感じる。

 目まぐるしく万華鏡のように音楽と演奏が変化していく。でも、時間は進む、音楽は進む。もう止められない。待ってほしい、止めてほしい、しかし知っている、止めたら終わってしまうことを。すべての音があまりに確信をもって奏でられるから、それに抗うことはできない。珍しくアルゲリッチにもミスタッチがみられるほど、熱くなっている。しかし、それは音楽を妨げない、音楽があまりに生々しく生きているから、妨げない。

 自分の伝えたいことの核心に近づけば近づくほどささやく、聞こえない、聞きたい、でも、何を言っているかわからない。届かない。

後半のオケの伴奏がさっと引いてピアノがクローズアップされる高温の速いパッセージ、あまりに繊細で儚く壊れそうに美しい。ささやくようでいて心に刺さるガラスのナイフのようなタッチに、胸が締め付けられる。

 

そして、そのすべてが儚い。今そこにいたはずなのに、瞬きをしたらいなくなっている、そんな演奏だ。手を伸ばせば届きそうなのに、手を伸ばしても届かない、否、手を伸ばすことに意味があるのだろうか、それは実体ではなく概念のようだ。

最後に全く同じフレーズを二回繰り返すが、二回目はこれでもかというくらい低温にアクセントをつけて左手の最低音が下降していく。凄まじい決意とともに。何かと決別するかのような、そんな強さだ。こんなにも「か細く」、そして「雄弁」な演奏が他にあっただろうか。

目でさようならを言うような演奏だ。

曲の盛り上がりとは裏腹に、もう二度と同じところにはもどってこれないという儚さとそれを逆説的に支える強さと潔さに、心が切られたようになる、のどの奥が熱いものでいっぱいになる。曲が終わっていくことにまったく後ろ髪をひかれないし未練も感じないのに、漠然と寂しくなる。

アルゲリッチは、そんな演奏をしている。

これぞロマン派、これぞ芸術、これぞ人間の業であると同時に人智を超えた業。

シューマンは、クララの中に、その才能への憧れ、ライバル心、母性、優しさや温かさ、妹のような童心と親友のような親しみ、厳しさ、ガラスのような繊細さ、そして何より、消えてしまいそうな儚さを見ていたのかもしれない。それは、曲の最終版の盛り上がりには絶対に解消されない、誰にも理解できなかったものだったのかもしれない。二人だけにしかわからなかったものかもしれない。

アルゲリッチの演奏は、それを見事に表現している。ロベルトのクララへのまなざしを、これでもかというほど多彩な表情で表現しつくしている。しかも、不気味なまでに自然に。

これが天才の業だ。表現者の存在する意味だ。

 

このCDでは、フランスの観客にもかかわらず、最後は演奏が終わる前に拍手と歓声があがってしまっている。極めてまれだ。それだけ聴衆が熱狂に包まれていたことがわかる。しかし、そこに真の熱狂などない、あるのは、もう二度とここにはもどってこれないという、遠くを見つめるまなざしと儚さだ。

きっとこれを生で聴いていたら、その会場にいた誰しもがこの演奏のあとに、大切な人や好きな人に会いたくなりしゃべりたくなり、触れたくなっただろう。

これは録音でこそあれ、「ライブ録音」である。生をそこに記録している。

アルゲリッチはとてもナーバスになりやすく、ドタキャン魔でも有名だった。そんな彼女が、まさに一発勝負で花火のように燃えたのがライブだった。これはそのすべてが凝縮されている。

人間の可能性と、人間存在の哀しさを体験できる、貴重な演奏だと思う。

 

明日はいよいよゴー宣道場である。

憲法改正について、ブログを毎日更新してきた。

かなり専門的なこともあったが、この数か月、私が心血を注いでこの社会に形にしたかった、温めてきたもの、創り上げてきたもののほんの一部を書き記した。対価などなくとも、あらゆる立場の人々と対話して、吸収して、この社会をつなぐために誰の為でもなく活動してきた。

 

それでは、明日、道場でお会いしましょう。

読んでいただいてありがとうございました。

倉持麟太郎

慶応義塾⼤学法学部卒業、 中央⼤学法科⼤学院修了 2012年弁護⼠登録 (第⼆東京弁護⼠会)
日本弁護士連合会憲法問題対策本部幹事。東京MX「モーニングクロ ス」レギュラーコメンテーター、。2015年衆議院平和安全法制特別委員会公聴会で参考⼈として意⾒陳述、同年World forum for Democracy (欧州評議会主催)にてSpeakerとして参加。2017年度アメリカ国務省International Visitor Leadership Program(IVLP)招聘、朝日新聞言論サイトWEBRONZAレギュラー執筆等、幅広く活動中。

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