1月7日は昭和天皇のご命日(崩御相当日)。
昭和64年1月7日。
冬の雨が静かに降る中、
昨日の出来事のように思い出す。
今日、宮中(皇霊殿)では「
が厳かに斎行される(武蔵野陵でも祭典)。
昭和天皇をお偲(しの)びする縁(よすが)として、
「おことば」
「
少しも差しつかえない」
「
「自分はいかになろうとも、
(同月14日。
「
(同年9月27日。
初めての会見で)
「
我国にとりては功労者なり」
(
木戸幸一内大臣が戦犯容疑者となり逮捕状が出ても、
出頭に先立ち、夕食に招かれた)
「朕(ちん)と爾(なんじ)ら国民との紐帯(ちゅうたい)は、
(
〔後に“天皇の人間宣言”
「わが舟師(しゅうし)が唐軍と白村江〔
戦い惨敗した当時の、
(
「
国の唯一の立法機関である。
したがって、わが国今後の発展の基礎は、
(昭和22年6月23日。
「
(
「
楽しみであり、
(昭和56年4月29日。
識者や国民の一部から「
あることに対し、「私の身体を心配してくれていることに
ついては感謝します。幸い私は健康であります」と仰った上で)
「雑草という名前は、
(昭和59年8月31日。
おっしゃられていますが、
「いつの間にか、こうなった。
(昭和60年7月12日。
併せて御製も。
あめつちの
神にぞいのる
朝なぎの
海のごとくに
波たたぬ世を
(昭和6年。この年に満州事変が起こり、日本は国際連盟を脱退)
身はいかに
なるともいくさ
とどめけり
ただたふれゆく
民をおもひて
(昭和20年。終戦に際して)
さしのぼる
朝日の光
へだてなく
世を照らさむぞ
わがねがひなる
(昭和35年)
日日のこの
わがゆく道を
正さむと
かくれたる人の
声を求むる
(昭和41年)
思はざる
病(やまい)となりぬ
沖縄を
たづねて果(はた)さむ
つとめありしを
(昭和62年。沖縄の本土復帰後、
秋なかば
国のつとめを
東宮(とうぐう)に
ゆづりてからだ
やすめけるかな
(同年。昭和天皇がご不例の為、
皇太子〔今上陛下〕
やすらけき
世を祈りしも
いまだならず
くやしくもあるか
きざしみゆれど
(昭和63年。昭和天皇が最後に迎えられた終戦記念日に)
来年の1月7日には
「昭和天皇30年式年祭」が執り行われる。
親祭なさるはずだ。