長らく閉館していた東京都写真美術館がリニューアルしていた。
さっそく立ち寄って、「世界報道写真展」を見てきた。
入口に、シリア政府軍の攻撃で亡くなった血まみれの小さな娘の
遺体を膝に乗せて見つめる父親の姿など、シリアのかなり悲惨な
組み写真が展示されていた。
紛争地の悲惨な子供たちの姿は、時々ネットのニュースで見るが、
パネル展示されたものの前に立つと、娘を見つめる父親の無念さ、
絶望の表情が伝わって、本当に気持ちが重くなる。
全身大やけどしたイスラム国の少年兵士と、彼に薬を塗る医師。
セルビアの難民キャンプで、雨合羽をかぶって様子を伺う少女。
有刺鉄線の下から赤ん坊をくぐらせ越境する難民。
同じ部隊の男たちにレイプされて自殺した米軍の女性兵士のメモ。
同じ部隊の男たちにレイプされて自殺した米軍の女性兵士のメモ。
日本は本当にのん気だ、のん気すぎる…と思い知らされながら、
世界中の命がけの報道写真をさまざま見た。
夜中に越境する難民の姿は、ストロボを焚くわけにいかないだろうから、
わずかな月明りを拾って瞬時に表情をおさえられるように、
また、シャッター音が響いて全員が命を落とすことがないように、
事前にカメラ本体に相当周到な準備をしていただろうし、
わずかな月明りを拾って瞬時に表情をおさえられるように、
また、シャッター音が響いて全員が命を落とすことがないように、
事前にカメラ本体に相当周到な準備をしていただろうし、
絶対に撮ってやるという情念がなければ撮れなかったと思う。
会場に、驚いた一枚があった。
マリオ・クルーズというポルトガルの報道カメラマンによる、
セネガルのイスラム神学校に暮らす少年たちの劣悪な環境を撮影
した一連の組み写真だ。
した一連の組み写真だ。
以前、ある写真愛好家のブログで、彼の作品から抜粋した一枚、
神学校の生徒たちが路上にぼんやり立ち尽くすモノクロ写真を見た
ことがあった。
神学校の生徒たちが路上にぼんやり立ち尽くすモノクロ写真を見た
ことがあった。
そのブログでは、
「セネガルのイスラム神学校の子供たち。宗教教育を嫌って抜け出し、
ぶらぶら遊んでいる子供たちも大勢いる」
ぶらぶら遊んでいる子供たちも大勢いる」
というような説明がなされていた。
イスラムの国でもそりゃ子供は学校サボって遊びたいよなあ、
見つかったらすごいお仕置きされそうだけど…ぐらいに思っていたのだが、
写真展で組み写真全体を見て、この説明が大間違いだったと知った。
この神学校は全寮制なのだが、施設に対する規制がなにもなく、
貧しさのあまり親に捨てられた子供たちがどんどん連れてこられて、
糞尿にまみれた飼育小屋のような場所に大勢が詰め込まれ、
糞尿にまみれた飼育小屋のような場所に大勢が詰め込まれ、
餓死寸前の環境に置かれて生活している。
そして、この子供たちの役割は、町で物乞いをして指導者に上納すること。
つまり奴隷なのだ。
つまり奴隷なのだ。
ノルマ達成できない子供は容赦なくぶん殴られていた。
鎖で足を繋がれて砂の上に座り、コーランを広げる子供の写真は凄かった。
ブログで見た少年たちの立ち尽くす写真は、ぶらぶら遊んでいたのではなく、
奴隷として物乞いさせられて町をさまよう子供たちの姿だった。
奴隷として物乞いさせられて町をさまよう子供たちの姿だった。
ブログの人は、恐らく、これら全体の写真や、それに添えられた写真家の
レポートの存在を知らず、たまたま一枚だけを見て、そのキャプションを
日本語訳し、不完全な翻訳のまま勝手に解釈説明したのだろう。
レポートの存在を知らず、たまたま一枚だけを見て、そのキャプションを
日本語訳し、不完全な翻訳のまま勝手に解釈説明したのだろう。
「イスラム教育を嫌がって町を歩いているのか。なるほど、サボりだな」と。
悪気があったわけではないと思うが、こういう風に把握がまったく不完全で、
検証の作業もされないまま、自分の想像の及ぶ範囲だけで勝手に解釈して
ネットで伝えてしまい、それが他人に広まってしまうような困った例は、
大なり小なりたくさんあると思う。
悪気があったわけではない・・・というのが、ますます困ったことかもしれない。
誰でもなんでも簡単にできてしまうような感覚があるからなおさら。
注意しなければならない。書くときにも、読むときにも。
検証の作業もされないまま、自分の想像の及ぶ範囲だけで勝手に解釈して
ネットで伝えてしまい、それが他人に広まってしまうような困った例は、
大なり小なりたくさんあると思う。
悪気があったわけではない・・・というのが、ますます困ったことかもしれない。
誰でもなんでも簡単にできてしまうような感覚があるからなおさら。
注意しなければならない。書くときにも、読むときにも。