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トッキー
2018.8.14 16:12その他ニュース

上から下まで空洞な個人~プレイバック『戦争論』インタビュー④

昨日に引き続き「翼」平成11年1月号から、
「個」と「公」に対する問題意識から
『戦争論』に至った過程を語った
インタビューの再録です!


 

要するに日本では、個の核になるための宗教
だとか国家や伝統というものが何にも入り
込まないような状況になってしまった。
昔はまだ、家族や地域の共同性というものが
あって、それがモラルという縛りみたいなものを
つくってたんだけど、それすら今は壊れて
しまっている。地域の共同性は言わずもがな、
家族の中にまで資本主義が入り込んできて
しまってますから、個室、個室って全員分かれて
部屋に閉じこもる状態になっているでしょう。
家族の中の共同性まで薄くなってきてしまったら、
完全な個人に戻っていってしまいますからね。
そうなったら個人の中に規範も縛りも何もない、
空洞な個になるから、個人主義と言った時に
日本人の場合では完全な利己主義でしか
なくなってしまう。まさに戦後民主主義の結果
つくられてしまった利己主義と言うべき
個人主義です。結局はそういう教育の中で
育った人が官僚になり、政治家になるわけですよ。
そしたら利己主義でしかない個人で、確たる
倫理観もないわけですから、そうなると省益に
絡み取られるんですよね。省益に絡み取られて、
エイズウイルスか入った血液製剤を流してしまう
こともあるし、それこそいろんな汚職やら
何やらに手を出していってしまう。
全部利己主義、個人主義、自分の利益かあるいは
各省の利益、そこまでしか考えないんですね。

国の一番トップにある人達ですら、公のために、
国のために、国民のためにという倫理規範が
崩れてしまっている。諸々の問題は中身がない、
空洞な個人というものが上から下まで蔓延して
しまったために起こっている。戦後民主主義の
病そのものが、今噴き出てきている。
公共性が喪失してしまった状況を何とか建て直す
ためには、国家というものをもう一遍
考えなければいけないのじゃないのか? そう
考えるに至って、『戦争論』を描こうと思いました。

個人のためよりもむしろ国のためにと誰もが
考えていた時代の兵隊たち、軍人達の気持ちは
どんなものであったかをきっちり知らなければ
いけないということで、まず遺書を全部読む
ところから始めたんです。それで自分の祖父を
はじめとして、当時あの戦争を戦った人々の
気持ちや感覚が腑に落ちる部分がいっぱい
出てきた。自分の命、個人の命を捨てても、
自分を超えた国とか国民というものを守ろうと
する人の気持ちなどは、『ゴーマニズム宣言』の
闘争の中で若干自分もそういう心境になった
ことがありますからね。薬害エイズの子供の
ためなら一層のこと厚生省にテロでも仕掛けて
やるとか思い込んで、一発留置所にぶち込まれても
いいかと思ったり、オウムの時も、現実に
日本国中が危険な状態にさらされている部分も
あるわけだから、危険だけどやらなければならない、
自分だけの命、自分だけのエゴイズムだけに
終始しても仕様がない、どこかで自分を、個人を
乗り越えていかなければならない局面がある
ということが少しずつ分かりかけてきてましたから。

わしは左翼思想とは、すっかり決別してました
けれども、ずっと個人主義でした。個人主義で
倫理が確立できると思ってたけれども、これは
ちょっと違うと気付きはじめた時でしたから、
自分の権利よりも、むしろ義務というものを
強く意識していた戦前の人達の気持ちを描いて
みようと思いました。それを戦後民主主義に
どっぷりと漬かって、権利、権利だけで育てられて
しまっている子供達に何とか伝わるように
描けないかという気持ちがペンを走らせました。

 

「伝統的家族」とやらが大切だとか
言ってる人たちが、家族共同体をバラバラに
してきた資本主義をさらに暴走させることに
躍起になっていて、その矛盾に一切気づいてない
というデタラメぶりに改めて気づかされます・・・

 

 

トッキー

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