ゴー宣ネット道場

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切通理作
2018.9.3 08:58

人生フェチ

反省する心を持っていない人間は、やっぱり死に直面させることしか、己を顧みる方法はない。

それはある程度普通の情操を持った人間にも通じることだろう。

小林氏のスタッフさんのように、50過ぎて将来の話をしても盛り下がるばかりというのは、やはり死を意識してしまう年代に差し掛かるからであろうか。

時間が無限にあれば、色んな事は先送りできるが、もう時間がないということになれば、己の持てるもの、持たざるものを意識せざるを得ない。

そういう年代で、子どもや若い世代と接する機会のある人は、たとえそれが自分の血縁ではなくても、未来との確かなつながりを感じさせてくれるものであろう。

私自身といえば、出してみたい本、書いてみたい原稿はたぶん一生かかっても終わらないぐらいあるし、創刊したばかりの責任編集の雑誌も100号は続けたい。50過ぎても「これは知らなければならないことなのに、まだ触れていなかった」というものがいっぱいある。

己の不勉強を悟るたびに不甲斐なさに呆然ともなるが、一方で、「知らなければならない」と思う気持ちが、無意識に生きる意欲をつないでいるのもしれない。そんなことを時々自覚するぐらいには、年を取ったということだろう。

若い時は、花なんかになんの関心もないどころか、むしろ好きになろうとしていなかった(私は「昆虫博士」の少年時代を送ったため、植物も虫もお互い必要不可欠なものなのに虫だけ多くの人間から「気持ち悪い」と忌み嫌われるのが理不尽と感じていたため)が、いまは花が咲いているのを見ているだけでなんだか力づけられている瞬間がある。

どちらかというと醜いと決めつけられるものにアイデンティティを感じていたが、美しいものにも寛容になった。

たとえば10年前と比べても、体力的に仕事の処理速度が落ちているのは感じるけれど、その分「いま」がいとおしくなる。生きる年月が経てば経つほど「人生フェチ」になっていく。

映画も最低でもあと10本は撮りたい。五感で世界を感じ、写し取ることが出来るのは物書きだけやってきた人間には360度世界が広がったような体験だ。

一度このパンドラの箱を開けてしまったら、後戻りはできないよと人に言われたが、まったくその通りになった。映画というのは一言でいえば、フェチな自分の完全肯定である。

映画を作るためなら、外食もしなくていい。酒も飲まなくていい。やみくもに作った処女作はさいわい劇場公開もして頂き、DVD流通販売もして頂いているので、結果的に商業作品として成立したのは本当に奇跡のようなことだといまでも思うが、もちろん今後、最初から商業作品の監督として依頼を頂くのが夢であるのは言うまでもない。

54歳といえば、むしろ逆に引退を考えなければならない歳なのかもしれないが、自分の意識は完全に新人である。そして50過ぎて新しいことをやろうとした自分に「馬鹿な事やってんじゃない。歳を考えろ」と言う人はほとんどいなかった。

「自分もやりたかった。自分もこれからやりたいことをやろうと思う」という声が聞こえてくることの方が多かった。

かつて柳田国男は、たいていの研究者は、三回人生送っても抱えきれないテーマを持ったまま死ぬものだと言ったが、それって悪いことじゃないと思う。

だから、次の次の次の構想を抱えながら、いま目の前にあるものに取り組んでいるうちに、ある時プツンと、まるでテレビのスイッチが切れるように命が終わってしまってもいいと思っている。

私はいま以上に成長していきたいと思っているし、30年後にもそう思っているだろうが、こう書いている一年後に突然死しても、べつにそれはそれでいいんじゃない?とも思う。

切通理作

昭和39年、東京都生まれ。和光大学卒業。文化批評、エッセイを主に手がける。
『宮崎駿の<世界>』(ちくま新書)で第24回サントリー学芸賞受賞。著書に『サンタ服を着た女の子ーときめきクリスマス論』(白水社)、『失恋論』(角川学芸出版)、『山田洋次の<世界>』(ちくま新著)、『ポップカルチャー 若者の世紀』(廣済堂出版)、『特撮黙示録』(太田出版)、『ある朝、セカイは死んでいた』(文藝春秋)、『地球はウルトラマンの星』(ソニー・マガジンズ)、『お前がセカイを殺したいなら』(フィルムアート社)、『怪獣使いと少年 ウルトラマンの作家たち』(宝島社)、『本多猪四郎 無冠の巨匠』『怪獣少年の〈復讐〉~70年代怪獣ブームの光と影』(洋泉社)など。

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