ゴー宣DOJO

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倉持麟太郎
2018.12.10 10:24

今年最後のゴー宣道場と、元気が出るクラシック③サロネン様がサンフランシスコに!!

昨日のゴー宣道場は、本当に論点が濃密かつ広範で、高森先生とも打ちあげ会場に歩く道すがら「今日は善い意味で疲れましたね」と良い疲労感に浸っていました。
グローバリズムの罠と現在の国会や選挙の堕落を横断的に議論した結果、現状の日本のいわゆる「政治」と「経済」の根本的問題点を完全に炙り出した、まさに今年の締めにふさわしい会だったなと思います。それだとだいたい暗くなるんですが、笑って終われるところが道場らしいところ。
また、人権普遍主義と人権国家主義というよしりん先生独自の整理と問題提起は、かなり論争誘発的で、これを巡る昨日の議論は、実はめちゃ深かったんじゃないか。是非そこだけでも再度見ていただいても価値あるのではないかと思います。

さてさて、そんな折にビッグニュース!
私の愛するサンフランシスコ交響楽団、マイケルティルソントーマス(MTT)との20年以上にわたるコンビネーションが生んだ洗練されたアメリカンクラシックの象徴で私もこのブログやWEBRONZAでも書きましたが、なんと、音楽監督交代。音楽監督が代わると良くなることもあれば一瞬でオケの音楽が死滅することもあります。誰やねん、MTTとのこの出来上がった音楽壊さんといて!と暗たんたる気持ちでいたところ、後任はエッサ・ペッカ・サロネン!!!!
おそらく現代で彼が演奏するなら世界のどこへでも聴きに行っても損はない、という指揮者です。
数年前に彼がロスフィルとの来日公演で火の鳥を振ったときは、最後の大団円の最後最後、最微弱音からフィナーレに移行するところでは、ディズニーランドのスペースマウンテン出発のときの光のシャワーを浴びるみたいな感覚に陥り、音のはずなのに、椅子に押し付けられて体がこわばって汗が全身から噴き出たのを覚えています。曲の分析能力も明快、表現もスタイリッシュでありながら、上記のとおりかなり感覚にも直接的に訴える音楽をやります。ラヴェルのマメールロアやったときなんか、妖精の園の弦の弱音はビロード、震えが止まらなかったぜ。
そんなサロネン、元気が出る演奏を紹介しようと、CD全部ひっくり返しましたが・・・紹介できるもの、ありません!
とにかくLIVEでの感覚を再現しているようなものは皆無でした。
とことんライブの人なんだね。なので、是非日本にきたときは聴きに行きましょう。飲み会やくだらない会食二回我慢すれば行けます。
サロネンは、ロンドンのフィルハーモニアの音楽監督もやっていて、VRを駆使したり、クラシック音楽の存続と普及のために、企業とも連携して新たな取り組みを盛んに行っています。MTTも、西海岸のシリコンバレーの企業たちと連携して、クラシック音楽の新しい形や、教育との連携を都市ぐるみで行っていました。MTTは後任として、サロネンのそういったマネジメント力も買ったのでしょう。
最後に、このサロネンのサンフランシスコ響音楽監督就任を一番よく理解できる一言を、サンフランシスコ響の公式ページから引用

“Twitter reacts to Esa-Pekka Salonen at SF Symphony: Like Kevin Durant joining the Warriors? – The Mercury News

バスケが好きならすぐわかるでしょ?

 

 

※追伸
自然権うんぬん、ちょっと議論が錯綜しちゃってますね。
人権と国家の活動領域をどのようにとらえるかの説明として、自然権というフィクションがあるという話を道場ではしました。
ロールズが「無知のヴェール」をかぶって考えよう!と言ったのも、まずはお互いの条件とか見えない状態でフェアなスタートラインつくってみようぜ、というフィクションです。どうやったら、まずそういうスタートラインに立てるか、という説明ですよね。

一方で、この自己が存在する場所や時代に規定されずに誰もが人権享有主体たりうるか否かという論点と、これが他の人権及び価値等と衝突したときの勝負方法や結果がどうあるべきかという論点は論理必然的に交わるものではありません。ここごちゃまぜにしないように。
そして、さらにさらにそれ以前の大前提として、表現の自由も営業の自由もプライバシーも名誉も「振りかざし」てはダメですよね。これは「たとえ表現の自由といえども絶対無制約ではない」と多くの判例が言っている通りですし、人権・自由全般に言えることで、本来私も含めて当たり前に共有していることかと思います。
また、これも大前提として共有しておいていただきたいですが、人権が制約される場面というのは、誰かの人権を侵害したときだけではありません。美観風致や環境汚染の蓋然性があるといった社会的利益もあれば、生命倫理に触れる(たとえば高度生殖医療)、といった特定個人の被害者がいなくとも個人(人間)の尊厳を理由に制約がされる場合があります。
山元一先生が道場で“小人投げ”事例において「個人(人間)の尊厳」による権利行使の制限についてお話してくださいましたが、ヨーロッパにおいてアメリカよりもヘイトスピーチ規制の研究や議論が進んでいるのはこの個人(人間)の尊厳概念の存在がアメリカよりも重視されていることが大きいと言われています。
どちらが絶対などということはありません、これらのバランスが大事ということは以前も含めて何回も書いているところです。
どちらも「振りかざす」ことなく、これらを参考に考えてみてください。また、直接道場でもどこでも議論しましょう。

一点、人権論を超えて付け加えると私は芸術大好きなので、小説、漫画、器楽演奏、絵画、評論、コメディ、映画、ダンス、学術研究等々あらゆる表現者に心からの敬意を持っています、ここんとこ誤解なきよう。

倉持麟太郎

慶応義塾⼤学法学部卒業、 中央⼤学法科⼤学院修了 2012年弁護⼠登録 (第⼆東京弁護⼠会)
日本弁護士連合会憲法問題対策本部幹事。東京MX「モーニングクロ ス」レギュラーコメンテーター、。2015年衆議院平和安全法制特別委員会公聴会で参考⼈として意⾒陳述、同年World forum for Democracy (欧州評議会主催)にてSpeakerとして参加。2017年度アメリカ国務省International Visitor Leadership Program(IVLP)招聘、朝日新聞言論サイトWEBRONZAレギュラー執筆等、幅広く活動中。

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