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高森明勅
2019.3.1 08:00政治

リベラル・ナショナリズム

現代の日本ではリベラリズムは左派、
ナリショナリズムは右派の、それぞれ
“代名詞”になっているようだ。
 
ところが欧米では、
以前から「リベラル・ナショナリズム」
という考え方が浮かび上がっている。
 
「そもそも、共通の文化的基盤の
まったくない所で民主主義的な議論など
成立するのであろうか。
古代ギリシアのデモクラシーがポリスという
共同体と不可分なものであったことはいうまでもない。
西洋近代の民主主義の歴史を考えてみても、
それが国民国家の形成と表裏一体のもので
あったことは明らかであろう。
そうしたなかで1990年代に英語圏で
『リベラル・ナショナリズム』という
議論が登場してきた。
それは民主主義の文化的超越性・中立性に
疑義を呈し、ナショナルな文化や伝統が
反映した民主主義を考えていこうとする
ものである。
 
彼らにいわせれば、
そもそも共同体の連帯意識や
信頼感というものが前提になければ、
民主主義に必要な寛容や妥協は生まれず、
分裂や対立を招いてしまう。
その際、政治の場において機能すべき
共通のアイデンティティは、
やはりナショナル・アイデンティティ
であるという。
共通の『母語』に基づくことによって、
大衆も政治的議論に参加することができ、
連帯意識に基づく『平等』や、
誰もが多くの選択肢をもつ
『自由』を実現することができるというのである」
(田中久文氏)
 
わが国においても、
明治時代の民権論(リベラリズム)は
国権論(ナショナリズム)と手を携えていた。
 
最初の全国規模の自由民権結社の名前が
「愛国(!)社」だったのは、甚だ示唆的だ。
 
民権運動のロジックとしては、
次のような主張が掲げられていた。
 
「人のよくその権利を強固にして
その幸福を維持して、安全なることを
得る所以(ゆえん)は、国家あるが為なり。
それ国家の安危は実に一人の安危に関す。
ゆえに一国安んずれは一人また安んじ、
一国危うければすなわち一人もまた危うし」
(愛国社再興趣意書。一部、漢字をかなに開き、
また常用漢字に変更した)。
 
ナショナリズムとリベラリズムを
対立関係から“だけ”見るのは、
当たらないだろう。
高森明勅

昭和32年岡山県生まれ。神道学者、皇室研究者。國學院大學文学部卒。同大学院博士課程単位取得。拓殖大学客員教授、防衛省統合幕僚学校「歴史観・国家観」講座担当、などを歴任。
「皇室典範に関する有識者会議」においてヒアリングに応じる。
現在、日本文化総合研究所代表、神道宗教学会理事、國學院大學講師、靖国神社崇敬奉賛会顧問など。
ミス日本コンテストのファイナリスト達に日本の歴史や文化についてレクチャー。
主な著書。『天皇「生前退位」の真実』(幻冬舎新書)『天皇陛下からわたしたちへのおことば』(双葉社)『謎とき「日本」誕生』(ちくま新書)『はじめて読む「日本の神話」』『天皇と民の大嘗祭』(展転社)など。

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