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高森明勅
2020.5.24 06:00皇室

顕宗天皇・仁賢天皇の即位事情

歴史上、初めての皇統断絶の危機だった清寧天皇(22代)
の後の、顕宗(けんぞう)天皇・仁賢(にんけん)天皇
の即位。
この時の様子は古事記・播磨国風土記
・日本書紀に記事がある。

雄略天皇が市辺押磐皇子(いちのべのおしわのみこ)
らを殺害。
→皇子のお子様だったオケ・ヲケ王が逃亡。
→2王が播磨の豪族(忍海部造細目、おしぬみべのみやつこ
・ほそめ)のもとに暫く潜伏。
→それを朝廷から派遣された人物(来目部小楯、くめべの
・おだて)が発見。
→弟のヲケ王が即位(顕宗天皇)。
→兄のオケ王が即位(仁賢天皇)。
概略、以上のような展開だった。

2王発見の経緯が、“偶然の出来事”として、
極めてドラマチックに語られている。
しかし、それをそのまま史実と考えている歴史学者は
いないはずだ。
これまでの研究によれば、およそ以下の点が明らかに
なっていると言えよう
(田中卓氏「顕宗天皇の即位をめぐる所伝の形成」
『田中卓著作集10 古典籍と史料』・小林敏男氏「忍海氏
・忍海部とヲケ・オケ王」『古代王権と県・県主制の研究』
・廣瀬明正氏「顕宗・仁賢天皇と播磨国」『播磨古代史論考』
・熊谷保孝氏「顕宗天皇の即位の背景」
『摂播歴史研究』81号)。

①2王を保護した忍海部氏は、2王の叔母又は姉妹だった
飯豊皇女(いいとよのひめみこ)や、母方の葛城
(かずらき)氏と結び付いていた。

②保護されていた場所の縮見(志深、しじみ)は、
2王の祖父に当たる履中(りちゅう)天皇ゆかりの土地
だった。

③ヲケ王は別名「来目稚子(くめのわくご)」とされ、
2王を発見したという来目部氏とは“予め”特別な関係が
あった。

以上を勘案すると、2王は朝廷内の周到な配慮のもとで、
一旦は難を逃れ、

しかるべきタイミングで都に戻って、順番に即位されたと
考えるのが、最も自然だろう。

継体天皇が、天皇から5世も血縁が離れていても、
なお“王”の称号を持ち、君主の一族としての身分から
離れていなかったように、履中天皇の孫(3世)に当たる
2王は当然、皇族(王族)のままだったと考えなければ
ならない。

一旦、皇籍を離れた人物が、後から復籍して
即位した訳ではない。

そこを誤解してはならない。

【高森明勅公式サイト】
https://www.a-takamori.com/
高森明勅

昭和32年岡山県生まれ。神道学者、皇室研究者。國學院大學文学部卒。同大学院博士課程単位取得。拓殖大学客員教授、防衛省統合幕僚学校「歴史観・国家観」講座担当、などを歴任。
「皇室典範に関する有識者会議」においてヒアリングに応じる。
現在、日本文化総合研究所代表、神道宗教学会理事、國學院大學講師、靖国神社崇敬奉賛会顧問など。
ミス日本コンテストのファイナリスト達に日本の歴史や文化についてレクチャー。
主な著書。『天皇「生前退位」の真実』(幻冬舎新書)『天皇陛下からわたしたちへのおことば』(双葉社)『謎とき「日本」誕生』(ちくま新書)『はじめて読む「日本の神話」』『天皇と民の大嘗祭』(展転社)など。

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