ゴー宣DOJO

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倉持麟太郎
2020.10.17 09:14

『コロナ危機で「新しい生活様式」を上から押しつけられないためのヒント』を朝日新聞言論サイト「論座」に寄稿しました!

こういうのが書きたいのです。変態オタク系文章
学術会議とか、リベラルの敵とか力んでますが、私はこういうのが書きたくて仕方ないのです。
「新しい生活様式」などと上から押しつけられてますが、違和感と抵抗感しかありまへん。挙句、元総理への弔意を示せ?どこまで介入してくんねん。
そんな中、今回はベルリンフィルがコロナの様々な制限の中5月にたった10人で演奏したドビュッシーの「牧神の午後の前奏曲」を、「新しい生活様式」を押し付けられないためのヒントに書きました。
①オーケストラと民主主義は、本来、折り合いのつかない「個」が、一つの音楽や市民社会を構成してて、「部分」と「全体」の相互不可欠性と抜き差しならない緊張関係がある。
②そんな民主主義やオーケストラ芸術にとってコロナ禍の「3密禁止」や「ソーシャルディスタンス」は致命的。しかし、ベルリンフィルは確立した「個」の対話と寛容によってたった10人で新しい世界観を実現(エマニュエル・パユは調子乗りすぎ)
③実はたまたまベルリンフィルっていうんじゃなくて、ベルリンという都市の「プロテストシリコンバレー」的な新しさ(成熟社会における”アート”という付加価値)とドイツという国の文化が「生存に不可欠」という性質が密接不可分に関係しているのではないか
④オケと民主主義のアナロジーとしては、「タテ(国民―国家)」の関係は不信と監視で、「ヨコ(個人―個人)」の関係は信頼と寛容で特徴付けられる。ところが、日本ではむしろ逆で、権力(「お上」)を過剰に信頼し緊急事態宣言まで求めるのに、市民社会では自粛警察や同調圧力・相互監視によって不信と攻撃性が蔓延する。
⑤「新しい生活様式」は国家や上から決められるものでも押し付けられるものではない。我々一人一人が「個」としてどうあるかを自分の頭で判断し、その「個」相互の寛容な対話に基づいて創造し、獲得していくものである。指揮者ではなく、演奏者である我々一人一人のあり方にかかっているのだ。
100人ではなくても、10人でも、そして指揮者がいなくても、新しい音楽を奏でられるようなしなやかな社会を構築しようではないか。
ということで、以下引用
↓    ↓   ↓
「人は、上から与えられた空気のもと、皆で同じことをしているときに、“温い”自由を感じたりする。しかし、自由の本領は、人と違うことをしたときに問われる。あなたは本当に自由だろうか。私は真に自由を行使しているだろうか。
 自分の頭で考え、他人への寛容を携えながら自由を行使しよう。その結果、人と違ってもいいではないか。人はそのときはじめて、市民社会の奏者として自由を奏でている。
 先に紹介したドイツで緑の党結成にまで関与した“政治的”現代美術家ヨーゼフ・ボイス(1921-1986)は、一人一人が自分自身の頭で考え、判断し、行動するとすれば「誰だってアーティストだ(jeder Mensch ist ein kunstler)」と言い放った。
 魂の自由は知らぬ間に萎縮するし、人は一瞬で絶望する。しかし、社会に漠然と蔓延する空気を自明のものとして従う必要などない。そんなものに従って窮屈になったり窒息しそうになるくらいなら、まずは自分で考え、一番自分らしい「個」でいられることを最優先に生きよう。
 我々一人一人は、市民社会というオーケストラに欠かせないアーティスト。誰だってアーティストなのだ」
倉持麟太郎

慶応義塾⼤学法学部卒業、 中央⼤学法科⼤学院修了 2012年弁護⼠登録 (第⼆東京弁護⼠会)
日本弁護士連合会憲法問題対策本部幹事。東京MX「モーニングクロ ス」レギュラーコメンテーター、。2015年衆議院平和安全法制特別委員会公聴会で参考⼈として意⾒陳述、同年World forum for Democracy (欧州評議会主催)にてSpeakerとして参加。2017年度アメリカ国務省International Visitor Leadership Program(IVLP)招聘、朝日新聞言論サイトWEBRONZAレギュラー執筆等、幅広く活動中。

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