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高森明勅
2021.2.4 06:00皇室

皇室に「姓」があった?

わが国の皇室には「姓(せい、シナ父系制に由来する
男系血縁集団〔日本の場合は必ずしも厳密な意味ではない〕
を示す呼び名)」が無い。

しかし、過去に自ら姓を名乗った一時期がある。
それは5世紀だ。

当時、シナ大陸は南北朝時代。
その南朝の宋(そう)から冊封(さくほう)を受けていた。
シナ王朝と形式上の臣属(しんぞく、臣下〔しんか〕として
服属する)関係を結んでいたのだ。
いわゆる「倭の五王(讃・珍・済・興・武)」の時代に当たる。
『宋書(そうじょ)』を見ると、皇室は国名と同じ「倭」という
姓を名乗っていたことが分かる。

同書の「倭国伝」に「倭讃」(421年)とあり、
「文帝紀」元嘉(げんか)28年(451年)7月条に「倭王倭済」
と出て来る。
前者だけなら、「倭王讃」の略称と解釈できる余地もある。
だが後者の場合、「済」という名前の前の「倭」は、明らかに
“姓”と考える他ない。

王ではないが、「倭隋」(438年)という人物名も確認できる。
これも同じ一族の人物と見ることができるだろう。
これらによって、この頃、皇室は「倭」の姓を名乗っていたと
考えられる。

但し、それはもっぱら宋との冊封関係の中で、
対外的な“仮の”姓として用いられたに過ぎなかったようだ。
国内で同時代に倭姓を名乗った形跡は、皆無だ。
稲荷山鉄剣銘(471年)や隅田(すだ)八幡神社人物画像鏡銘
(503年)を見ても、倭姓は遣(つか)われていない。
倭王武(雄略天皇)の478年の使者派遣を区切りとして、
事実上、宋との冊封関係にピリオドを打つ。
再びシナ王朝との交渉を始めるのは、推古天皇の時代の
第1回遣隋使(600年)から。
もはや冊封関係には戻らなかった。
なので、姓を名乗ることも止めている(当初、隋側は「阿毎〔アメ〕」
という姓を名乗っていると誤解したようだが)。

以後、武家権力が一時的にシナ王朝との冊封関係を
結ぶことはあっても、天皇ご自身がそうした関係に戻られることは、
二度と無かった。
その結果、対外的に姓を名乗ることもそのまま途絶えて、
現代に至っている。

万が一、日本が朝鮮半島の場合のように、長くシナ王朝との
冊封関係を維持していたら、皇室も「倭」という姓を帯びる
結果になっていたかも知れない。
わが国の場合、最初の女性天皇だった推古天皇が
(シナ皇帝への臣属又は下位の地位を示す)「王」の称号を廃され、
自ら(シナ皇帝の下位には立たない)「天皇」を称されることで
(608年)、冊封関係から訣別(けつべつ)した。
それはシナ文明圏から脱却する第一歩であり、
政治的自立への姿勢を表示する意味を持った。

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https://www.a-takamori.com/

高森明勅

昭和32年岡山県生まれ。神道学者、皇室研究者。國學院大學文学部卒。同大学院博士課程単位取得。拓殖大学客員教授、防衛省統合幕僚学校「歴史観・国家観」講座担当、などを歴任。
「皇室典範に関する有識者会議」においてヒアリングに応じる。
現在、日本文化総合研究所代表、神道宗教学会理事、國學院大學講師、靖国神社崇敬奉賛会顧問など。
ミス日本コンテストのファイナリスト達に日本の歴史や文化についてレクチャー。
主な著書。『天皇「生前退位」の真実』(幻冬舎新書)『天皇陛下からわたしたちへのおことば』(双葉社)『謎とき「日本」誕生』(ちくま新書)『はじめて読む「日本の神話」』『天皇と民の大嘗祭』(展転社)など。

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