4/27に書いた「陛下を〝玉音放送〟に追い込んだ不徳」を繰り返さぬための記事にも掲載した、菅野志桜里氏のXポスト。
こちらはその後、橋下徹も賛同のポストを投稿するなど(良い事はきちんと評価するよ)、反響を呼んでいます。
そんな中、日本維新の会所属の衆議院議員であった(昨年の総選挙時に引退)足立康史氏が、長文で反論のポストを投稿しています。
まず、こうしてきちんと「まとまった論説での反応」を行う足立氏の姿勢そのものは素晴らしいと感じます。
Xというツールを「ただのゴミ溜め」にしてしまわないためには、こうしたスタンスは何より重要であり、足立氏の投稿は百凡の脊髄反射ポストとは一線を画すものである事は、最初に述べておきます。
さて、
そのスタンス自体の誠実さは認めつつ、論説の内容を見ると…こちらには「?????」とならざるを得ません。
まず冒頭部分、ここで既にレトリックが使われています。
菅野志桜里さんが、立憲民主党の提案に沿って、女性皇族が結婚した場合の夫や子どもの身分について、法律(おそらく皇室典範のこと)で決めず「皇室会議で決める」こととすべき、と一見もっともらしいことを仰っています。橋下徹さんも支持表明されています。
菅野氏のポストにおいて「皇室会議案」は、「一考に値」と書かれていますが、足立氏の文中では「『皇室会議で決める』こととすべき」と記載されています。
実は両者の間には、あまりにも大きな意味合いの違いが存在します。
菅野氏のポストの根底にあるのは、一つの家庭の中に皇族と一般人という2つの身分が混在してしまう事が、門地による差別なども含め「一般国民が自然体で理解し納得できる」範疇を超えて、国民と皇室の相思相愛による安定した皇室維持に悪影響を及ぼすのでは、という問題提起です。
そもそもが、女性皇族の配偶者や子を皇族としないという意見は、国民世論の傾向や当事者たる皇族方の意思にも依らない「政治権力にまつわるポジショントーク」的な色合いが強いもの。
自民党の麻生最高顧問との会談中で「皇室会議案」を提示したと報じられている立憲の野田代表にも、放置すれば政治的勢力構造の中で押し通されてしまう状況に「理」の余地を残すためのギリギリの手段、という思いがあったと推察されます。
それは全て、「安定的な皇位継承」という本質から遊離した「皇族数の確保」という即物的なテーマで会議が行われている事に問題の発端があり、ポーズではなく本気でこの問題に取り組むなら、法整備としてのロジカルな部分と、国民と皇室の関係性といった情緒的概念を横断したバランス感覚が不可欠です。
菅野氏のポストは、特に後半1/3の展開に、こうした感覚が絶妙に反映されており、現在の政界における皇室議論においてはまず見られないような共感を、一国民の立場として大いに抱かされます。
一方、足立氏のポストは、「一見もっともらしい」制度設計の論説に終始するあまり、むしろ論理の面で数々の綻びが生じています。
例えばこちら
今回の「皇室会議」の活用案も、皇室典範に定められている皇室会議の権能を無視した提案であって、可能でもなければ適切でもありません。
皇室会議の権能は、1)皇位継承順位の変更、2)男性皇族の結婚相手認否、3)皇族が皇族の身分を離脱することの認否、4)摂政を設置また廃止する、5)摂政順位の変更の5つに限定されており、あくまでもルールの運用を担っているのであって、本来は皇室典範に定めるべきルールを“丸投げ”してよい機関ではありません。
本テーマは、いかなる決定も「皇室典範の改正」が必ず必要になります。その場において、皇室会議の機能において「現行の皇室典範ではこうなっている」と言っても「…いや、そもそも、それを変えるための議論でしょ?」で終わってしまいます。
足立氏、「否定のための否定」に陥ってない?(伏線その1)。
さらにこちら
議論の余地があるとすれば、皇室典範において明記したルールの運用を委ねることです。本件について言えば、女性皇族が結婚後も皇室に残る場合にも配偶者や子どもは皇族としないとルールを皇室典範に明記した上で、その例外等の運用に係る認否を皇室会議に委ねることが、せいぜいではないでしょうか。
なぜここで、数々の問題点が指摘されている「配偶者や子どもは皇族としないとルール」が前提となるのでしょうか?何らかの「結論ありき」にしか見えません(伏線その2)。
菅野氏のポストで具体的に示されている問題提起を全部すっ飛ばしてしまっている時点で、足立氏の言は「議論から自ら降りた」も同然です。
議論とは単なる「言葉の応酬」ではなく、テーマに基づいた問題提起と、それに対する回答の積み重ねです。足立氏のポストにおける言説は、議論としては「体をなしていない」レベルであり、多くの政治家が用いる「ポジショントークとしての主張」の殻に収まったものとしか、私には見えません。
「たかがXのポスト」であっても、こうして「現物そのもの」を比較してみると、菅野志桜里という人のアウトプットの精度・濃度・熱量がいかに強いか、残酷なまでに顕在化されます。
さて、ここからは菅野氏関係なく、とっても性格の悪い大須賀個人の娯楽として「伏線」回収ターイム!
本文中で「伏線」と書いている箇所で示しているように、足立氏の言説には「奥歯にものがはさまったような」歯切れの悪さが通底してるんですよね。何かしらの「前提」を元にしか言葉を発していないような。
それは何か…と考える前に、このポストのツリーに貼られていた告知でぜんぶ氷塊しちゃいました。
なーんだ、自分の頭でモノを考えられないタイプのダンケー固執さんの「ポジショントーク」だったのね!(おあとがよろしいようで)。