憲法記念日の本日、様々な政党・政治家・言論人から憲法にまつわるコメントが出されましたが、その中でも特に「力」を感じたのがこの人の言葉。
「ガラス細工」は主に護憲派の論客に用いられてきた「叙情的表現」ですが、そこに対して「骨太の鉄骨仕様」という(「ガラス細工」と同じ)比喩表現も交えて、現実に根ざした改憲の必要性を主張しています。
こうした、右脳(直感)と左脳(ロジック)を自由に行き来する思考(それこそが「思想」)の形は個人的に大好きで、読んだ私の脳内にも様々な言葉が溢れてきました。
冒頭の比喩に使われている「ガラス」という物質。一見したその様相は「固体」であり、下手に触ると壊れて(役割を果たさぬ状態に、不可逆的に変形して)しまうからというのが「素人は触るな」という警告めいた言い回しに使われた所以でしょう。
一方、ガラスは分子が規則正しく並んだ変形しにくい結晶=固体ではなく、分子がランダムに並んでいる構造から「液体」だとする説も存在します。
ガラスという物質は、このどちらにも完全に属さない性質から「アモルファス」(非晶質)という分類がなされるそうです(あくまで、雑学的な領域での理解です)。
頑なな「護憲」も、(肝心の内容についての議論を置き去りに目的化した)「改憲」も、原理主義化してしまうとその実体の本質から離れてしまう。
そうした意味で「憲法(特に9条)はガラス製」(=アモルファス)というのは(元々の意図とは違った観点で)あながち間違いではないかも?などと考えたりしました。
ただし、アモルファスはあくまで「玄人の論理」に属する概念であり、(学問としては意義があっても)そこの議論だけをしていたら、ガラスは建築にも食器にも光学にも、実用的な側面では全く役に立ちません。
「鉄骨仕様の建物」は、具体的な実行を大前提とした「スクラップ&ビルド」の考え方。永久不変ではありませんが、現状にマッチした最適の建築が可能で、一定の耐用年数中は高い堅牢性が得られます。
もちろん鉄骨仕様の建物にもやがて耐用の限界が訪れますが、そこで再度「設計の見直し」を行える(行う必要がある)のは、手間を超えたメリットがあるとも捉えられます。
現実に即さない固執の先には、ただ朽ちるだけの未来しか無い。しかし、一口に鉄骨仕様と言っても、歴史や土地柄との連続性を失った無味乾燥なだけの建物にはしたくない。
この合間の部分の葛藤に向き合う姿勢こそが、「アイコン」的な存在に堕ちてしまった「保守」や「リベラル」といった語を超えた力強さを持つ、「生」への姿勢だと感じます。
現在の日本において、そんな「過剰な生命力」をフルに滾らせた菅野志桜里と小林よしのりがサシでぶつかり合う明日の「志桜里応援DOJO」、今から楽しみでなりません!
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