デイリー新潮の記事。
この中で、宮内庁OBの談話として次のような一節があります。
皇室が世界最古の王朝と呼ばれるのは、時代の潮流に皇室が柔軟に対応してきたからではないでしょうか。必要な変化は受け入れる、しなやかさがあることが皇室の伝統なのです
これはまさにその通り。その上で、記事のタイトル(新潮のこの記事特有というより、一般に多用される言い方として)にあるような「伝統」と「変化」を対立軸に置いたような表現こそが、ここで扱われているものに限らない様々なテーマにおいて、本質への思慮を妨げていると感じられてなりません。
「伝統」と「変化」は対立概念どころか、一体であり不可分な存在です。
社会におけるシステムに、永久不変のものは存在しません。むしろ「年表に記されるような歴史」は、システムが変化したり、またそのきっかけとなるような出来事の列挙そのものです。
「伝統」は、システムや決まり事を原理主義的に変えない事ではなく、むしろ「必ず訪れる変化に対応し、そこから未来を紡ぐための知恵と気概」に他なりません。
言い方を変えれば、眼前の現実に向き合い、考え、そして責任を負う事への気概を持って臨む事が「伝統」の実体そのもの。伝統は固着したものではなく、常に「生き物」です。
その姿勢を、日本で誰よりも全身全霊で体現されているのが天皇陛下。
だからこそ国民は、天皇・皇室に敬意を持ち、その御代に(共に生きる)「時代」を感じるのです。
「先例」は「新義」の積み重ねであり、知恵を得るための貴重な存在であるはずが、いつのまにか臆病者がマウントを取るための道具にされてしまいました。
自分は本当にちっぽけな、事あるごとに悩んでばかりの無力な存在ではあるけれど、卑怯な臆病者だけにはならずに生きて行きたい。