ゴー宣DOJO

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切通理作
2010.7.13 21:38

「島国」日本人の歴史的主体

   
   参院選の翌日、みんなの党で躍進した渡辺喜美さんが「沖縄の問題は重いんですよ」とワイドショーで言いました。みのもんたさんが「沖縄県民はいまの渡辺さんの言葉を聞いて嬉しいんじゃないかな?」とそれを受けました。

   このように「沖縄の問題は重い」「沖縄県民の気持ちを配慮すべき」というところまでは、テレビでも頻繁に耳にします。

  しかしそれ以上のことは、なぜかタブーになっている気がします。

       7月11日(日)の「ゴー宣道場」第4回『沖縄の歴史と米軍基地を語る作法』に伺わせていただきました。

  小林よしのりさんのメッセージ、宮城能彦さんの基調講演をはじめとする道場主の皆さまのお話を伺い、「沖縄問題」は局所の「県民感情」ではなく、日本国及び日本人が問われている問題であるということが浮き彫りにされました。
 
  基調講演の冒頭にあった、日本人の原郷が沖縄にあるという認識の中で、それを提示した人物の一人として「柳田國男」が挙げられていました。

  おぼえていらっしゃる方もいるかもしれませんが、私はかつて「わしズム」で、柳田國男から読みとれるものについて書かせていただいたことがあります。

  宮城さんのお話をうかがいながら、そのことを思い出していました。私は柳田國男を読むことで、彼の「日本人の原郷が沖縄にある」という言い方には、民族の起源論に帰して論じるだけではおさまらない認識があることを感じました。
  
   柳田國男の認識は、日本人が海に囲まれた海洋民族だというものです。つまり日本列島という「島」に住んでいるのだと。

  ところが日本人の多くはそれを認識しておらず、海洋に対する関心も希薄です。せいぜい「島国根性」などと言って、ムラ社会の閉鎖性を象徴あるいは自嘲する時に「島国」という言葉が使われるぐらいです。
  
  柳田國男は沖縄および南島の小さな島に注目することで、大きな島たる本州が抱えたものと同じ問題が、より凝縮され尖鋭化され、ある意味より過酷に問われていることを示しました。

  たとえば近代化の過程で中央に同化されるということは、宮城さんのおっしゃられるように、沖縄でより見えやすくなっているということだけで、地域の独立性という現状を見たとしても、どこの地方だって補助金なしではやっていけないのは変わらない。

  そして沖縄でより見えやすくなっているのは「日本の敗戦国性」です。唯一の地上戦が行われ住民の3人から4人に一人が亡くなった沖縄は、ある意味「負け戦」のありようの歴史的な<いい参考材料>であると宮城先生はおっしゃいました。
  沖縄戦は、もし「本土決戦」になっていたら日本がどうなっていたのかを考えるための機会であり、また、沖縄が日本である以上、沖縄戦そのものが日本人の「本土決戦」の体験であると捉えなければならないのだと再認識させられました。

  
  所謂「日本軍の住民への残虐行為」とされることでも、従来そこを事挙げるとすぐに右と左に分れての事実論争になってしまいがちでしたが、より本質的に考えるべきなのは、地上戦が行われた場合、空襲などで敵の顔が見えない近代の戦争において、住民が直接相対するのは日本軍であるということなのだと、改めて気付かされました。
  沖縄県民はそこに軍民一体としての熱い気持ちも抱けば、もし裏切られたと感じた出来事があったとしたら深い傷も負う。
  沖縄県民の感情は日本人が戦争を考える上で「配慮しなければならないもの」ではなく「自分たちがどうであった(かもしれない)のか」を考える礎と捉えてしかるべきなのだなと思いました。

  もちろん、それは「既に過去になった」という意味での歴史認識ではあり得ないでしょう。

  沖縄には現在も米軍基地がある。領土主権が侵され続けている。その「敗戦国の現実」に晒され続けているということが、「沖縄県民の」(だけ)ではなく、日本人全体の「現状認識」としてベースになければならないのではないかと。

  日本人は基地のフェンスの中に立ち入れず、その向こうには広大な土地で手足を伸ばした生活をしているアメリカ人が居る。その光景自体は日常の中では見慣れたものになっていて、近隣で生活している人にとっては、日々いちいち問い直すまでもないことになっているかもしれない。
 しかしたとえば少女暴行事件が起き、罪を問われるべき米兵がそのフェンスの向こうの自由に放たれていった時、あのフェンスの中に居る者たちは、かつて地上戦で我々の家族を殺したのと同じ存在であり、敗戦とともにその彼らに組み敷かれているままなのだということが、まざまざとよみがえる。
  
  小林さんがおっしゃっていた<歴史的存在>としての人間性が蘇る瞬間です。
  政治家や学者、思想家といった一部の人を除けば、誰だって、普段は生活第一であり、現況に対して日々再提起していく余裕も時間もないでしょう。
  身近な人が理不尽なことで怪我をしたり亡くなっても、それは流れ星が地球に当たるのと同じ確率だと割り切って、自分の生きている実感の方が優先される。それもある意味、人間のごまかしきれないありようでしょう。
  しかしある瞬間、歴史的経緯の中に立たされた自分というものがあらわになる。

   
  沖縄の人々の中の「日本人としての怒り」が蘇ったということ。
  それを沖縄という局所の「県民感情」として押し込めて、考えないですませていいのだろうかと思います。

  
  普天間基地の問題は「日米同盟か沖縄県民感情か」ではなく、日本人という主体がアメリカひいては国際社会とどう相対するのかという問題であり、「憲法改革派も護憲派もその覚悟がない限り矛盾を沖縄に押しつけ続ける」という宮城さんのお話に、所謂「本土」と言われている側に住む同じ日本人として、射抜かれるものを感じざるを得ませんでした。

  
  テレビでも頻繁に沖縄の話題がなされながらも、「日米同盟か沖縄県民感情か」という以上に話題が進まない理由。それは実は日本人である我々自身に問われなければならないことなんだなと。
  一番問われなければならないことが、テレビでも口にされることが少ない。堀辺正史さんが「タブーになっている」とおっしゃるのも、そうかもしれないと思わされました。
 
  高森明勅さんの「沖縄は本来ナショナリズムが不断に問われる土地なのに、保守が一番タブーにしなければならない地域になってしまった」という発言にもハッとさせられました。
 小林さんがそれを受けて「親米保守の立場には、ナショナリズムを封印しないと立てないのだ」とおっしゃっていました。

 
  しかしそれは、小林さんも普段から言っているように、論壇で発言権を持っていたり、マスコミで煽りたてる側の立場であって、一般の人たちの底に眠っている<歴史的存在>に響く公論というものがあり得るのだと信じたいし、そこから逆に影響を与えていくようなことが出来たらいいな、と、(私はただ末席でお話をうかがっていただけですが)気持ちが大きくなったような気がいたしました。

 
  それはつまり、小林さん宮城さん、高里洋介さん、砥坂芳行さんの座談会本『誇りある沖縄へ』のあとがきで宮城さんがおっしゃっていた「沖縄の側から日本を攻めていくべきだ」という言葉の持つ意味合いのひとつでもあるのではないかと思いました。
  つまりここでいう「沖縄」とは、場所のことだけにとどまらないのではないかと。
  11日のゴー宣道場は、沖縄に内在するものを知ることで日本人である我々のことが知れる、とてもいい機会でした。

  ほぼ全編を無料で動画配信することを考えておられると伺いましたが、一人でも多くの人に見て、聴いて、考えてほしいです。

切通理作

昭和39年、東京都生まれ。和光大学卒業。文化批評、エッセイを主に手がける。
『宮崎駿の<世界>』(ちくま新書)で第24回サントリー学芸賞受賞。著書に『サンタ服を着た女の子ーときめきクリスマス論』(白水社)、『失恋論』(角川学芸出版)、『山田洋次の<世界>』(ちくま新著)、『ポップカルチャー 若者の世紀』(廣済堂出版)、『特撮黙示録』(太田出版)、『ある朝、セカイは死んでいた』(文藝春秋)、『地球はウルトラマンの星』(ソニー・マガジンズ)、『お前がセカイを殺したいなら』(フィルムアート社)、『怪獣使いと少年 ウルトラマンの作家たち』(宝島社)、『本多猪四郎 無冠の巨匠』『怪獣少年の〈復讐〉~70年代怪獣ブームの光と影』(洋泉社)など。

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