ゴー宣ネット道場

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切通理作
2010.9.23 00:51

第7回ゴー宣道場に向けて その2 動物かもしれない

       ゴー宣ネット道場で番組をやらせていただくことになった時、僕の母親から「小林よしのり氏に関わるのはよくないのではないか」と言われたということは、9/22に書きました。
  僕の文筆活動において、右翼的あるいは好戦的な色が付きすぎることを心配している母は元教員。教員当時は日教組で、反戦平和主義です。
  けれど上の「助言」は、左翼イデオロギーというより、波風の起こる場所に巻き込まれない方がいいという、生活保守的な心のありようによるものでしょう。
  
  平和な池に水紋すら起こしたがらない母でさえ、しかし思わず空耳でないかというようなことを言うことがあります。
  たとえば母は文藝春秋に載っている芥川賞受賞作はだいたい読むのですが、金原ひとみさんの『蛇にピアス』を読んだとき、「子どもたちの世界って、大人の見えないところでこういう隙間や自由がある方がいい」みたいなことを言うのです。教師であり倫理観の塊のような母が、ピアス拡張とか刺青、殺人といったアンダーグラウンドな行為あるいは世界を、そのような観点からは当たり前に受け止める感覚も同時に持っているのです。

  そして母は残虐な少年犯罪のニュースを耳にする時など、9・9割教育者的な意見を述べるのですが、ごく稀に「大人からは見えない子どもたちの自由時間」論をかますのでした。その度に、聞き間違いなのではないかと狐につままれた気分になります。

  先日『せつないかもしれない』にゲストに来て下さった伏見憲明さんの、文藝賞を受賞した作品『魔女の息子』は、作者を思わせる人物が老いた母親を介護する話ですが、このお母さん、戦中戦後を生きてきたごく普通のおばさんなのですが、作品の終わり頃になって、街頭で反戦運動をしている著名人の手を取り「がんばってね」と励ました後、こう言うのです。
 「でもね、世の中には絶対にやっちゃいけないってことは、ないのよ!」

  ごく普通の人の中にある振幅。本人も意識しない混沌。それはある意味あって当然で、ある程度コントロールして表に出すことが出来るのは、物書きや表現者だからなのかもしれません。
  
  たとえば『せつないかもしれない』の第7回でゲストに来ていただいた友松直之監督の「レイプ肯定論」には、僕もヒヤヒヤしましたが、小林よしのりさんが「ああいう視点も、排除しちゃいかん」とおっしゃってくださってホッとしました。

 
 僕はあの時ヒヤヒヤしながらも「なるほどそういう見方もあるのか」と思ったのは、愛の歪められた形が暴力なのではなく、愛こそ暴力だという友松さんの主張です。
  
   正確には愛イコール暴力というよりは、それ自体に倫理はないということ。

   たとえば男女の「恋と性欲」すら実は区別する必要はあるのか。
   
    あるいは動物の性欲は生殖のためだから純粋で、人間は欲望でしているという言い方になんとなくそうかなと思ってた私ですが、友松さんのレイプ肯定論を何度か聴き、友松さんの飼っているリクガメの話を聴いていたりしてるうちに、そんな分け方に意味はないのかなと思えてきました。

  友松さんは家ででかいリクガメを雌雄ペアで飼育しているのですが、オスは年中欲情しているそうです。
  目の前にメスが同居していたら性欲のコントロールはできず、突進して「マウンティング行動」に出るオス。
 
 マウンティングはカメの求愛行動で、メスが受け入れれば交尾になりますが、受け入れずに後肢を甲羅にしまってしまうと交尾できず、オスはいつまでも無駄にマウンティングを続けます。

  友松さんのとこのオスはマウンティングのやり過ぎでお腹の甲羅にヒビが入ったそうです。また 不自然な二足姿勢のために後肢の関節を脱臼したこともあるといいます。

 友松さんはそのたびにオスガメを動物病院に運び込んで治療するとのこと。

  でもカメ自身は「怪我をするかもしれない」とか「病院に行かなきゃならないかもしれない」「友松さんに迷惑がかかるかもしれない」などとは考えないわけです。

 僕も身近な動物のことを考えてみると、たとえば猫って手で窓を開けて入るぐらいの芸当は出来ますが、決して閉めることは覚えません。窓を開けたままでは困るというのは人間の都合であって、猫にとっては関係ない。

 それと同じで自発的に避妊なんかしないし、する術もない猫は、種としてはともかく個体にとって、自分がするセックスが「生殖のため」という意識はないのかも。

 ただ衝動にかられてやってるだけかもしれない。

 オス猫は産んだ子をその後かまったりしないし、メス猫だって母親役は乳離れするまでです。 で、一生のうちにオスは何度もメスと交尾し、メスは何回も子どもを産む。
 
  「生涯この人だけ」なんて考えないし、「生涯子どもは×人まで」なんてライフプランもナシ。
  猫が増えすぎたら地域が困る・・・・・なんてのは人間の都合でしかないのだから、出産制限をする必要もない。
  
  そもそも衝動としてのセックスと生殖としてのセックスを分けるということ自体、動物にとって意味がないのかもしれません。
  人間も同じ動物なのだから、友松監督も言うように公序良俗や倫理道徳なんて、個体としてのその人の素のままの姿とはズレていて当然。
 
  そう考えると、たしかに友松監督は当たり前のことを言っているのかもしれないと思いました。

  もちろん、だからといって無秩序に子どもを産みまくるのがよく、レイプもし放題でいいとは僕は考えません。

  ただ、いったん理性という拘束具を外し、人間という生き物を見つめ直してみると、逆に言えば人間の社会的知恵としての理性の重要さもわかってくると思うのです。
 
     「戦場の狂気」と呼ばれるものも、戦場だから狂気だというのではなく、具体的な局面について「なぜそうなったのか」ということを捉え直していくことも出来ると思うのです。

 善悪の彼岸に立つということは、「悪になる」ということではありません。その逆もしかり。

 笹幸恵さんが第5回ゴー宣道場で、過去の行いが「全部悪かった」というのも「全部正しかった」というのも、結局は自分が気持ち良くなるための言葉に過ぎず、どちらも客観的な自分の姿を見ていない、とおっしゃっていましたが、動物と変わらない人間というものを直視することも、客観視という点では重要かもしれません。

切通理作

昭和39年、東京都生まれ。和光大学卒業。文化批評、エッセイを主に手がける。
『宮崎駿の<世界>』(ちくま新書)で第24回サントリー学芸賞受賞。著書に『サンタ服を着た女の子ーときめきクリスマス論』(白水社)、『失恋論』(角川学芸出版)、『山田洋次の<世界>』(ちくま新著)、『ポップカルチャー 若者の世紀』(廣済堂出版)、『特撮黙示録』(太田出版)、『ある朝、セカイは死んでいた』(文藝春秋)、『地球はウルトラマンの星』(ソニー・マガジンズ)、『お前がセカイを殺したいなら』(フィルムアート社)、『怪獣使いと少年 ウルトラマンの作家たち』(宝島社)、『本多猪四郎 無冠の巨匠』『怪獣少年の〈復讐〉~70年代怪獣ブームの光と影』(洋泉社)など。

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