ゴー宣ネット道場

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切通理作
2011.4.15 00:21

「設計主義」と近代の限界

小林よしのり代表師範が被災地に行っている間、師範の一人として私もブログを出来るだけ書かせて頂きたいと思います。

「あなたは、食い逃げを現実に見たことがありますか?」という書き出しで始まる本があります。

ベストセラー『さおだけ屋はなぜ潰れないのか』の著者が書いた『食い逃げされてもバイトは雇うな』という本です。

食い逃げなど滅多に起こらない。それを防止するために、カウンターの中とドア近辺に二人もの人を雇うのは、非効率ではないか? もしあなたの店が、ドアの前に立たせておくだけの人員としてバイトを雇っているとしたら、そんなに無駄なことはありませんよ、という趣旨でした。

おそらく著者は、この喩え話から、世の中の色んな物事に当てはめてものを語っていくのだろうなと思いながらも、この本を立ち読みしていた私は、前書きで本を閉じてしまいました。

なんともいえない違和感を持ったからです。

こんなことが蔓延したら、人々の社会に対する信頼は崩壊し、確率論として今日を生きながらえているだけの、スラム化した社会になってしまうでしょう。

いや、もうそうなっているかもしれない……という一種のニヒリズムとして世に警鐘を鳴らしているのならともかく、ベストセラーを出した有識者が、世間に疑いもなく訴えるようなことでしょうか。

ゴー宣ネット道場の「せつないかもしれない」で小林よしのりさんの『修身論』をテーマにさせていただいた時、この本への違和感を口にしました。

それを震災後に知って「すごく共感した」とTwitterでつぶやく人がいました。


<「食い逃げされてもバイトは雇うな」に理作さんが『違う』と示した異論にすごく共感した。
3.11以降に広く表面化した危機管理問題もまさに「食い逃げされてもバイトは雇うな」論理が大きな原因だしなあ。>


これを読んで、たしかにまんま当てはまるな、と思いました。


大地震のような滅多に起こらない「想定外」の案件のために人員を割いたり、コストをかけるほどバカバカしいことはない……


危険な確率が少ないならその確率には目をつむるというのは、第
12回ゴー宣道場で小林よしのりさんが言った「設計主義的な発想」です。


原発の問題というのは、震災における建築物の安全性という問題と結びついて
います。


現場で全体を見れる左官職人が居なくなって、それぞれのパートを担当している人間だけになった時、建物の安全性というものは保証できるのかということが、震災後論議になっています。


<ひとむかし前までは、現場作業には、棒心(ぼうしん)と呼ばれる職人、現場の若い監督以上の経験を積んだ職人が班長として必ずいました。職人は自分の仕事にプライドを持っていて、事故や手抜きは恥だと考えていましたし、事故の恐ろしさもよく知っていました。それが十年くらい前から、現場に職人がいなくなりました。全くの素人を経験不問という形で募集しています。素人の人は事故の怖さを知らない、なにが不正工事やら手抜きかも、全く知らないで作業しています。それが今の原発の実情です。>


 これは、二十年間原子力発電所の現場で働いていた平井憲夫さんが「私は原発反対運動家ではありません」とことわった上で、『原発がどんなものか知ってほしい』という文章をしたためた中の一節です。

 http://www.iam-t.jp/HIRAI/pageall.html#page3


 図面も見ずに、工場である程度組み立てた物を持ってきて、現場で1番と1番、2番と2番というように積木を積み重ねるようにして合わせていく。自分が何をしているのか、まったくわからないままに造っていく。それが事故や故障がひんぱんに起こるようになった原因のひとつだ……と平井氏は言います。


 「現場の左官なんか不必要。中央で管理していればいい」というのがまさに近代的な「設計主義」です。


 加えて原発は、被爆の問題があって防護マスクで身振り手振り作業を伝えるしかなく、また継続的に働ける職場ではないので、現場を知る後継者が育たないという問題があります。


 そのような問題を抱えながら放射能という、一世代二世代では扱い切れないシロモノを相手にするということ自体が、大きな矛盾と言っていいでしょう。


 原発事故は、まさに近代そのものの限界を示しているのではないでしょうか。


 東電を批判するばかりではなく、いま自分たちが住んでいる家、出入りする建物、そして職場における現場と管理の様子がどうなっているのか、根本から考え直す時期が来ています。


 これ、実はゴー宣道場で問題にしている<若者論>ともおおいに関係あると思います。

 

 自分たちの働く現場が、上から教育された仕事を後輩に引継いでいく「担う意識」の相互関係として育まれてきたという歴史を手放して、「即戦力」ばかりを求め、本来経験もなく、右も左も分からなくて当然の新卒者を「育てる必要がない」という社会のあり方。


 かつて私は、こちらのブログで、若者の就職問題に関して、次のように書きました。

<世代間で分断され、想像力すらも持てない

社会は、つまり「歴史性を否定した社会」です。


はじめから完成したパッケージのような

「労働力」を求めるということ自体、

コンビニで出来上がった商品を買うようなものでしょう。

このままでは企業の側にも歴史性がなくなってしまう。

これから社会に出て(入って)いこうとしている若者たちに

一方的に責任を負わせていい問題のはずがありません。>

2011/03/07 「世代間の分断」は歴史性の否定)


 高森明勅師範が、東北を経済特区にして外資を入れろという雑誌「AERA Biz」最新号の「東北植民地論」を批判したのも、「歴史性を否定した社会」になることを危惧してのことだと思います。


 それは小林よしのり代表師範が「あと3年で世の中を変えなければならない」という発言の、なにを「変える」のかの本質でもあります。


 震災という大きな宿命を負い、それがあらわになったいまのわれわれ日本人は、だからこそ、近代をいの一番に乗り越え、考え直す姿勢を世界に示そうではありませんか!

切通理作

昭和39年、東京都生まれ。和光大学卒業。文化批評、エッセイを主に手がける。
『宮崎駿の<世界>』(ちくま新書)で第24回サントリー学芸賞受賞。著書に『サンタ服を着た女の子ーときめきクリスマス論』(白水社)、『失恋論』(角川学芸出版)、『山田洋次の<世界>』(ちくま新著)、『ポップカルチャー 若者の世紀』(廣済堂出版)、『特撮黙示録』(太田出版)、『ある朝、セカイは死んでいた』(文藝春秋)、『地球はウルトラマンの星』(ソニー・マガジンズ)、『お前がセカイを殺したいなら』(フィルムアート社)、『怪獣使いと少年 ウルトラマンの作家たち』(宝島社)、『本多猪四郎 無冠の巨匠』『怪獣少年の〈復讐〉~70年代怪獣ブームの光と影』(洋泉社)など。

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