ゴー宣ネット道場

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切通理作
2011.7.4 02:35

人は変わっていくことができる

僕は、ゴー宣道場に参加する前、

あるいは参加してしばらく経つまで、

こんな風に思ってました。

「自分ももう40代後半。

いままで培ってきたことの上で

努力するのはいいけど、

いまさら違う生き方は出来ない」


……しかし、いまは違います。


そしてそのことが、世の中を考える点でも

大きな転換点になっています。

いま、

原発反対の人は推進側に対して、

人を殺してまで利益を優先する「悪人」の像を押しつけ、


原発推進の人は反対する側に対して、

現実を見ていない「空想主義」、

あるいは科学技術の発展によって得られた文明を

なしとする郷愁的発想なのだと言います。


前回のゴー宣道場で原発をテーマにする時、

そこを超克しなければならないと考えました。


高森さんのおっしゃるように、

原発は安全性の点でも、

経済的なエネルギーであるかどうかという点でも、

問題がある……と言うことが出来る。


その上で

原発推進派は「悪者」ではなく、

彼らなりに見ている現実があるとすれば、

それはなんなのか、ということを僕なりに考えました。

存続にせよ廃止にせよ

核というものは消えてなくならない。

その危険性と付き合い続けなければ

いけないのだから

安全性に緊張感を持ちながら

政策として続けていく方が、

常にそれを「忘れないで済む」という

考えがあるのではないか……という仮説を述べました。


つまり、人間というのは

そうそう変われないのだから、

それを前提にして未来を考えるというのが

一種のリアリズムではないかと。


道場では、

段階的廃止論に理解を示す流れになったと思います。


その上で、小林よしのりさんの、

「段階的廃止論すら、地震は待ってくれるのか」

という言葉が、

雷鳴のように「現在」を切開し、

「いまここ」に

改めて立たせてくれたと思います。


人は過去を安定的な世界のように思って懐かしんだり

未来に「いま」より進んだ自分を託して「先送り」したりする。


しかし大事なのは、

「いま」この自分が変わっていくことではないのか。

それは「人は変わっていくことができる」という

小林さんの信頼だと思います。


人は大人になるにつれ、

過去自分がいまの自分になるために

どれほどの営みがあったのかを

忘れてしまいがちです。


とりわけいまの時代は

パッケージ化され、

24時間コンビニで生活必需品が手に入り、

最初からあまりに「完成されたもの」を

享受しています。


かつて文明は、人々が坂の上の雲を

見るための「光」でした。

それを達成するために

人々は個々の自分を超える力さえ引き出し、

努力をしました。


しかし、いまその「光」は

そんな努力を

最初から必要としないための

前提と化し、

「完成されたもの」を照らし出す

白茶けた間接照明のようなもの

になってしまっています。


いま、そのような文明を享受する時、

かつて我々の文明を底から押し上げてきたような

高揚感を得ることが出来るでしょうか。


いま、それに代わって得ることが出来るのは、

原子力に依存しなくても、

あるいは無制限に拡大していく便利さや快適さに

溺れなくても、生きていく。

それを私たち一人一人が

達成することではないでしょうか。


そしてそれは「いつか」ではなく

「いま」出来ることなのです。


人は変わることが出来るかもしれない。

それも「いまこの時」から……。


僕は大切なことを忘れていたことに

気づきました。


そう、それは「忘れていた」のです。

そのことについては、また稿を改めます。

切通理作

昭和39年、東京都生まれ。和光大学卒業。文化批評、エッセイを主に手がける。
『宮崎駿の<世界>』(ちくま新書)で第24回サントリー学芸賞受賞。著書に『サンタ服を着た女の子ーときめきクリスマス論』(白水社)、『失恋論』(角川学芸出版)、『山田洋次の<世界>』(ちくま新著)、『ポップカルチャー 若者の世紀』(廣済堂出版)、『特撮黙示録』(太田出版)、『ある朝、セカイは死んでいた』(文藝春秋)、『地球はウルトラマンの星』(ソニー・マガジンズ)、『お前がセカイを殺したいなら』(フィルムアート社)、『怪獣使いと少年 ウルトラマンの作家たち』(宝島社)、『本多猪四郎 無冠の巨匠』『怪獣少年の〈復讐〉~70年代怪獣ブームの光と影』(洋泉社)など。

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