ゴー宣ネット道場

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切通理作
2012.4.16 16:50

木蘭さんのブログを読んで

 実は、私事を言いますと15日から自宅を離れておりまして、夜も更けた頃に都内に戻ってパソコンを開いたところです。 

 

 すると木蘭さんが「原発はヤバイ、核兵器は安全」の感想を当ブログに書いておられるではないですか。

 

 そしてそれをめぐって既にみなぼんさんとの応酬もされている。

 

 びっくりしました。

 

 しかし木蘭さんに『原発はヤバイ、核兵器は安全』を渡して「ぜひ、読んで下さい」と言ったのは私です。

 

 木蘭さんは道場ブログのレギュラー執筆者であり、「前夜」にも原稿を書き、「わしズム」にも今後登場が検討されている人材です。

 

 しかしゴー宣道場そのものの師範でもなければゲストでもありません。

 

 僕の見た木蘭さんは、きわめて「非社会的な人」という印象です。

 

 被災地にも四の五の言わずに身ひとつで飛びこみ、ざっくばらんに現地の人たちの懐に入ってしまう。社会の常識に捉われない木蘭さんだからこそ、出来ることがある。

 

 そんな木蘭さんが『原発はヤバイ、核兵器は安全』を読んだら、どんな化学変化が起こるのか、楽しみでした。

 しかし実際には、自らの変化を自ら避けているように思えました。

 

 木蘭さんが書いた最初の感想を読んで、僕が思いだしたのは「戦争ごっこしたがる日本人は年寄りばかり」というツイッターにおける本書題名への反応でした。

 この「年寄り」を「アナクロなマッチョイズム」と捉えれば、「男性」という言葉に置き換えることも可能だと思います。

 

 木蘭さんは、みなぼんさんへの返答として書かれたブログでは、男性的・女性的とは性別ではなく、あり方であり、男性的であるのは悪いことだというわけではないと言っていますが、少なくともご自身を「女性的」な人間の側であるとは定義されているようです。

 

 そして人をリードし、ひっぱっていくのが「男性的」であり、「支える」「引き受ける」のが「女性的」だという定義を述べています。

 

 前者は主体的で、後者は受動的な印象があります。木蘭さんは「女性的」である側に立つことで「主体的」であること自体に距離を持つメンタリティの持ち主なのでしょうか。

 それはひょっとしたら、木蘭さんが非社会的にみえることの理由なのかもしれません。


 
 
 人間は誰でも最初は所与の条件の中で生まれてきます。水道水で水が飲めるということ自体、そういう条件にある人間にとっては当り前の前提に感じられます。

 しかし実はそうではなく、小林さんが序文で言うように、自分の生活周りのことですら、実は社会の成り立ちと密接に関係しているし、日本という国の一員としての自分とも無関係では考えられない。

 

 つまり受動的に見える事項も、主体的に捉え直す契機があるはずだし、それこそが「思考を開始する」ということではないか、ということに僕はゴー宣道場で改めて気づかされてきました。

 

 海によって家が流され、大切な人を奪われた人々が、同時に海と一緒に生きてきて、多くの思い出を持っている。その葛藤の歴史の中でこれからも営みを続けようとしている姿を木蘭さんも見たはず。 

 

 そこに「アーティスト」が己の勝手に抱く芸術的美観のオブジェを建てて、外国のセレブを呼び込もうとしたって無意味だし、第一津波が来る沿岸部の土地をセレブが買うとも思えない。

 

 歴史という時間の流れや、日本国民としてのお互いを捉えるということが「主体的」であるとするなら、この「美しい」プランは僕にはとても寒々しい光景に感じられます。

 それは美しかったとしても、無時間的な美しさではないでしょうか。

 誰も住んだことのない、明るい廃墟のような。

切通理作

昭和39年、東京都生まれ。和光大学卒業。文化批評、エッセイを主に手がける。
『宮崎駿の<世界>』(ちくま新書)で第24回サントリー学芸賞受賞。著書に『サンタ服を着た女の子ーときめきクリスマス論』(白水社)、『失恋論』(角川学芸出版)、『山田洋次の<世界>』(ちくま新著)、『ポップカルチャー 若者の世紀』(廣済堂出版)、『特撮黙示録』(太田出版)、『ある朝、セカイは死んでいた』(文藝春秋)、『地球はウルトラマンの星』(ソニー・マガジンズ)、『お前がセカイを殺したいなら』(フィルムアート社)、『怪獣使いと少年 ウルトラマンの作家たち』(宝島社)、『本多猪四郎 無冠の巨匠』『怪獣少年の〈復讐〉~70年代怪獣ブームの光と影』(洋泉社)など。

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