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高森明勅
2013.4.21 13:30

新たに確認された昭和天皇の沖縄への思い

今年も「昭和の日」が近づいた。

今まで知られていなかったが、
沖縄の本土復帰後余り歳月を経ていない昭和50年4月、
昭和天皇は同年秋の初のご訪米に先立って、
「沖縄に行けないか」とのお気持ちを示しておられたという。

当時の屋良朝苗(やらちょうびょう)沖縄県知事が同年4月16日に、
7月に始まる沖縄国際海洋博覧会の打ち合わせで上京した際、
宮内庁の宇佐美毅長官から伝えられたと、
自分の日誌に記録を残していた。

昭和天皇は占領下に、自らのご意志で全国を巡幸された。

昭和21年2月の神奈川県を皮切りに、
国内各地を巡られ、同29年8月の北海道で一区切りとなった。

総行程3万3千キロメートル、
総日数165日、お成りの場所は1411箇所に及んだ。

敗戦国の君主が、戦争によって我が子、我が夫、我が家族を亡くし、
家を焼かれ、飢餓に苦しむ国民を直接、
慰め励ます旅に出かけるなどということは、
世界の歴史に絶えて類例を見ない事実であろう。

但し、アメリカの軍政下にあった沖縄だけは、
お出ましがかなわなかった。

そのことを、昭和天皇は深く遺憾とされていた。

しかし沖縄現地では復帰後、反米とともに反皇室活動が激烈で、
治安当局は沖縄への昭和天皇のお出ましに難色を示していた。

現に、沖縄海洋博にお出ましになった
皇太子・同妃両殿下(現在の天皇・皇后両陛下)が
「ひめゆりの塔」に花束を捧げてお参りになった時、
その場に潜んでいた男2人が両殿下に火炎ビンと爆竹を投げつける
暴挙に及んだことは、多くの人の知る通りだ。

もしこの時、昭和天皇の念願通り、
天皇ご自身のお出ましが実現していたら、どうなっていたか。

もっと危険な事態になっていたかも知れない。

当時は、熱病のような反天皇のイデオロギーが、
一部の人々を強く支配していたからだ。

だが現地にそうした激越な反天皇の動きがあっても、
昭和天皇の沖縄へのお気持ちは、何ら揺らぐことはなかったようだ。

そのことを今回、明らかになった屋良氏の記録は、
はっきり証言している。

アメリカに行くなら、その前に沖縄を訪ねるべきだ、
というのが昭和天皇のお考えだったのだ。

だが、昭和天皇のお気持ちとは裏腹に、
沖縄へのお出ましは容易には実現しなかった。

それから10年余り経った昭和62年、
やっと昭和天皇の宿願がかなって、
沖縄へのお出ましが実現するかと思われた。

同年秋のこの地での国民体育大会に、
ご出席になるご予定だったのだ。

ところがこの年の9月、昭和天皇はご発病になり、
沖縄行きはついに実現せぬままとなってしまった。

癌のご手術をお受けになった後、
昭和天皇がまずお詠みになったのは、次の御製だった。

「思わざる 病となりぬ 沖縄を たづねて果たさむ つとめありしを」
自らの「つとめ」に対する厳しい責任感が、痛いほど伝わってくる。

その昭和天皇の責任感を、しっかりと受け継がれたのは勿論、
今上陛下だった。

日本人が忘れてはならない「4つの日」の1つに、
沖縄戦終結の日を加えられ、ご即位後真っ先に、
沖縄にお出ましになることを強く望まれていた。

この度、沖縄県立公文書館の資料公開により、
屋良氏の日誌から、
昭和天皇が沖縄に寄せられたお気持ちの一端が明らかになったことは、意義深い。
高森明勅

昭和32年岡山県生まれ。神道学者、皇室研究者。國學院大學文学部卒。同大学院博士課程単位取得。拓殖大学客員教授、防衛省統合幕僚学校「歴史観・国家観」講座担当、などを歴任。
「皇室典範に関する有識者会議」においてヒアリングに応じる。
現在、日本文化総合研究所代表、神道宗教学会理事、國學院大學講師、靖国神社崇敬奉賛会顧問など。
ミス日本コンテストのファイナリスト達に日本の歴史や文化についてレクチャー。
主な著書。『天皇「生前退位」の真実』(幻冬舎新書)『天皇陛下からわたしたちへのおことば』(双葉社)『謎とき「日本」誕生』(ちくま新書)『はじめて読む「日本の神話」』『天皇と民の大嘗祭』(展転社)など。

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