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高森明勅
2014.8.29 15:21

四辻善成、皇籍復帰ならず

歴史上、君臣の分義を厳かに守るために、
皇籍復帰が斥けられた実例を1つ、紹介する。

南北朝時代の貴族にして和学者、四辻善成(よつつじよしなり)
という人物がいた。

源氏物語の注釈書『河海抄(かかいしょう)』の著者として知られる。

第84代順徳天皇の皇子善統親王の孫で、
尊雅王の子(天皇から3世)。

31歳で皇籍を離れて源姓を賜り、北朝に仕えた。

祖父が四辻宮と号されたので、四辻を名乗った。

晩年、足利義満の大叔父(外祖母の弟)として優遇され、
70歳で左大臣にまで上り詰めた(応永2年、1395)。

調子に乗った善成は親王宣下、つまり皇籍への復帰も望んだ。

しかし、いかに元皇籍にあった人物でも、
既に臣下となって40年もの歳月を経ている。

そこで「もはや皇胤とは見なし難い」として、
室町幕府の執事・
管領を務めた
有力武将、斯波義将(しばよしゆき、「よしまさ」
とも)が諫めて、
そのまま出家させたという。

君臣のケジメを曖昧にしないためであり、
誰もが違和感を覚える振る舞いだったのだろう。

なお付言しておくと、義将は足利義満の死後、
前関白一条経嗣らの計らいで、義満が生前強く望んでいた
太上天皇」の尊号が朝廷から贈られた時も、
将軍義持に説いて即日、辞退させた。

当時、太政官外記(げき)局の最上位にいた中原師胤(もろたね)は、
臣下で太上天皇の尊号を得た例はない」と明言している。

従って、義将は四辻善成の場合と同様、
当時の「当然の常識」
に立脚して対処したに過ぎないだろう。

しかし、たとえ当然の常識であっても、
それをこうした場面で公然と貫くには、
然るべき勇気と政治的力量が必要だったはずだ。

わが国の歴史には、こうした人物が幾人も現れ、
君臣の別を大切に守って来たのである。

高森明勅

昭和32年岡山県生まれ。神道学者、皇室研究者。國學院大學文学部卒。同大学院博士課程単位取得。拓殖大学客員教授、防衛省統合幕僚学校「歴史観・国家観」講座担当、などを歴任。
「皇室典範に関する有識者会議」においてヒアリングに応じる。
現在、日本文化総合研究所代表、神道宗教学会理事、國學院大學講師、靖国神社崇敬奉賛会顧問など。
ミス日本コンテストのファイナリスト達に日本の歴史や文化についてレクチャー。
主な著書。『天皇「生前退位」の真実』(幻冬舎新書)『天皇陛下からわたしたちへのおことば』(双葉社)『謎とき「日本」誕生』(ちくま新書)『はじめて読む「日本の神話」』『天皇と民の大嘗祭』(展転社)など。

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