2017/10/03

籠の中の小鳥と化した違憲審査権を解き放つ憲法裁判所

Tweet ThisSend to Facebook | by 倉持

●日本型違憲立法審査権の出自
立法権は国会に帰属し(憲法41条)、行政権は内閣に帰属し(憲法65条)、司法権は裁判所に帰属する(76条)。

今日扱うのは司法権だ。

 司法権ひいては立憲主義の伝家の宝刀、最後の砦たる違憲立法審査権(81条)は、日本国憲法第6章「司法」のチャプターにおさめられている。つまり、司法権の行使の枠内で違憲立法審査権は行使される。

 では、司法権とは何なのか。司法権の行使とは何をするのか。

司法権の行使の核は、雑駁にまとめると、「具体的な事件を前提に、その具体的事件に法律を適用し終局的に解決すること」である(「法律上の争訟」裁判所法3条1項)。

 したがって、具体的事件を離れて(事件も起きてないのに)、成立前の法案について判断をしたり、抽象的な法令の解釈を示したりすることはできない。

また、具体的事件というのは、誰か特定個人(抽象的な集団でもなく)の権利が具体的に侵害され、これに、法を適用して、「終局的に」解決することである。

この司法権発動をしばる「具体的事件の解決のため」という事件性の要件というのが、肝である。

 

冒頭触れたとおり、違憲立法審査権は、司法権の行使の範囲内でしか行使できない。当然である、その章にある国家機関のもつオプションの一つなのだから、司法権の枠は超えられない。憲法は、裁判所に対して、司法権の行使の枠内で違憲立法審査権を行使するよう権能を与えたのだ。

と、いうことは、である。

具体的な特定個人の権利が侵害された事件について、その紛争を終局的に解決するために必要な限度でしか違憲立法審査権を行使しない、ということである。

たとえば安保法制。仮に集団的自衛権の行使が違憲だとしても、成立したとしても、それだけでは憲法判断はできない。あくまで司法権の行使、すなわち、特定個人の具体的な権利が害されたという具体的な「事件」の解決にしか違憲審査権は発動されないから、仮想のケースを思い浮かべると、安保法制で可能になった存立危機事態(集団的自衛権)や重要影響事態(後方支援)認定に基づいて出動命令がなされたが、自衛官Aは、この命令を拒否し、処分を受けた、というケースがあったとして、自衛官A自身が受けた処分は違法無効である!と争うときに、この具体的事件の解決に必要な範囲で、存立危機事態防衛の部分が憲法9条に反し違憲無効である→違憲無効な命令に反してくだされた処分は無効である、といった具合に必要最小限度の憲法判断がなされる。当該事件解決には、処分の無効の前提として必要であったからこそ、違憲立法審査権が登場したのである。

他にも、天皇陛下のご譲位についての法律にいたっては、もはや特例法が違憲な法律であったとしても、具体的個人の具体的権利が侵害されている具体的事件になりえないから、憲法的な救済手段がない。

もう一つの好例としては、憲法53条に規定されている「臨時会」につき、いづれかの議員4分の1以上の要求があれば、内閣はこれを「開催しなければならない」とされている。今国会の後に野党側は当該要件を満たして憲法53条に基づき政府に臨時会の開催を要求したものの、とうとう開催されなかった(その後開催された臨時国会は一瞬で解散された・・・)。しかし、この明確な憲法違反も、具体的な特定個人の権利が侵害されているわけではないので(モリカケがあるのに国会が開催されないなんて有権者の権利が害されているじゃないか!という主張はあるかもしれないが、「有権者」という抽象的な総体の一部ではあまりに薄い)、「事件性」の要件を満たさず、司法権の発動対象ではないため、当然に違憲立法審査権も発動できない。
●付随的違憲審査制と抽象的違憲審査制
このような違憲立法審査権のことを、「付随的違憲審査制」という。何に付随的かというと、司法権=事件に付随的、つまり、今まで見てきた通り、具体的事件の解決という司法権の発動に付随してしか、違憲審査ができないということである。このような違憲審査制をとる国の代表例としては、アメリカ合衆国がある。

これに対するのが、抽象的違憲審査制というシステムである。

司法権=具体的事件とは離れて、つまり、特定個人の具体的権利侵害がなくても、一般的抽象的に憲法適合性を判断できるシステムである。この場合、通常裁判所とは独立に「憲法裁判所」などの憲法適合性のみを判断する特任の機関が設置される。代表的な例はドイツである。お隣韓国にも憲法裁判所は存在する。

おわかりの通り、付随的違憲審査制だと、裁判所(司法権)の役目は法の適用による事件解決に重点が置かれ、政治部門の国家行為等については「口出ししない」というスタンスになりがちである。これは、まさに民主制への信頼と敬譲が根底には存在する。主権者国民の代表者の決定は尊重する。裁判所は法適用に特化し、政策形成には関与しないことによって、「司法の政治化」からも距離を置く、というスタンスだ。

一方で、抽象的違憲審査制は、民主主義に対する懐疑がある。「民主的決定」でも誤りうるのだ、という民主主義の可謬性を睨んでいる。だからこそ、民主的にヒトラーを生んだドイツは、戦後、極めて純化された抽象的違憲審査制を採用し、憲法裁判所は、違憲判決を連発する。ここには民主主義への懐疑がある。そして、立憲主義、すなわち、個人の自由の保障、そして最大化のために、非民主的機関である裁判所の本分として、憲法裁判所は違憲立法審査権を振るう。

しかし、これには問題もある。近時ドイツの若手憲法学者たちが「越境する司法」という本を刊行し話題になったが、憲法裁判所が抽象的違憲審査の名のもとに、政治部門の決定に口出ししすぎるがゆえに政策形成機能を過度に持ってしまうという問題があるのだ。選挙で選ばれた代表者の決定を、裁判官ごときが軽々しく覆していくこと自体もまた、問題とされているのである。
●堕ちた日本型立憲民主主義と権力均衡の回復
さて、我が国であるが、もはや、国会に自浄能力はない。それぞれの委員会の委員長は政府与党のための言いなり運営をし、議事録は改ざんとねつ造の嵐。多数派であれば何でもできるという悪しき全能感は、緩み切った権力をさらに弛緩させている。

議院内閣制により、国会と内閣はもはや一体化し、民主主義の前提である熟議は省略され、ベルトコンベアのように多数決が繰り返される。

為政者に対する信頼は悉く裏切られ、憲法違反状態はあらゆる政治的文脈の中で溢れるようになってしまった。

お人好しの憲法は、「正直者はバカを見る」状態である。

これは、端的に、肥大化した政治権力の暴走をとめる仕組みが存在しないことで、三権分立が目指した権力の均衡が著しくバランスを失している状態に陥っている。
●憲法裁判所待望論
そこで、まずは、この権力の均衡を回復するため、憲法裁判所を創設すべきである。憲法76条2項は、「特別裁判所の禁止」を定めており、新たな終審の裁判所を創設するには、憲法76条2項の改正が必要であろう。

同時に、憲法裁判所の裁判官の人事が内閣によって行われることがないようにせねばならない。政権の提出する法律にお墨付きを与える機関に堕しかねないからだ。内閣法制局は、その人事によって、まんまとお墨付き機関に堕してしまった。これには、第三者機関や、少なくとも国会の関与をさせるべきだろう。また、裁判所という機構自体が、裁判官という役人を抱える巨大官僚組織であり、この官僚組織のしがらみは想像以上に強い。どのような判決を書くかによって昇進ルートが変わったり、とても「司法権の独立」と呼ぶには口寒いしがらみ組織だ。この点からも、憲法裁判所は、まったく下部官僚組織をもたない、裁判官だけの独立した機関として設置すべきである。また、憲法裁判所の裁判官の任期も、長めに設定すべきだ。アメリカの連邦最高裁の裁判官の終身というのはちょっと長すぎるが、日本の定年制は、最高裁に上り詰めるのが人生の後半である必然からすると、あまりに任期が短くなってしまう。独立性からいっても、合議体の意思決定の統一や法的安定性及び継続性からして、最低でも7年くらいは確保した方がいいのではないか。

最高裁という暗黒の官僚組織との闘いでもある。おそらく、憲法裁判所創設にもっとも反対するのは最高裁ではないか。既存の人事・昇進体系がぶっ壊れることに、抵抗するだろう。司法制度改革といって、法科大学院や裁判員制度の創設が行われたが、憲法裁判所の設置こそ、最高裁判所改革の本丸に切り込むことになるかもしれない。k憲法改正は、中長期的な国家ビジョンと、様々な機関や条文間の有機的な相互関係を考慮に入れることが極めて重要である。憲法裁判所は魅力的だが、それによる政治権力とのバランス関係や、司法官僚組織改革が密接に関連している。この視点を抜きにして、ただただ憲法裁判所の創設を語ることはできない。しかし、今こそ、これらの聖域に淡泊に粛々と手を入れるべきである。
違憲審査の活性化は、日本型立憲民主主義の活性化にもつながる。
この権力間の動静というダイナミズムと、リベラルな価値を制度的に担保する憲法改革を私は渇望する


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