2017/09/28

交戦権のまどろみー9条を殺したのは誰か

Tweet ThisSend to Facebook | by 倉持
●交戦権なんてもうなかった

日本国憲法9条の特徴は、9条2項である。
9条1項は、戦争一般が違法であることを確認した規定である。すなわち、9条1項だけであれば、いわゆる国際法上の自衛権(個別的自衛権及び集団的自衛権)は禁止されておらず、グローバルスタンダードである。
しかし、9条2項では、「戦力」 (land, sea, and air forces,
as well as other war potential
)は不保持とされ、交戦権は否認されている。これがユニークだ。
しかし、この「交戦権」という概念が曲者である。
元来、交戦権というのは、戦争一般が違法化されていないことを前提に、戦を交える権利、つまり、戦争をする権利「タイマンはる」権利のことである。
しかし、日本国憲法制定時(1946年公布/1947年施行)には、国連憲章によって戦争一般は違法化され(1945年)、もうすでに戦争を前提とした「交戦権」という概念は存在しなかったのだ。ここにまず9条2項の「ズレ」がある。つまり、当時もうすでに国際法上通用力を失った概念を「否認」しているのだ。
意味を持たない概念をさらに否定している。無意味な概念をいくら否定しても、それは有意味にはならないはずだ。
ということは、9条2項は実は何の意味も持たない条文なのではないか?1947年段階で実は死文だったのか?

●9条2項は何を「否認」しているのか?

 さりとて、9条2項は実は死体を殺しているような条文で、生きた概念を何も否認していないのだから、自衛隊のような武力組織を想定していたと言えるのか。平和主義や戦争の放棄を一手に引き受ける9条のユニークさを支える2項の存在意義は一体何なのだろうか。
 単純に考えてほしい、憲法を制定した当時の人々が、この9条2項の文言をもって、すでに死語と化していた語はもう死語であることを確認したまでで、軍事的な組織の創設は否定していないとはにわかに考えにくい。しかし、この死語と化していた「交戦権」を否定したことによって、とてもややこしくなっているのである。政府はここをどのように説明してきたのか。
 日本政府は、9条2項について以下のように説明している。
 「ここにいう交戦権とは、
戦いを交える権利という意味ではなく、交戦国が国際法上有する種々の権利の総称であつて、相手国兵力の殺傷及び破壊、相手国領土の占領、そこにおける占領行政、中立国船舶の臨検、敵性船舶のだ捕等を行うことを含むものであると解している。」
「他方、我が国は、自衛権の行使に当たっては、我が国を防衛するため必要最小限度の実力を行使することが当然認められているのであって、その行使は、交戦権の行使とは別のものである。」(政府答弁書 昭55.10.28)

 整理しよう。交戦権という概念は、
1.相手国の領土の占領、占領行政
2.船舶の臨検・拿捕
3.相手国兵力の殺傷及び破壊
4.自衛権行使としての海上輸送規制

という国際法上行使できる種々の権能の総称である(ちなみに、1がもっとも相手国の主権に対する侵害性の強度が高く、4にいくにつれ低くなる)。
我が国では、交戦権は否認されているものの、交戦権とは別物の自衛権を必要最小限度の範囲で行使できる。そして、我が国の憲法解釈上、我が国が憲法上許容される自衛権の行使としてとることが可能な措置は、3と4までである(!)。1と2については、必要最小限度を超えるため、我が国では行うことができない。

すなわち、我が国は、9条2項で「交戦権」を否認しているにもかかわらず、交戦権の行使とまったく同じ措置である3と4を「自衛権」の名で行っているということになる。
これは、本来3と4の措置をとれば、9条2項で否定されていた交戦権の行使にあたり禁止されるはずなのに、「自衛権」由来で説明しているがゆえに、9条2項には反しないとしている。同じ行為を「交戦権」由来で説明するのか、「自衛権」由来で説明するのかでOKになったりNGになったりするのはおかしい。しかも、これは石鹸が「天然素材由来」の話をしているのではなくて、「軍事権」の話をしているのだ。
「自衛権」はまるでドラえもんのポケットか。交戦権は否認されていても、同じことを自衛権のポケットから密輸入すれば、交戦権行使と同じ措置がとれるというのである。

次の疑問は、では、我が国では自衛権の名で1と2ができないのか、ということである。結論的には、日本政府は1と2はできないとしている。
なぜか。
1及び2は、「我が国防衛のため必要最小限度」を越えてしまうからできない、としているのだ。
必要最小限度、という概念は、9条と13条の解釈から導かれたものとされている。9条が存在しても、座して死を待つことは国民の権利利益を最大限尊重すべき国家には許されず(憲法13条)、しかし、9条の存在により「必要最小限度の範囲」でのみ自衛権を行使できる、ということだ。
つまり、9条の条文にも明記されていない「必要最小限度」という言葉によって、1と2ができないとされている。

ここに最大の欠陥がある。
すなわち、9条2項によって「交戦権」を行使する「戦力」は「ない」ことになっているにもかかわらず、そこで否定されている交戦権と同じ行為を「自衛権」を根拠にできるとすれば、まさに「自衛権」の名でなんでもできてしまうことになり、「交戦権」を否認した9条2項への死文宣告である。
しかし、いわゆる護憲派ですら、政府解釈に基づいて、日本国が行使できる自衛権には「必要最小限度」という、憲法9条からは論理必然的に導き出されない概念によってわが国の自衛権は「適切に」制限されているという。
軍事権ゼロをうたったはずの9条を突破されてしまえば、あとは「必要最小限」という言葉しか、軍事権を統制する概念がなく、この概念が憲法上論理必然的な概念でないというのは、あまりに憲法を軽視していないか。いったい9条の規範力とは何なのか。
9条2項は軍事権をゼロと言い切った条文ではないのか?護憲派のこだわりはここではなかったのか?
それにもかかわらず、この「9条の重み(=必要最小限度)」によって、自衛権は適切に制限され、軍事的統制は働いていたという言説をいわゆる護憲派から聞くことがある。
これでは、軍事権を完全に否定=0のところにラインを引いていたはずの9条2項を自分たちで「3と4はできるけど1と2はできない」というラインまで後退させており、このこと自体、9条自体の矮小化しであり、権力統制規範としての9条の規範力を減殺していること、つまり「本来軍事権ゼロを予定している9条2項はもはや全然軍隊統制できる規範になってないけど、1と2ができないって点でちょっとだけ意味あるよ!」ということを自白しているのだ。
それでも、「9条で軍事権がないからこそ自衛隊は統制されている」というのは、もはや「お願い」レベルの念力や神通力の世界であり、その念力を送っているうちに、とうとう安倍政権は集団的自衛権まで解禁してしまった。もちろん、四次元ポケットである「自衛権」の名で。

「変えられなければいい!!」と、見たくない不都合な真実から逃げ続けた挙句、結果的に9条をないがしろにしてきたのは、誰か。護憲派も罪の意識を持たねばならない。

●ないものは統制できない!

立憲主義の眼目は、国家権力の「正当化」と「統制(コントロール)」である。
憲法は国家権力を正当化、つまり、その存在を承認し授権する規範(例えば、国会という機関の立法権という権能を授権し正当化している)であるとともに、憲法自身が正当化し承認した権力を統制し、コントロールするものである。

現状の9条は、この「正当化」と「コントロール」両方の側面から、非常に問題がある。つまり、軍事権がないものとされている(正当化されていない)からこそ、コントロールがきかないのである。ないはずのものをコントロールするのが不可能なのは当然だ。

話を少し戻そう
今一つ、9条2項があらゆる軍事組織を保有すること本来的にを禁止している確かな証左がある。それは、日本国憲法が形作る法秩序が、「軍」という国家権力最大の暴力をまったく予定していないのである。9条が「軍」という暴力に完全な蓋をしてしまったがゆえに、軍を予定した法秩序が日本国憲法からは欠落している。

そこで、裏を返せば、9条を改正するということは、日本国憲法が蓋をした法秩序に穴を開けるということなのである。ここに穴を開ければ、「軍」を前提とした法秩序がランプの魔人のように噴き出してきて、日本国憲法が織りなす法秩序すべてに影響を与える。
したがって、9条のみを改正するというような改正はあり得ない。ましてや、9条に何らかの条文を書き加え、「自衛隊」と国語的に明記するだけなどということは、国家最大の暴力たる軍という組織の統制という観点からも、安倍総理のいう自衛隊の地位の承認という観点からも、明らかに悖るものである。

●では、今までの整理をもとに、どのような9条の改憲提案がありうるのか、具体的に論じていきたい。
                         to be  continued...

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