倉持麟太郎の“Rin”sanity
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2017/09/07

本日発売の週刊誌について

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本日発売の週刊誌報道(以下「本件報道」といいます。)につきまして、下記のとおりご説明させていただきます。                   

                 記

 

本日発売の週刊誌報道に際し、依頼者の皆様、顧問先会社の皆様、日頃より若輩の私をご指導いただいております皆様をはじめ、多くの方々に多大なご迷惑をおかけして誠に申し訳ございませんでした。

私は、本件記事に記載の山尾志桜里議員に対して、予算委員会、法務委員会等各種委員会及び憲法審査会等において、憲法問題を中心に、共謀罪、雇用・労働問題等々で、極めて幅広い政策分野において、政策ブレーンとして具体的な政策の立案・起案作業及び質問や法案等作成作業をかなり詳細にサポートさせていただいておりました。

上記政策立案及び質問作成等の打ち合わせ及び作業のため、日常的に山尾志桜里議員と頻繁なコミュニケーション及び連携をしており、当該作業や打ち合わせは山尾志桜里議員と1対1の場合も、他の外部有識者を加えた複数名のものもございました。

場所は、私の事務所や山尾志桜里議員の会館事務所その他会食を交えながら等という形態が常態的であり、私の自宅で作業や打ち合わせを行う場合もありました。これらの作業や打ち合わせは、深夜に及ぶこともございました。

山尾志桜里議員との間に男女関係はありませんが、結果的に誤解を生じさせるような状況があったことについて、深く反省しております。

あわせて、本件で多大なる迷惑をかけた妻、子及び家族に対して心からの謝罪をしたいと思っております。

最後に、私の行動で、皆様に誤解を生じさせましたこと及び様々な場面でご指導ご支援いただいてきた皆様にご迷惑をおかけし、失望させましたことを、深く反省しお詫び申し上げます。これから、失った信頼を取り戻すべく、今まで以上に全力で取り組ませていただきます。     

             平成29年9月7日 倉持 麟太郎


21:58
2017/08/30

ドゥダメルは指揮棒を手にした戦士となるか

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このブログでも取り上げた、現代クラシック音楽界最後の救世主、指揮者のグスターヴォ・ドゥダメル。
今年はウィーンのニューイヤーコンサートの指揮台にもダントツ最年少で登壇し、まさにその勢いはとどまることを知らない。
そんなベネズエラが生んだスーパースターが、現在、祖国ベネズエラの暴政に対し、戦っている。戦いの相手は政府であり、ニコラス・マドゥロ、ベネズエラ大統領である。大統領は、ドゥダメルを名指しで批判までしている

ドゥダメルとともに権力に対峙するのは、至極純粋な美、自由、真理への意思と志向、そしてこれらと同等に普遍的である個人の尊厳である。

ベネズエラでは、現在毎日のようにニコラスマドゥロ大統領の退陣を要求するデモが行われている。4月から始まったデモ行動は、30人を超える死傷者と数百名の拘束者を出している。火炎瓶や催涙ガスが飛び交い死傷者も出るほどの激しさで、同時に、武装グループが軍の基地を襲撃し武器を奪うなど、クーデターの不安までもが国内に充満し始めており、極めて不安定かつ危険な情勢とのことである。

この反政府デモが激しく燃え上がったきっかけとなったのは、野党が多数を占める国会権限を最高裁判所が剥奪しようとしたからである。

現在ベネズエラは、石油の輸出価格下落による歳入減で深刻な食糧難と生活必需品不足の状態であり、インフレ率は今年、700%に達するともいわれている。

さて、今年7月22日の反政府デモにおいて、激しい衝突と混沌の中、一人の青年がデモのはざまでヴァイオリンを演奏していた。武器を楽器に持ち替え、非難と攻撃ではなく、その音色で対話と非暴力を表現しようとしたのだ。
彼の名はアルテアガといい、ドゥダメルがその一期生であった「エル・システマ」という音楽教育制度の学生だったのだ。「エル・システマ」は貧困・薬物・犯罪・虐待による社会の分断を音楽で治癒することを目的に設立された。
この無言の抗議活動はあっけなく暴力により制圧され、身柄を拘束された。「平和のヴァイオリニスト」の顔は腫れあがり、傷口からは流血している画像がtwitterに動画投稿された。
8月20日付のロサンゼルスタイムズの記事は、アルテアガが8月15日に釈放されたと報じたが、しかし、なんとその釈放の交渉にはドゥダメルが関与したというのだ。ドゥダメル自身は交渉への関与への言及はしていない。

現在もベネズエラのシモンボリバル国立交響楽団の音楽監督であるドゥダメルは、従前、政治的なメッセージを強く発することはなく、現政権に批判的でないこと自体を非難されるということもあった。
しかし、今年5月3日にエル・システマの一員であった18歳の音楽家が集会で殺害されたことを受けて、ドゥダメルは自由の戦士の扉を開く。
ドゥダメルは、この殺害事件の二日後、フェイスブックで文字通り「私は声を上げる」という標題でスペイン語及び英語の二か国語で、「流血を正当化するものなど何もない」「もうたくさんだ(Enought is enough)」と始める。さらに語気を強め、「耐え難い危機に押しつぶされ息ができずにもがき苦しむ人たちの公正な叫びを、これ以上無視してはならない」「いかなるイデオロギーだろうと、公共の福祉に勝るものはない」「政治は良心をよりどころに、憲法を最大限尊重して行わなければならない」と続けた。
そして、ニコラス・マドゥロ大統領に対して、「ベネズエラ国民の声を聞き」「反対意見を表明し、互いを尊重し、寛容に、対話を自由に行える」制度を構築することを求
めた。
大統領は8月に出演したテレビでこれに皮肉たっぷりに応答する、
“Welcome to politics, Gustavo Dudamel.(政治の世界へようこそ、ドゥダメル)"

この応答とともに、大統領はドゥダメルを名指しで批判し、ドゥダメルが音楽監督を務めるシモン・ボリバル・ユースオーケストラの米国公演は中止となった(大統領が中止命令を出したという報道も存在するが、いまだ公式な真偽は確かめられていない)。
若者だけ180名で編成されたユース・オーケストラは、米国4都市での公演を予定していたのだ。

ドゥダメルは、「ユース・オーケストラの4都市での演奏ツアー中止は心が痛む。若い音楽家たちと演奏するという私の夢は今回は実現できなかった」「引き続き演奏を続け、より良いベネズエラ、より良い世界のために闘う」とツイートした。

20世紀を代表する第二次世界大戦前後の指揮者たち、トスカニーニやワルターらは、亡命などしながら、ナチズムやファシズムと徹底的に戦った。
かのバーンスタインは、自由の戦士として、象徴的にも、崩壊したベルリンの壁の前で、東西を越えた世界中のオーケストラを一堂に集めベートーヴェンの第九の指揮をした(このときの録音は残っているが、4楽章以下の合唱におけるFreude!(喜び)をFleiheit!(自由)に替えて歌い上げた)。バレンボイムは中東に思いを馳せ、ウィーンのニューイヤーコンサートで「中東に正義が行われんことを」と異例の発言をした。
その系譜に、ドゥダメルは数奇というのか必然というのか、今、立たされている。
彼は、自由や平和の戦士として、戦う運命にあるのだ。
彼らは憲法や近代市民社会が育ててきた自由、ときに反社会的・反権力的でありさえする自由の価値を自ら体現する存在である。自由の化身である。
だからこそ、彼らは自身が自由の体現者として、100%戦えるのだ。彼らの生きざまが現代社会の自由そのものとしてそこに存在している。

いやしくも、ドゥダメルが「声を上げる」とした叫びの中には「政治は良心をよりどころに」「憲法を最大限尊重すべき」「国民の声を聴き」「反対意見を表明し、互いを尊重し、寛容に、対話を自由に行える」という近代市民社会が共生のために導出した立憲主義の核となるようなワードがちりばめられている。これはある意味、その存在自身が自由の化身である人間が、権力と対峙したときに発するワードとして必然ではないだろうか。

彼らを支えること、支持することは、我々の市民社会がもつ自由や良心を支持することだ。
ドゥダメルとベネズエラ国立交響楽団の世界ツアーは今年11月に予定され、アジアでは中国、台湾、香港を回るにもかかわらず、日本はこのツアーのホスト国となれなかった。これ自体も、官民あわせた日本文化外交の脆弱さを露呈していないか。
政治的思惑と北米と南米の歴史的軋轢はあるとはいえ、トランプ大統領は、ベネズエラの情勢不安とその根源にあるマドゥロ大統領の政権運営を苛烈に非難し、軍事行動も辞さないという姿勢を見せている。日米の関係を「希望の同盟」と言って疑わない日本政府は外交的にどのようなスタンスでこれに臨むのか。
これは一小国の暴政と指揮者の物語ではおさまらないはずだ。

民主党政権下で尖閣諸島をめぐる衝突事件が勃発したとき、中国人演奏家のランランやユンディ・リの来日公演は中止された。
政治が自由や真理という普遍的価値を蹴散らし攻撃しようとしたとき、真っ先にその爆風を受けるのは芸術や芸術家かもしれない。まるでカナリアのようだ。
よく言われることだが、音楽に国境はないが、音楽家には国境はある。
自由や権利という普遍的な価値・概念に国境はないはずだが、いまだにこれらの実践は国家の枠組みに影響を受けざるを得ない。
だからこそ、国家の枠組みを越えて、普遍的価値を共有し拡張することは、国家の役割でもある。政治の役割でもある。
ドゥダメルの戦いを見守るとともに、その戦いの先にある価値に対して我々個人、そして日本という国家はどのようにコミットしていくのか。
そして、外交は安全保障や経済だけのためでも、政治家や外交官のためだけにあるのでもない。我々一人一人の手にもあるのだ。世界が狭量で内向的なベクトルに向かおうとしている今だからこそ、我々一人一人があきらめずに普遍的価値を訴求し続けようではないか。
36歳の若者が、リスクを冒して自由のために一人で戦っているのだから。

私は34歳の法律家として、ドゥダメルの一連の行動に刺激を受けた。勇気をもらった。襟を正した。
青年ドゥダメルが、大きな力に庇護されてもいない中、強大な国家権力と対峙する。
指揮棒を持ち、指揮台で平和な音楽の中心にいるはずの彼が、世界で引っ張りだこのスーパースターが、若者の身柄拘束の釈放交渉に関与したとしたら、大統領という国家権力に対して権利と自由の価値を込めて言葉をぶつけているとしたら、どれだけ孤独で不安だろうか。
迎え撃つは「“Welcome to politics, Gustavo Dudamel.(政治の世界へようこそ、ドゥダメル)"」と手ぐすねを引く、権力のブラックホールだ。
しかし、彼は「声」を上げた。彼が楽譜や指揮棒を通じてコミットしている、国家や国境を越えた普遍的な価値が彼にそうさせた。

36歳の青年指揮者の自由の戦士としての戦いは、始まったばかりである。







18:30
2017/08/19

WEBRONZAに書いてます

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そういえばここでお知らせしておりませんでしたが、朝日新聞社の言論サイト、『WEBRONZA』でレギュラー執筆しています。こちらは、ゴー宣ブログよりもさらに頻度が低くなってしまっていますが、ご興味ある方は是非ご高覧ください!

今回は、

『アメリカ見聞録―日米関係の転換期に考える
:日本は日本だけにしか通用しない内向きの価値ではなく、普遍的な価値を語るべきときだ

http://webronza.asahi.com/politics/articles/2017081400005.html

と題して、アメリカでの様々な人々や政府機関でのミーティングを通じて感じたことと、日本と世界の「ファースト」的流れを憂慮しております。
アメリカは日本のことなど本質的に関心はありません。安保法制の中身なんか正確に知ってる人おらず!そんなことどうでもいいんです!
日本が自分の足でどう立っていくのか考えねば、アメリカの方ばかり見てると、”Japan seller” って呼ぶわよ!



10:05
2017/08/14

明日8月15日、終戦記念日の朝7時から「モーニングクロス」@東京MX

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【明日8月15日、終戦記念日の朝7時から「モーニングクロス」@東京MX】
明日の終戦記念日、朝7時?、東京MXの『モーニングクロス』に出演します!
明日は「これからのこの国のかたち(constitution)」についてお話したいと思います。


15:56
2017/08/10

日本ファーストはなにでないか

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小池百合子都知事率いる都民ファーストの疾風怒濤の大勝冷めやらぬ中、その国政政党を創設するための政治塾の運営団体が発足した。
その名も「日本ファーストの会」。
川上、王、落合、清原、といった日本の偉大なファーストを結集した会。ではない。

ファースト(最優先)するのが都民から日本になった。日本最優先の政治団体だ。
果たして、私が抱くこの会への強烈な違和感と危惧感は何か。
それは、普遍性への意思の放逐である。

私の師匠である憲法学者の駒村圭吾が自民党改憲草案を批判する文脈で触れた話を思い出した。
ギリシア哲学は、ロゴス(論理・理性)とミュトス(物語)との葛藤を経ている。
当代随一のソフィストであったプロタゴラスは、ソクラテスとの論戦で、「論理で語ろうか、それとも物語的に語ろうか」と前置きしたうえで、「物語的に」語ることを選ぶ。その方がより「面白く」「わかりやすく」直截的に人々の感情に訴えかけられるからだ。
しかしここには落とし穴がある。
物語(ミュトス)に論争や熟議はない。そこにあるのは「共感」の可否である。その物語に共感できなければ、また別の物語が存在するだけである。
しかし、普遍的な論理(ロゴス)には論争がある、熟議がある。つまり、ロゴスは共通言語を持つのだ。

ギリシア哲学はその後ミュトス的なものを退け、ロゴス的な道へと歩みを進める。

「日本ファースト」は、まさに日本だけにしか通用しない内向きな物語を語ろうとしている。自民党改憲草案や安倍政権の姿勢にも共通するが、自分たちの物語に共感するか否かを突き付けてくる。そして、その物語に共感できない人間は「こんな人たち」である。
彼らに共通言語はない。

また、これは、自らの奉ずるものを、他者との価値の衝突や調整におけるトレードオフを無視して「一番!!」と言い切るエクスタシーをくすぐる。これはとても楽だ。自分と違うものを受け入れ対話・熟議し、共生を目指すことには我慢と胆力がいる。立憲主義が想定した「個人」はこれら共生のためのやせ我慢ができるとっても大人な「個人」なのだ。

「ファースト」概念はこれに逆行する。単一的な価値を追求し、それ以外は「セカンド」である。自分たちの「ファースト」以外は二級。立憲主義が要求している個人像からすれば、「ファースト」を標ぼうする個人は、極めて幼稚である。

本来、政党とは公器であり、人々の様々な利害対立を吸い上げるだけでなく、「全国民の代表」の集う器として自由や権利といった普遍的な価値をこの社会の中でどのように制度化するのか、実現するのかを遂行する集団である。

話を前回の道場に飛ばせば、井上達夫先生と枝野幸男議員には、論理や理性といった共通言語があった。共通言語があるからこそ、立場や職業やあらゆる差異を越えて、対話や熟議が可能になるのである。だからこそ道場での井上VS枝野はかくもエキサイティングな議論になったのである。

それぞれがそれぞれの「物語」だけを語り、共感の獲得合戦になってしまえば、そこから議論や熟議は消滅し、共生への企ても消失する。

安倍ファースト、日本ファーストということの標ぼうする価値観は、このような意味で、日本が悪しきガラパゴス化し、社会全体の胆力をシュリンクさせる危険性を内包している。
これは、「アメリカ・ファースト」を掲げた、かの国の幼稚極まりない大統領を思い起こせば、容易に理解できるのではないか。

今こそ、世界的に「ファースト」路線に突っ走る潮流にあって、普遍的価値を語る政治集団に台頭してほしい。そして、それを我慢強く応援し呼応する市民社会を醸成したい。

最後に、敢えて、全方位的に強烈な皮肉を込めて言いたい

「二位じゃだめなんですか?」



10:00
2017/07/26

明日7月27日朝7時から東京MX「モーニングクロス」出演します

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明日7月27日朝7時から、東京MXテレビのモーニングクロスに出演します。
またまた9条の話もします!

そんな9条について徹底的に議論するのが、次回8月6日のゴー宣道場!
井上先生のモノマネとかしたことないのにーあはは

17:38
2017/07/11

共謀罪第1号で逮捕されたくて?2017夏

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本日、共謀罪法(テロ等準備罪とも呼んでる輩がいる)が施行。
「テロ対策」という偽りの看板をかけ、委員会での審議における議会慣例の破壊や中間報告での採決等々、熟議の前提をことごとく毀損し成立した法律である。
あらゆる意味で、法律が可哀そうになるほど民主的正当性がない。

また、「自由を制約するときは、選びうる選択肢の中でなるべく自由を制約しない方法で制約するように!」という要請(LRA「より制限的でない他の選びうる手段」という)からしても、既遂→未遂→予備→共謀と右にいくほど順に自由制限的(つまり、犯罪の実現から遠いのに処罰されるから自由制限的)という体系をぶっ壊して、未遂がない犯罪に共謀罪を創設したりしているため、適用においても「違憲」との判断がありうるだろう。
きめ細やかな合憲性審査さえもスキップして法律を定立する様は、まさに立法権の濫用。

そして、何より、社会が変容する。人々の共謀を嫌疑として捕捉するためには、我々の私生活に国家の目や耳が入り込む。
「共謀罪で逮捕されるような人間が騒いでいる」などという批判をしている輩には愕然とする。自己の自由と他者の自由が切り離されており、自己の自由以外は制約を受けうる別次元の自由と考えている。
しかし、そんなことはありえない、自由は同一平面上に存在するのだ。自己の立場と他者の立場を完全に入れ替えても受け入れられるのか、それができないならそれはまさに自己にのみ自由の利益をご都合主義的に援用する「ダブルスタンダード」である。

日本社会は、目に見えないものに対する警戒心が極めて弱い、監視は?放射能は?
我々の「共生」を根底から揺るがす自由や生命の敵も、目に見えなければヘッジすることができない。
要するに想像力が足りない。思いやりがない。

政府は、共謀罪の審議で、「一般人は対象にならない」「テロの抑止になる」「捜査は前倒ししない」「嫌疑がなければ捜査はしない」「準備行為までが構成要件である」「監視社会にはならない」などと、「逆にほんとにそれでテロふせげんのか?!」と思うほど抑制的な実体と手続きをうそぶいた。
我々国民は、今後本当に共謀罪の運用が政府の言うようになされているか、まさに「監視」しなければならないのである。
もちろん政府のその抑制的な答弁は詭弁・強弁だ。しかし、そこをなし崩しに波泊めてしまっては、国会の価値を国民も軽んじることとなり、ひいては、さらに国会をハリボテ化してしまう。

しかし、テロ等準備罪という罪名は存在しないため、おそらく「●●罪の共謀罪」という形でさらっと警察発表されるから、マスコミも気づかないかもしれない。

ならばしょうがない、この夏の思い出に、共謀してみて、共謀罪第一号で逮捕されてみるか

19:30
2017/07/04

小池ファーストと倉持勉強会のお知らせ

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先日、我が街東京の都議選が行われ、小池自分ファースト、否、都民ファーストが圧勝、自民歴史的惨敗、民進勝ちとか負けとか以前、といった結果となった。

「●●ファースト」、「現状への不満の受け皿」「何よりも都民」という内向性、普遍主義よりもローカルナショナリズム、これ、トランプが出てきたときと同じですね。ローカルナショナリズムでいえば、イギリスのブレグジットもそうでした。
なんだ、今の民主主義の世界的潮流と合致しているではありませんか。
非常に直情的で、その場その場の無機質な決定装置と化したむき出しの民主主義。そのプロセスや、熟議の過程での普遍主義的な価値観へのコミットはどこへいった。多様な価値観を吸い上げて悩みに悩んで結論を下すからこそ、一人で決めるより正解に近づくのではなかったか。日本もむき出しの民主主義と真正面からお付き合いする時が来ました。これと対峙しながらも、熟議と対話の民主主義を育てなければなりません。
●●ファーストではなく、今こそ普遍主義的な価値観を語る政党でてこいや!
とにかく、常に権力や強者にはオルタナティブが存在することを健全とする価値観を醸成したいものです。

そんな四方山話や、安倍改憲、9条、ポスト安倍、(もちろん共謀罪や皇位継承問題も)についてまさに熟議する勉強会やります。知り合いの司教と対話しながら、本質に迫るぜ。

http://www.catholic-shinseikaikan.or.jp/news/506


09:19
2017/06/15

明日6月16日午前7時からモーニングクロス@東京MX!

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明日の朝7時から、東京MX(9チャンネル)のモーニングクロスに出演します!
安倍の欲望充足改憲の欺瞞について語るで!

11:53
2017/05/19

共謀罪から消えた「テロ対策」:日本の民主主義の退行現象

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商品表示と本当の中身が違うこと、タイトルと中身が違うこと、看板と店内の実態が違うこと、これは往々にしてある。
往々にしてあるからいいわけではない。私も昔某日本の南国で、夜に食事にありつけず、どうしても開いていたのがそこしかなく入った店の名が「スナックみさこ」であったにもかかわらず、入店したらゴリラみたいな屈強な中年男性が店主だったときは、度肝を抜かれた。

食品偽装や不当表示がなぜ問題なのか。それは、我々が意思決定のプロセスの前提となる事実が正しくないため、我々の意思決定自体にキズがついてしまうということである。

「正しい情報があればこの決定はしなかった」
こういうことになる。

共謀罪法案が衆院の委員会で可決された。来週半ばには参院での審議が開始されそうな日程である。
本来、法案が可決されるというのは、論理的な議論は熟し、論点も網羅され、それぞれ意見や価値観の違う立場の者同士の議論が尽くされたからこそ、その熟議の過程での様々な価値の激しい凌ぎあいの結果、一人で決めるよりは、よりよい解に近づくであろうという想定のもと、やむなく決断のツールとして、多数決を行うのである。この前提が崩れれば、民主主義はまったく無機質な多数決主義に堕する。
今回の共謀罪法案の核心は「テロ対策」であった。首相はテロの脅威を強調、共謀罪がなければオリンピックが開催できないといっても過言ではないとまで発言し、共謀罪に競技場の設計やロゴマークでも作らせるのかと思ったほどだ。
安倍首相自身、2月3日の予算委員会でこの法案の目的として「目的は二つでありまして、二つの目的については、まさに条約を批准するためですね、もう一つは、テロに対する、穴があればそれを埋めておく必要があります」と答弁している。つまり、法律制定の目的として、1.条約批准と2.テロ対策を掲げている。もう一度いうが、1.条約批准と、2.テロ対策を明確に分けて法律制定の目的としている。
つまり、当初は、条約の批准からあえてテロ対策をくくりだしているのだから、最近では条約=テロ対策というようなイメージになっているが、そうではないのだ。
そして、このテロ対策、現行法での穴として政府が出してきたのが、いわゆる「3事例」である。1.サリン事件事例、2.9.11ハイジャックテロ事例、3.サイバーテロ事例である。
これは、想像を容易にするためにいえば安保法制のときの「ホルムズ海峡事例」や「(赤ちゃんを抱いたお母さんの絵でおなじみの)米艦防護事例」と同じである。つまり、その法案の必要性を支える事実、レゾンデートル(raison d'etre:生命線)である。

しかし、本日5月19日の衆議院法務委員会で、金田大臣は、いわゆる3事例+αが立法事実かと問われ、「立法事実は条約の批准」とだけ明言した。すなわち、条約批准には本来テロ対策は含意されていなかったのだから、事実上、テロ対策を立法事実から外したのだ
法案の目的の根幹が当初想定していたものと変化した、否、そもそもその看板は偽りの看板であったということだである。国民の代表である国会の場では、当初掲げられた「テロ対策」という看板に基づいて、この法案の是非を議論してきた。共謀罪の法案がテロ対策として実効性があるかどうか、当然そこに焦点をあてて、論戦が繰り広げられてきた。
しかし、いざ店内に入ってみたら、まったく看板と書いてあることが違い、再度入り口を見てみたら看板が変わっていた。これと同じことである。

そうであれば話は簡単である。議論してきた前提が消失したのであるから、その消失した砂上に積み上げた決定のプロセスも消失し、決定自体が正当性を失うということだ。つまり、具体的には、審議を一からやり直すか、この法案を一度ないものとするしかない。なぜなら、もうこの法案がよすがにした正当性の基盤は、すでになくなっているからだ。何よりも、これがなくなっていることを政権自らが認めらのである。

それにもかかわらず、法案は可決された。

採決は多数派がすればどうやっても可決することから「強行」ではないという声がある。しかし、真の熟議民主主義における採決は、様々な価値のバーゲニングと妥協のプロセスを経て、議論を尽くしたという”付加価値”が付与されている。この付加価値があればこそ、多数決主義はそのむき出しの数の論理に民主主義という価値を纏える。そうしなければ、本来多数決とは真っ向衝突するはずの立憲主義(=個人、少数派のためには多数決をも覆す価値)と民主主義が両立しないのである。
さらに付言すれば、ここには「手続き」を大切にするという価値観がある。人種、信仰、姓、年齢等が異なったとしても、手続きだけは中立でありうる。アメリカでプロセスが重視されるようになったのも、人種や民族、信仰が違う中で、手続きの中立性しか、物事を裁定する基礎足りえなかったからである。手続きは無色だ。日本も本来は、「柔道」「剣道」はたまた「野球道」と、「道」=「プロセス」を大切にしてきた国民であったはずだ。私は剣道をやっていたが、試合に入るまでに様々な作法があり、いざ試合中も、いくら面や小手をとっても、声が出ていないと一本にはならなかったりする。徹底的なプロセス重視だ。むしろ、この「道」を踏むことを美徳とする文化があった。しかし、今や、そのような価値観は消えてしまった。
プロセスにどのような嘘偽りが混ざっていても、プロセスにおける作法を無視しても、結論から逆算して、当初予定していた結論に持ち込むことのみが最高の価値とされる。

法案審議のプロセスに瑕疵があったのなら、やり直すか、出た結論を否認するのが筋である。私はテロ対策はいらないなどとは言ってない、すぐにそのような反論をする輩がいるか、そんなこと最低限の理性を備えた人間なら考えるわけなかろう。もってまわった言い方をすれば、「バカか」と言いたい。
嘘の看板をかけ、挙句にその法案の必要性とされてきたテロ対策という立法事実まで消失してしまった。

なぜここまで卑怯で不誠実なのだろうか。
なぜわが国の知性をフル稼働させてこの法案をよりよいものとする発想がないのか。
それがこの国を「取り戻す」方法なのか。

熟議をするのは、どんな人間でも、一人では、皆で知恵を持ち寄って決めたこととまったく同じレベルの決定ができる保証はないからである。何より人は間違える。だからこそ、我々人類は、皆で決めるプロセスを妥当性のあるものとして獲得してきた。今まさにこのプロセスは、音をたてて崩壊している。これは我々にも責任がある。看板が違うことを見抜く目をもたねばいけない、不当表示であることを察知する舌がなければいけない。

まだ参議院の議論がある。衆議院でのやりとりの積み上げを踏まえ、我々は、不当表示や看板の掛け替えを見抜かねばならない。そして、我々が大事にしてきた「道」を取り戻したい。まさに、そのための道はまだまだ半ばだ。

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