倉持麟太郎の“Rin”sanity
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2017/02/24new

権力の弛緩と僕らの自由について(2)自由の”共食い”を生む共謀罪(続き)

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【テロ等準備と共謀罪は違う?:2本の柱】

1つの論点として、過去3回廃案になった共謀罪と今回のテロ等準備罪の違いとして、「構成要件を厳格化した」点が挙がることがある。果たして、本当に「厳格化」することによって、見違える法案となっているのだろうか。

ちなみに、この中身を検討せずに、政府が言うままに「共謀罪の構成要件を厳格化したテロ等準備罪」と無批判に垂れ流しているマスコミがあるが、これは本当か。ついでにマスコミの自己検証能力も吟味できる。

 

●「組織的犯罪集団」:主体の問題

 まず、一つ目の柱が、テロ等準備罪の行為主体の問題である。つまり、どのような人が対象になるのか、という問題である。過去の共謀罪からの議論で単純に整理すれば、主体となるのは、暴力団やテロ組織のように、“そもそも”その団体の結合の目的が犯罪実行にある集団なのか、それとも、もともと正当な活動を行っていた団体(一般人)でも、犯罪実行をする団体に変化したと判断された場合も主体たりうるのか、という問題である。

後者であれば、一般人であっても、犯罪実行集団に「一変」したと判断された場合は逮捕・処罰の対象になるということである。

菅官房長官は、これにつき「一般人は対象にならない」という翻訳で説明していた。

 これに対して、法務省から統一見解として提出された、平成29年2月16日付「2月9日山尾志桜里君要求に係る理事会協議事項について」と題する書面(以下「本件書面」という。)にいう、テロ等準備罪における「組織的犯罪集団」の定義は、もともと正当な活動を行っていた団体であっても、犯罪を目的とした団体に「一変した」と認められれば組織的犯罪集団に該当するとしている。これは、過去の共謀罪における「団体が形成された当初の目的のみをいうものではなく、当該共謀が行われた時点における個別具体的な団体の活動実態に照らして判断されることになります」【平成171014日 衆)法務委 大林政府参考人】との説明とまったく同趣旨の定義であり、過去廃案となった共謀罪と、今回のテロ等準備罪は、要件の中核たるその犯罪主体の定義において、なんら変わるところがなく、要件を厳格化したとの説明も失当であるということになる。

共謀罪とテロ等準備罪の要件設定が同じであるということは「全くの誤り」【平成29年2月9日 衆】予算委 安倍内閣総理大臣】とした総理の説明自体が、「全くの誤り」である。

そしてまた、上記のとおり、共謀罪とテロ等準備罪における要件は同趣旨であるから、一般人であっても、犯罪実行集団に「一変」すれば本罪の対象になりうる。

本罪に該当しなければ「一般人」と言えるとしても、「一変」性が犯罪の対象か否かの分水嶺だとすれば、全国民が潜在的に「一変性」を有するわけで、もともと本罪に該当することがない「一般人」など想定しえない。

したがって、「一般人は対象にならない」との菅官房長官の説明は虚偽である。

以上のとおり、組織的犯罪集団の要件は厳格化されておらず、過去の共謀罪と同趣旨であるから、一本目の柱が倒れた。

●準備行為:行為の問題

政府が、テロ等準備罪を共謀罪ではない、ということの核心は、この準備行為性にある。

つまり、共謀罪とは、共謀及び合意をもって犯罪が成立し処罰するものであるところ、テロ等準備罪においては、さらに「準備行為」がなされなければ、処罰条件を満たさない、というのだ。つまり、さきにみた立法事実の事例2におけるハイジャックテロを例に考えれば、その話し合いだけでは処罰はされず、具体的に飛行機のチケットを予約しなければ処罰されないという。しかし、チケットの予約行為自体を取り上げると行為の危険性がないため、現行法では処罰できない、ということであった(この点は先に現行法でも対処できることは論じた)。「非行為(合意=内心)」で処罰するのが共謀罪、「行為」で処罰するのがテロ等準備罪、というわけだ。「行為」という発現形態をもって犯罪のメルクマールとすることは、より明確性をもつ。

しかし、いやしくも政府の説明にあるとおり、その行為自体は具体的危険性をもたない。飛行機のチケットを購入している人を処罰できるかどうか、当該行為が危険かどうかは、その人の内心に立ち入らなければわからない。さらにいえば、犯罪の準備のための「共謀」があるという前提があるからこそ、その行為を処罰できるのである。

今回、政府は明示していないが、犯罪成立及び、自由保障機能のメルクマールたる構成要件は、あくまで「合意・共謀」であり、これをもとに犯罪捜査が行われるとすれば、本罪の本質は、人々の共謀や合意を取り締まることにある。また、後述のとおり、これを包括的に認めれば、我々の社会は変容する。

したがって、「準備行為」を要求することにより構成要件を厳格化したということも言えない。

二本目の柱も維持しえない。

 

以上書いてきた通り、「共謀罪の構成要件を厳格化したテロ等準備罪」とは到底断言できない状態であることは明らかである。少なくとも、断言はできないはずだ。

にもかかわらず、メディアでは、いまだに「構成要件を厳格化した」などと断定的に冠して報道しているところが少なくない。どれだけ論理や言葉に不誠実なのか。論理や事実しか依るものがないはずであるのに、その点の誠実性を放棄することはメディアの自殺であり、表現の公共的使用を認められた主体として不適格である。

2月23日付けの読売新聞の社説でも、本罪について「不安煽る言説は慎みたい」などと、正しい分析や論理的言説を放棄して、その議論姿勢をまるで“大人”としてたしなめるかのような記事を書いているが、その内容は、まるで本罪の議論をつきつめたものではなく、あきれるばかりである。教育に悪いので、知的誠実性の放棄を慎んでもらいたい。

一方で、「平成の治安維持法」などというほぼレッテル張りとしてしか意味をもたない粗雑なキャッチフレーズ(や、これに準ずる、「飲み屋で上司を殴りに行こうと言ったら共謀罪」というような議論)も厳に慎んでもらいたい。(具体的には後述するが、今回の法案は、2006年のときよりもさらに情報化された2017年の社会にこそ自由への危険性が新たな形で立ち現れるのである。その意味で治安維持法とはむしろ文脈が異なる。)まさにこれこそが自由についての本質的議論を阻害する有害な言説である。安保のときの「戦争法案反対」と同じで、標語を叫ぶことで一部には訴求するかもしれないが、私が議論したい、もっと胆力のいる自由についての議論は、この標語に覆いかぶされ、ついには放逐されてしまう。

この両者どちらも、本質的には自由について真剣に議論する知的態度が欠如している。


【正しき看板をかけ、民主的正統性を獲得すべき】

今回、包括的な共謀罪の創設にあたっては、私は自由をめぐる長調と短調の主題があると考えている。それは、
1.テロの恐怖からの自由(“安全・安心”)
2.国家からの自由(個人の自由)

である。

そして、既述のとおり、今回提出されるテロ等準備罪について、今回の法案の立法事実があるのかないのか(三つの穴)と、過去三回廃案になった法案から厳格化されたのか(=過去の共謀罪と違うのか)(2本の柱)、という二つの論点がある。

 なぜこれらをここまで細かく確認するかというと、自由を論じる前提として、一体この法案が何をどこまで制限しようとしているか、議論の対象を明らかにしなければならないからである。そして、できれば各個人がどう考えるかの材料を提供したい。

 法案の「看板」ではなく「中身」がどうかを正しく提示し、正しく認識・議論することがもっとも大事である。

 以前、高級料亭において国内産の高級食材と謳っていた食材が実は輸入物の価値にしてかなり低いものを使用していた、といった食品偽装事件が多発した時期があった。舌を肥やせ、という審美眼的見地からの批判もあろうが、そもそも、“偽装”したことによって、消費者の正しい判断の前提を確保できないところに問題がある。

 国会は、多元的な価値や利益の対立と妥協(バーゲニング)というテストをくぐりぬけることによって、その帰結に正統性が付与されうる。

聞こえのよい偽の看板で偽装しては、そのバーゲニング・テストを不当にスルーしてしまう可能性があるのだ(purarismの観点から経済的自由における規制目的二分論を説明した長谷部恭男教授の分析参照)。過去の共謀罪と同じなのか、違うのか、同じだとしても受け入れるべきなのか、これらを正しく議論するためにも、正しい看板をかけて、国会というバーゲニングテストに臨む姿勢が強く求められる。そうでなければ、国会及び国民を欺いているのと同義である。

 

 ここまでの議論を裏から、というか人々の意識から分類すると、

a.今回要件が厳格になっていたとしてもテロ等準備罪はいらない

b.厳格になっているならば必要である
c
.これまでの共謀罪と同じ(厳格になっていない)であれば必要ない

d.これまでの共謀罪と同じであっても必要である。

というグラデーションが存在する。

aが上の「1.国家からの自由」へのインセンティブが一番高く、dは「2.安全・安心の価値」により強く親和的な人々の考えであろうか。

これを読んでいる方は、自分はどの考えにより親和的だろうか。

 

【テロとの戦いも国際社会への貢献ももちろん大事:共謀罪を論じる困難さ】

共謀罪について、議論が難しいのは、共謀罪を創設することが、まったく新しい概念を創設するのではない点である。すでに個別の法律に「共謀罪」は存在する(特定秘密保護法など13の法律に規定されている)ので、集団的自衛権や、退位の問題(歴史的にどうかは措いておいて現行法として)のように、まったくなかったものを創設する、というのとは、わけが違う。つまり、0か100か、という論理の問題ではなく、程度問題であると考えられやすい。なんの程度問題か。我々の社会がどこまで自由を認めていくのか、という極めてセンシティブな程度問題である。
 そして何より、「安全・安心」「テロの抑止・防止」という看板は、現代を生きる人々の肌感覚に危機感とそれへの救済として直接に訴えかけるため、自由の価値との相克関係を吟味し、どこに自由と安全の一線を引くのかという緻密な議論ができない。
 テロの脅威に対しては、絶対に屈することなく、断固として戦わなければならない(テロを生んだ背景ばかりを論じて、現実の対応に言及しない言説などは、違和感を感じる。どんな大儀や背景があろうと、同じ状況でテロをしないという選択をする人間がいるのに、テロをすることは許されない。それは、この社会から共生への意志を奪い、まさに「万人の万人に対する社会」に巻き戻してしまう。)。また、国際的な価値秩序にコミットすることは、責任ある主権国家としてあたりまえのことだ。
 しかし、今回の包括的共謀罪によって、我々が意識的・無意識的に獲得し、その一線を守ってきた自由のラインを後退させるという自覚が果たして我が国の国民にはあるのだろうか。
先に見た「より制限的でない他の手段」があるなら、そちらを選択すべきだ、という価値観は、自由の制限は緻密かつ慎重になされるべきで、なるべく自由が制限されないことが望ましい、という、大きく言えば、我々一人一人が真に自由を最も尊い価値であるとの認識を共有しているか、が問われている。自由について敏感でない、価値をおかない社会では、自由は「安全・安心」にすぐに飲み込まれてしまう。

【2017年現在の社会における共謀罪は、2006年の共謀罪よりも自由と緊張関係がある】

そしてここからはさらなるイマジネーションが要求される。すなわち、本罪が成立したあとのこの社会の変容である。

法は、実体が変わればそれを履践・担保するための手続も変わる。

共謀罪は、その犯罪の核心を「共謀=合意」におくため、捜査機関は、“共謀していること”を探知し、摘発しなければならない。テロのためには、共謀段階で検挙することが、この法のねらいだからだ。

想像してみてほしい。人々の私生活における話し合いや合意、これは通常、非常にプライベートな空間でなされるはずである。これらを可視化し把握・探知するためには、我々の私生活に捜査機関=国家権力の目や耳が網の目のように潜在化して配置されなければならない。すなわち、監視の強化と、会話・通信等の傍受の拡大である。

事実、2月23日の衆議院予算委員会第三分科会において、金田法相は、「メーリングリスト」や「LINEグループ」による合意でも共謀罪における合意を形成する可能性は「否定しない」とした。これらをどのように把握するのか。人々のメールやLINEグループを常時監視できるシステムを構築しなければ不可能である。

2017年の現代社会は、高度に情報及びサイバー空間に依存する社会である。このような社会は、個人の意思を越えて、まったく無意識的に人間同士のつながりをほぼ自動的に拡大・構築したがゆえに、利便性と引き換えに、包括的な監視や情報把握及び干渉に対して非常に脆弱な社会になった。真偽はいまだわからないとしても、ロシアのサイバー攻撃によるアメリカ大統領選の結果への影響の有無を例にとれば、これは自国の民主主義が、サイバー空間によって破壊され、主権への他律の混入の途が開かれてしまっている好例(悪例?)だ。

根本的な社会制度設計についてのコンセンサスや、人々の自由観より先に、実態が変化してきてしまった。

昨今、最高裁も含めて「忘れられる権利」についての議論がなされているが、サイバー空間は、一度立ち入ってしまえば、入り口はあっても、出口はない。ドアを閉めた瞬間に、もうサイバー空間からは退出できない。忘れられる権利は、ここに出口を設けさせてくれ、という、サイバー空間への入退場の自由についての議論である。

プライバシー権は、古典的には自己情報コントロール権として論じられてきたが、もはや現代社会のサイバー空間では、コントロール不可能である。

出口無きサイバー空間に監視者の目や耳が入れば、“白”か“黒”か関係なく、まさに「一網打尽(安倍総理大臣【平成29年1月26日:衆院予算委】)」である。

LINEグループに参加したが、そのまま放置していることもあるだろう、メーリングリストもそうだ。それらが一網打尽にされてしまうのであれば、実は、今回のテロ等準備罪は、過去の共謀罪よりも、さらに自由制約的な法律である、ということである。構成要件の厳格化どころではない。

これは、社会がそのように変化してきていることと呼応しあうものであり、その意味で、過去の議論よりも、さらに「2017年現在」における本罪と自由の関係をきめ細やかに論じなくてはいけない。

そして、傍受が、社会生活への不可視の網の目だとすれば、もし、傍受の拡大を認めないとすると、その網の目は可視化せざるを得ない。具体的には、LINEグループに入っている人をすべて参考人として呼んで白黒の判断をして、白ければ釈放する。つまり、文字通り広く“関係者”に網をかけ、その後に白黒を判断する。これは、そもそも身体拘束のハードルが著しく下がってしまうと同時に、冤罪を生む。

監視の拡大か、冤罪か。どちらを選ぶか?どちらも選びえない選択肢ではないのか。ではなぜこうなるのか、包括的共謀罪自体に、このような自由への挑戦が内在しているからである。

フーコーのパノプティコンをひくまでもなく、監視されているということだけ認識させられ、その監視主体が不可視の状態、つんまり、どこで誰が監視しているかわからないけども、確実に監視はされているという状態を作るだけで、監視体制の構築は完成である。あとは、監視されている客体が、監視を勝手に過大評価し、自ら自由を減縮していく。萎縮の構造である。萎縮の病理に感染した自由は自壊するのみだ。後述のとおり、監視によって萎縮した自由は、お互いの自由の外延を懐疑で接着し、共生社会自体を破壊する。

包括的共謀罪から逆算して設計される社会の核心的な装置には、自由を自壊させるメカニズムが内包されている。

 

【「共謀罪」の議論で我々は何を承認しようとしているのか】
 誤解なきように釘を刺すが、過去の共謀罪と同じ、という論証に成功すれば、即本罪は必要ない、などと論じているのではない。

真に、「安全」「安心」「テロの根絶」のためなら「監視か冤罪か」という社会への変容可能性を理解し、自らの自由のラインは後退してもよい、との前提を共有して、包括的共謀罪を承認するなら、我々はそのような社会を選んだのだ、というだけのことである。我々が我々の自由観として、そのような社会を採択すればよい。


 しかし、果たしてそこまで真剣に自由の価値を考えているか。

また、政府(メディア)は、正しき議論の材料を誠実に提供しているか。
 

威勢よく「テロ対策」や「グローバルスタンダード」と叫ぶのも、表現の自由が保障されているからだということを明確に認識しているのか。そのような発言が今回の共謀罪の関係で取り締まられるなどという話をしているのではない、自由の制限を主張する者が享受する自由と、制限対象としての自由は、異質のものではなく、むしろ同じ自由なのである。

民主主義が、多数の専制に堕しないのは、その熟議の過程で、なされた決定がもし自分とまったく反対の価値や利益であってもその決定を受け入れることができるというテストをクリアするからである。およそ自分が逆の立場になったとしたら受容できない決定を強行することは、民主主義や、その産物である法自体の正義要求を満たさない。

さらに進めれば、受容できない決定の敗者は、この決定に服する納得感を得れない。そうなれば、共同体の維持も困難になり、ひいては、リベラルデモクラシーがその眼目とする「共生」のプロジェクトも、瓦解する。
自己が行使する自由と、それによって制限される自由を完全に切り離し、自己の行使する自由を優先させるような言説は、典型的なご都合主義的なダブルスタンダードである。
 そこには、常に自身の自由も制限の対象になりうるのだ、という節度と緊張感がまったく欠如している。これは、裏を返せば、他者の自由の軽視である。他者の自由の軽視は、リベラルデモクラシーの基礎を掘り崩す。

この社会の自由に、制限されるべき”二級”の自由は存在しない。

包括的共謀罪の創設は、我々個人に保障されている自由のintegrityを破壊、分断し、制限されても良い自由と、そうでない自由を創設してしまう。ウイルスとされてしまう自由と、そのワクチンとしての自由を観念し、それぞれが共食いしあうことになり、最後は、自由そのものが死滅する。

我々が享受する自由には死守すべき自明のラインは存在しない。我々が決めたラインが我々の自由のラインである。監視と不信に満ちた社会が実際にくるのか本当にこれでいいのか?我々の社会における自由のラインをここに引いていいのか?

概念的で難しいといって放棄してはならない。1+1=2を理解するのに、実際の物体を二個並べて理解するのと同時に、「1+1=2」という概念を理解しなければ、一億+一億は理解できなかったはずだ。それと同じである。

いったい我々が自由をどのように考え、リベラルデモクラシーをどのように考え、そして、どのような社会形成を採択するのか、包括的共謀罪の是非への態度決定は、我らが市民社会と僕らの自由の価値にあなたがどのようにコミットするのかという態度決定と同義である。

自由という言葉自体の弱体化は否めない。しかし、私たち一人一人が、我らの個人の自由とリベラルデモクラシーという価値に対してどれだけコミットしていくかを示すチャンスである。ここは、一方で“テロ対策”を掲げて「不安を煽る言説は慎みたい」や、他方で「平成の治安維持法」などというような両端において極めて“雑”な議論に乗っかることなく、僕らの自由の中身を自分たちで再考し再定位しようではないか。

 

 


12:18
2017/02/24new

権力の弛緩と僕らの自由について(2)自由の”共食い”を生む共謀罪

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【夢、情熱】
得体のしれないウイルスから人々を守るために、効く効くといわれているワクチンが発明された。
ただし、このワクチンには強い副作用がある。正常な細胞までむしばんでしまうのだ。
人々は、ウイルスにおそれるあまり、このワクチンを過剰摂取した。
その結果、人々の体内の正常な細胞まで、すべて死滅してしまった。


【共謀罪狂想曲】
国会では、共謀罪をめぐって、金田法務大臣が、その答弁内容も答弁姿勢もフラフラノックアウト寸前で、挙句、「もうこれ以上攻撃しないで」というペーパーを出し、内閣の国会に対する責任を放棄し議院内閣制を侵犯、メディアの報道の自由に対しても無自覚的に圧力をかける、という異常空間であった。いまだに、金田大臣の答弁は、答弁と呼ぶのもはばかられる、極最低劣悪劣弱不誠実怠惰答弁であり、もはや法案提出責任者としてまったくふさわしくないことは、誰の目から見ても明らかである。

彼をこの任務においておくことは、野球の9人のポジションの1つに猿の人形を置いておくようなものである。つまり、冒涜である。

最大の逃げ口上は「成案を得てから答弁いたします。」であったが、ついに、テロ等準備罪の法案が、3月7日閣議決定、3月10日に提出されるということだ。これも、3月11日という東日本大震災のあの日の前後、メディアが震災について集中的に報道し、特集含めまったく枠のないところにぶつけてくるあたり、やはり情報戦略としてしたたかな政権だ。

【議論の単純化】
共謀罪の議論は簡単で、そもそも、行為がなくとも共謀(合意)するだけで逮捕という重大な身体拘束がありうるのであるから、人身の自由(憲法31条)や思想良心の自由(19条)が制限されている。
これら尊い権利についての重大な権利制限なのであるから、権利制限をする側たる政府は、当該制限の適法性・合憲性を立証しなくてはならない。あくまでも、立証責任は、政府にある。
そこで、司法試験受験生よろしく論証すれば、ここで持ち出されるのがこの制限が憲法上許されるかどうかを判断する違憲審査基準である。具体的には、制限の目的と手段を精査する。
今回の場合は、人の内心と身体という極めて重要な権利に対する強力な制約であるから、政府は目的の必要不可欠性と、手段の必要最小限度性を立証せねばならない。
さらに一歩踏み込むと、この手段が必要最小限度かどうかというのが大事で、ここを厳格に審査する手法をLRA審査という。LRAとは"less restrictive alternative"の略で、「より制限的でない他の手段」があるかどうかをテストすることにより、当該制約手段が必要「最小限」かを判断するという、厳格な審査手法である。

 
共謀罪では、下記のとおり、共謀罪という「行為」以前の合意を取り締まらなくても、未遂罪や予備罪という、行為自体が危険性を有する場合に取り締まるという、共謀の手前の罪、すなわち「より権利制限的でない」ほかの手段が存在する。
はからずも、それが、今国会で明確に反証された。すなわち、政府は、この法案による権利制約についての立証責任を果たせなかったことになる。
したがって、法律や論理(や答案用紙)の世界では、包括的な共謀罪の制定は、憲法上も認められず、お引き取り願うことになる。これでおしまい。
(そもそも、「組織的犯罪集団」等の概念が、漠然不明確である等の観点から、文面審査で違憲性が認められアウト、ということもありうる。)
のはずが、そうはいかないのが、政治の世界である。
今見た目的や手段について、もう少し詳しく立ち入ってみよう。

【立法事実:法案の必要性:三つの穴】
今回、政府が国会に提出した法案は、「テロ等準備罪」という名前であるが、内実は過去三回廃案になった共謀罪とその内容において変わらない(どう変わらないか、については後述)。
101回告白するとドラマになるくらいなので、3回フラれたのに告白する男をしつこい!と思うか執念深い!と思うか武田鉄矢!と思うかは無制限の個人の思想良心にゆだねるとしても、そもそも今回の法案は、過去の共謀罪と同趣旨のものを出してきたのだろうか?
総理によれば、前回廃案になっていた共謀罪と今回のテロ等準備罪が同じというのは「全くの誤り」だそうだ。
では、今回の法律を制定する必要性はどこにあるのだろうか。

その法律を制定する必要性を「立法事実」という。
今回、法務省は、本法案の立法事実として、3つの事例を出してきた。つまり、既存の法体系では、処罰できない3つの事例だ。共謀罪を創設しないと処罰できないという。これがまさにテロ等準備罪制定の必要性の要、これが倒れれば本罪制定の必要性なし。
その事例が以下である。

 

(立法事実1)テロ組織が殺傷能力の高い化学薬品を製造し、これを用いて同時多発的に一般市民の大量殺人を行うことを計画した上、例えば、殺傷能力の高い化学薬品の原料の一部を入手した場合

 これは、規律しうる現行法を探すと、「サリン等による人身被害の防止に関する法律」が存在する。その第2条で処罰対象の物質については「政令で定める」としている。

 

 つまり仮に現在規制されていない危険な化学薬品でも、新たに危険な物質が登場すれば行政府が「政令」で加えれば足りる。また「原料の一部を入手した場合」についても、当該法律の原料の一部の猛毒性の要件を緩和することや、条文の文言に、原料の一部入手の場合も書き加えればよい。

 

 では現行法でも対処できない危険な薬品はどれだけ存在するのだろうか。

 2月3日の衆院予算委で民進党の山尾志桜里議員が「(現行法上規定されている)サリン等にあたらないけど殺傷能力の高い薬品の名前を挙げてほしい」と質問したところ、金田勝年法相は「具体的な薬品を想定していない」と答弁した。


 さらに安倍首相はこう答えた。

 「テロ組織あるいは国家ぐるみで、化学兵器になる毒性物質をひそかに開発しているのは当然のことであろう。(中略)未知のものであっても準備を行っていることが明らかになれば検挙できる」

「未知の薬品もある」。だから共謀罪が必要だ。こんな論理はまかり通るだろうか。罪と刑を事前に法定しなければならならい「罪刑法定主義」(憲法31条)に反する疑いすらある。つまり、犯罪構成要件を明確にすることで、裏から「どこまでなら自由か」の枠を規律している刑事法の機能を果たせないということである。

政府が例示した一つ目の事案は「政令」で危険物質をその都度加えたり、既存法の条文の文言の細部を改正すれば足り、包括的な共謀罪よりも「より制限的でない」手段が存在することになる。

 

(立法事実2)テロ組織が複数の飛行機を乗っ取って高層ビルに突撃させるテロを計画した上、例えば、搭乗予定の航空機の航空券を予約し

た場合

 

 これは一つ目の事例以上にひどい。過去の参院法務委員会で「航空機強取等処罰法」(通称・ハイジャック防止法)について同様の事例が挙げられ当時の法務省刑事局長はこう答弁している。

 

 「航空券を買ったという場合にも、ハイジャックをやるというその目的でその当該の航空券を買ったというような場合が第3条の予備に当たるわけでございます」

 つまり現行法のハイジャック防止法でも、航空券購入段階を予備罪で処罰できると過去に政府が法解釈しているにもかかわらず、無理くり「対応できない事例」として今さら例示したわけだ。立法事実1とあわせて、オウム事件や9・11を想起させるような典型的なテロ事例を「検挙できない」などと政府答弁することの方がよっぽど危険だ。

 

(立法事実3)テロ組織の複数のクラッカーが分担してウイルス・プログラムを開発し、そのウイルスを用いて全国各地の電力会社、ガス会社、水道会社等の電子制御システムを一斉に誤作動させ、大都市の重要インフラを麻痺させてパニックに陥らせることを計画した上、例えば、それらのクラッカーがコンピューターウイルスの開発を始めた場合

 

 これは2011年に成立した刑法改正で盛り込まれた「不正指令電磁的記録に関する罪」(168条の2、168条の3)が問題となる。

 

 ただこの犯罪は現行法上未遂が処罰されない。法案を検討する際に、あまりに広範な処罰の恐れがあると指摘されあえて未遂を処罰しないという政策判断があったようだ。だが、もし事例に挙げているようなサイバーテロの恐れがあり、既遂以前の段階を処罰する必要性があるなら、個別に、既遂以前の未遂や準備・予備、さらには未遂よりも前段階であるの共謀・陰謀を処罰対象にすれば足りる。

 

 このようにしてみるといずれも「より制限的でない手段」は明らかに存在する。したがって、目的達成のための手段としては、必要不可欠とはいえず、また、政府が、本法案の立法事実=必要性として挙げた3つの事例=穴は、より制限的でない手段によって埋まることが明らかとなり、立法事実も存在しない。したがって、包括的共謀罪を創設する正当性は崩れた。

 

【デジャビュ】

 このような光景は、デジャビュではないか。そう、2015年の安保法制である。政府は、現行の個別的自衛権では対応できない事例として、ホルムズ海峡の機雷掃海事例、米艦防護(お母さんが赤ちゃんを抱いたあのフリップのやつだ)を立法事実に掲げた。このとき、政府は、集団的自衛権行使を解禁したいがゆえに、個別的自衛権を極端に矮小化した。「個別的自衛権なんて何にもできない、だから集団的自衛権が必要です」と。これによって、発艦準備中の戦闘機への給油に対する自衛権行使など、従前、個別的自衛権でカバーできていたケース等まで、できないという答弁に変えてしまった。

このときも、無理に「集団的自衛権を必要とする状況」を作り出すためにひねり出されたのが、ホルムズ事例と米艦防護事例である。そして、政府は、法案成立の直前、参院審議の最終盤に、これらの事例については、「想定していない」と、立法事実がないことを認めた。

今回も、この立法事実たる3事例は、サンドバックか撒き餌のようなもので、最後は「想定していない」となるのであろうか。そうであれば、もはや必要性がないにもかかわらず、立法がなされることになり、まさに立法権の担い手である国会と内閣は液状化的に同化しチェック&バランスももちろん機能不全となる。立法権の濫用であり、権力の濫用である。

(つづく)
12:17
2017/02/15

ピアニッシモを極めればフォルテはいらない

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チェリビダッケというルーマニア人の指揮者(1912年生/1996年没)がいた。晩年、禅を愛し、仏教徒になった。
白髪オールバックに鷹のような目つき。希代の大指揮者カラヤンについて聞かれたときの彼の言葉が残っている「(カラヤンは)ひどいなんてもんじゃない。彼は商売人として優秀か、でなければ耳がないかのどちらかだ
スーパースターの指揮者に対して「耳がない」など、宣戦布告を越えて、一発着弾している。
彼は、数々の暴言を残しながらも、伝説的な指揮者として記憶されている。音楽への弁証法的なアプローチもさることながら、テンポの設定が特徴的だった。俗っぽい表現を使えば「遅い」。とまりそうに「遅い」。そんな彼が大切にしていたのが、微弱音だ。
彼は言う
「真にピアニッシモ(最弱音)が実現されれば、フォルテなどいらない」

私の怖い怖いピアノの師匠が、嬉々として大音量でラフマニノフやリストを弾く私に、顔をしかめながら、諭すように教えてくれたものでだった。「フォルテ(強音)はどんなに強く弾いても、威嚇はできても人の心は開かない。でも、ピアノ(弱音)は人の心を開く。弱音を極めなさい。」
”静かな”音楽は、小さい音とイコールではない。その音楽のもつ豊かさにおいて、ライブハウスの爆音よりも訴求力をもつ。ただの弱音は喧騒に消え入るが、豊かな静けさは、絶対に埋没しない。聴き手が耳を傾けるからだ。

演奏はコミュニケーションである。その奏でる音自体が、「音の姿勢」が、聴衆の心の傾きを生む。

なんの話をしているのか。
昨日(2月14日)の高森氏のブログで語られた、退位問題について、ひいてはある問題を伝えるときの姿勢について、私は感銘を受けた。

・まずは問題や本質を「正しく理解」すること。
・「普通の礼儀」をわきまえること
・「陛下のお役に立とうとする国民に相応しい丁寧な態度で」「真剣に」熱意を伝えること
「静かに」「懇切に」語ること
・回答が意に沿わなくても「激昂したりしない」こと

これは、「個人」として「共生」のために「対話」するときのエッセンスがすべて詰まっている。高森氏が、長年研究されてきた末にたどり着いた学問的真理や、陛下への敬愛、これが目の前で破壊されようとしているときに、その対話の姿勢として、攻撃的になるのではなく、”強さ”や”圧力”や”大きさ”ではなく、「礼儀」「丁寧」「静かに」「懇切に」「激昂したりしないで」対話せよと言っている。

ここには、私の解釈による立憲主義が想定した”やせ我慢する個人”そのものが描かれている。自己が確信している問題だからこそ、これを声高に叫ぶのではなく、相手を攻撃し否定するのではなく、静かに懇切に伝える。
チェリビダッケの言葉や、私がかつてピアノの師匠に聞いた言葉との通奏低音が、ここにはある。
人は、相手のコンタクトにあわせて、コミュニケーションの姿勢を決める。攻撃的にコンタクトすれば、相手は防御として攻撃的になる。だからこそ、弱音は心を開くが、強音は威嚇しかしないのだ。
本当に伝えたいとき、静かに、しかし豊かさをもって、伝えようと再認識した。なぜなら、それが本当に自分にとって相手に伝えたいからだ。

高森先生、ありがとう

18:37
2017/02/13

チーム民進党

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昨日2月12日のゴー宣道場には、細野豪志議員と山尾志桜里議員がゲストとして参加した。野党では発信力・政策論議ともにトップクラスの二人だろう。
二人の議論を以下にまとめると
【実体的議論】
これは、見逃されがちだが、今回のお言葉を含めた退位問題の本質は、「恒久的な皇位継承ルールを創設すること」である。
これが叶えば、本来、それがどのような法規範によるかはまさに法技術的な問題となる。
ここに、憲法の要請により、国家の基幹的正当性を担保するため、「皇室典範によるべき」という命題が導かれ、結果的に、「皇室典範による恒久的な皇位継承ルールの創設」という最終命題が導出される。
退位のみは特例法でも、呼称は典範改正が必要であり、したがって、典範改正が実現する、などというのは与してはならない詭弁である。
これらの点は明確にされた。
また、細野議員の「人権」と「人格」の論点提示は、論理を越えた人間存在へのまなざしを我々に迫った。

【手続的議論】
手続論としては、山尾議員の発した「落としどころは探さない」という一点に尽きる。
”皇室典範改正による恒久的制度の創設”というゴールが見えている中、それ以外の「落としどころ」などない。
上記のような”まやかしの典範改正”によって民進党にも花道を作った、などという駆け引きによって得た果実は、毒リンゴでしかない。

交渉の常道としても、カードの広げ方と切り方は大事だ。
民進党は、「対案は出さない」「百歩譲って特例法だったとしても」などといって、自ら極めて不適切な時期及び方法でカードを切ってはいけない。
これも、二人にかかっている。細野議員の党内説得力に期待している。

【民進党の歩む道】
昨日の二人はとても熱気があった。しかし、国会の予算委員会等の議場傍聴でライブで体験するとわかるが、民進党にはまったく熱気や一体感がない。逆に与党は良くも悪くも、「一丸」となっている。地鳴りのようなヤジに、抗議のため息すら議員全員の息があっている。与党席だけでウェーブでも見たい
前に、巨人軍の選手が、甲子園での阪神ファンの応援が凄すぎて、気づいたら守っているときに相手の応援にあわせて足を踏み鳴らしていた、という巨人ファンとしては改宗を迫りたくなるエピソードを聞いたことがある。与党の一体感は甲子園のファンに通じるものがある。

これに対して、民進党の席は数の問題ではなく熱気がない。質問者を応援し、一丸となって与党と対峙する気迫をまったく感じない。
質問者は孤軍奮闘。
他の議院は知識もないからヤジもでない。せめて、その日の質問に関する知識が豊富な議員は席を陣取るべきだ。与党は知識と関係なくとめどないヤジであるが。
これは知性の問題ではない。知性だけでは勝てない。
個の力がなければ勝てないが、個の力だけでは勝てない。
このままでは、政権交代の緊張感がまったく存在せず、権力はさらに弛緩する。
細野・山尾両氏が個の力があるのは明らかだが、それだけでは勝てない。
全員が全員に対して関心をもち、新しい力や現在落選中の人々の復活を含め、どのような動きをすることがチームとしての力を向上させるのかを真剣に考えてほしい。
政策論議では、退位問題は、結束の一番地として最高ではないか。これよりも結束を高められるアジェンダはない。

是非妥協せず、自虐的になることなく、戦い抜いてほしい。


18:06
2017/02/10

皇室典範さえ変えればオッケーの愚

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私は一応中身も社会的にも男なので、私が女子トイレにズンズンと入っていけば、ぎょっとされるばかりか、物を投げつけられるかもしれない。では、女装して女子トイレに入ればいいではないか。物を投げつけられたら答える「え、女子ですけど。」

現在、退位問題において、報道等含めた有力案の一つが、皇室典範の中に「退位は法律の定めるところによる」という特例法への委任条項を規定(つまり皇室典範を改正)して、退位については特例法で定めるというものである。これなら皇室典範を改正しているから憲法2条による皇位継承は「皇室典範の定めるところにより」という条件もクリアする。そして、皇室典範の改正による恒久的な制度の創設(女性宮家等についても言及)は今後行うことを附則に定めるか、何らかの文書で残す案も出ているそうだ。
しかし、皇室典範を変えさえすれば憲法2条の要請を満たすかといえば、そんなわけがない。結局は特例法に投げているのであれば、いくら皇室典範を改正していても、その趣旨において憲法2条の潜脱である。「皇位」の「継承」について、実質的にも皇室典範で定める必要がある。
形式だけ、外見だけ整えればOKなわけがない。大事なのは中身、実質である。憲法2条が、皇位の継承は皇室典範によるべし、として趣旨が、形式だけ皇室典範をいじるという形を認めているわけがない。皇位継承についての普遍的な制度構築を皇室典範によったのだ。

また、退位の問題と女性宮家、女性・女系宮家の問題をトレードオフにしてはいけない。つまり、女性宮家等の問題が進展するなら今回の退位制度は特例法でもよい、とはならないであろう。約束違反や憲法違反を是正する制度が存在しないのだから、附則や合意は無意味。
勝負は、今である。

現在出ている案は、心も体も男なのに、女装しているから女子トイレ入ってオッケーと同じ理論である。女装してトイレに入ろうとしている輩を捕まえて、「こいつら男です!」と叫ぼうではないか。
これ、どこか常識に反してますか?

10:09
2017/02/07

弛緩した権力と僕らの自由について(1)

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長嶋茂雄が監督時代、バントの名手川相を代打に送るとき、交代を告げる審判に、バントのジェスチャーをして送り出していて言葉を失った経験がある。「作戦ばればれじゃねえか。」

ダルビッシュがメジャーにいくきっかけについて聞かれたときに、「日本は真剣勝負じゃないんで。」というようなことを話していた。
試合前に相手チームの選手がきて、今日は少し手をぬいてくれ、おまえだと勝てない、等といったことをかわるがわる言いに来たそうだ。なんと情けない。

これがさらに進むと、「次カーブ投げてよ」「盗塁するときは教えてね」「サイン口に出してよ」というもはやカオスとなる。

昨日2月6日、金田法務大臣は、マスコミに対して「予算委員会における「テロ等準備罪」に関する質疑について」と題する書面を、マスコミにのみ配布した。

内容としては、要は国会における質問のあり方に注文をつける内容になっている。内容は、以下であるが、翻訳もつけておいた。

1.テロ等準備罪の法案は、現在検討中なのであるから、成案が出てきた後に、専門的知識を有する政府参考人も入れて議論すべきである。=法務大臣だけでは答弁できないから、局長等助けてくれる人がいるときにしてほしい。
2.答弁が難しいので、質問通告はもっと細かくしてほしい。
=相手の手の内をもっと詳しく見せて事前に官僚が答弁を準備しやすくしてほしい。
3.本法案のように条約の解釈等にわたる可能性がある場合は外務省も登録するべきである。=所管の法律でも他機関に関係あるところについては責任放棄させてほしい

これの何が問題か。
質疑を見ていただければご理解いただけるが、このテロ等準備罪の質疑における法務大臣の答弁は本当にひどい。いくつかの答弁ブロックを作っておいて、それを適宜、質問に関係なくても棒読みである。
およそ人のもつ最低限の知的・論理的誠実性を備えていてこの質問と答弁を聞いていると、自分の頭がおかしくなったような錯覚に陥る。

そうなってしまう理由は簡単で、法案自体に無理があるのと、金田法務大臣の能力自体に無理があるからである。
それゆえ、今回の法務大臣ペーパーは、国会での答弁を制限するような内容及び責任放棄的な内容になっている。内容自体が、責任問題を越えて「情けねえ」ということはさておき、このような文書を大臣のクレジットで出す、その行為自体が問題なのである。

内閣を頂とする行政権は、国会に対し広く責任を負うことによって(議院内閣制)、ひいては、国民に対して責任を負う。したがって、国会に対する責任が、内閣の民主的正当性調達の核心である。国会に対する広い責任の中核をなすのが、つまり、国会審議である。
しかも、内閣提出法案について、国会の熟議を経ることは、法案の正統性をも担保する(そのために、議員の院内での発言にかかる免責特権や不逮捕特権が規定されていることも併せ考えるべきである)。

しかし、今回の金田法務大臣のペーパーは、内閣の一員である法務大臣が、国会審議について制限を申し入れるものであり、行政権から立法権への完全な領空侵犯行為である。議院の自律権も侵害する。
これは、内閣が責任を負う国会での議論を矮小化することにより、内閣の民主的正当性調達も損ない、ひいては議院内閣制を逆噴射させ、議院内閣制の自殺を招く。
これも「野党の質問権を制限」という見出しで語られているが、野党の問題ではない。もっと大きな問題である。与党だろうが野党だろうが関係ない。
国会を通じての民主的正当性調達を自ら放棄し、議院内閣制、さらには国民主権をも損なう、自殺行為である。

また、これをマスコミにのみ配布したことも興味深い。政府自体がメディアであるにもかかわらず、マスコミを通じて、マスコミを規制するという方法ではなく、表現の拡声器として一定の価値観を広く社会に頒布しようとしている。規制の文脈でない場合、規律が難しい。
権力を監視するはずのマスコミにのみ、このような濫用的権力行使をすすんで喧伝する、ということ自体、倒錯感が著しい。

これらの問題の核心にあるのは、権力者の”節度”の欠如である。完全に権力が弛緩している。まるで「私」のふるまいで権力を行使している。自己規律や自己批判や、制度的な権力行使にかかる謙抑性が担保されていないため、権力行使に緊張感が一切ない。これには政権交代が現実味をまったく帯びていないという野党の責任も重大である。

テロ等準備罪を巡る議論は、権力や自由の問題を多く内包している。「権力の弛緩と僕らの自由について」と題して、連続的に論じていきたい

                                                                                     to be continued...

15:17
2017/02/01

【明日2月2日朝7時?『モーニングクロス』@東京MX】

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【明日2月2日朝7時?『モーニングクロス』@東京MX】

明日は朝7時から、東京MXのモーニングクロスにでます、ちょっと久々です。
倉持くんのテーマは、我々の自由について!

そしてそして、ゴー宣道場の申込みは今日まで!!
21:08
2017/01/27

国会論戦のゴングとメディアの役割

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昨日から補正予算の予算委員会での論戦が始まった。実質的に、今国会の言論によるバトルのゴングが鳴ったといってよい。

野党は、細野氏と山尾氏を中心に生前退位の問題や共謀罪の問題を質問。細野氏は、「象徴天皇とは?」というところからスタートし、皇室の権利・自由論まで、幅広く質問していたが、首相は予想通りの逃げとはぐらかし。山尾氏による共謀罪の質問は、従前「共謀罪」として国会提出してきたものを「テロ等準備罪」と衣替えしている欺瞞を追及。これにも、金田法務大臣と首相の”最強暖簾に腕押しタッグ”で、論戦の的がぼやかされてしまった。他には、前原氏の教育と貧困の問題提起も、国会ですべきど真ん中の政策論議で見ごたえがあった。

今回は、この論戦の内容には、(踏み込みたいが)踏み込まない。
指摘したいのは、この予算委員会についての民放メディアの放送が極めて低調であったことである。
確認した限りで、いわゆる夜のニュース、報道ステーションが安倍総理対山尾議院を大きく取り上げた以外は、NHKの9時のニュースがちらっとやったくらいである。日テレ、TBS、フジテレビはどうした。

国会の予算委員会は朝から夕方までやっている。最近では、総理入りであればNHKで放映されることもあるものの、毎回はやらない。
すなわち、働いている大多数の人間(特に「お父さん」と呼ばれるサラリーマン層)には、時間的に国会論戦を生でみることは不可能である。見れたとしても、こんな長い時間、質の低い質問も多々ある中で、ずっとは見ていられない。
そうすると、触れるとすれば夜帰ってきた後のニュースである。
もちろん新聞もあるし、今はすべての国会審議を衆議院インターネット中継なるもので、以前のものも含め見ることができるが、こんなのをいちいち見るほど時間も情熱もないのがふつうだ。
にもかかわらず、民放の夜のニュースが予算委員会について一切放映しないというのはどういうことだ。

国家権力は、我々国民からの信託に基づいてその権力を行使しているがゆえに、その権力行使が適切に行われているかを監視しなければならない。しかし、我々個人は日々の生活が目の前にあるため、四六時中権力を監視することができない。それを、我々に代わって、主権者の権能行使を補完する形で権力監視をするのが、職能集団としてのメディアである。
特に、今国会は、生前退位の問題では、「国民の総意」と陛下のご意思をつなぐ場としての国会であるし、その他の法案についても、国会で何が起こっているのかがわからなければ、我々が一時だけ権力に運用を委ねているだけの”権力”の行使のされ方を監視する場がない。
これでは、銀行にお金を預けているが、そのお金があるかどうかもまったくわからず、引き出すことなどまったくできない、というのと同じだ。
国会での議論が国民に伝わらなければ、国民主権も画餅である。
我々が国民としての権能を行使する前提を欠く。

国会と国民、ひいては国民主権の架け橋となるはずのメディアが、一切国会論戦を崩じないというのは、異常事態である。

共謀罪も含め、今国会は、我々の自由が制限されるかもしれないということ、すなわち、我々の社会が個人の自由についてどれだけ意識の高い社会かを問われる国会なのである。
メディア自身が、自分たちの権利自由が削られて行っていることにナイーブすぎる。
以前も書いたが、我々の自由という領域には、自明のライン・外延がない。どのラインを越えてしまったら自由がなくなる、ということが明らかではない。
したがって、自由のラインを後退させれば、そこが我々の自由の境界線になる。
つまり、自由のために常に個人は戦わなければならない。それこそが憲法という権利の法典の中にあって国民に要求を課している憲法12条にいう「不断の努力」である。

メディアが国家権力を監視するという構造は風前の灯である。
メディアをエンカレッジし、共闘するためにも、今度は我々が適正な目でメディアも監視するという意味で、今国会についての報道を注視しよう。





09:15
2017/01/23

民主制への敬譲と議院の自律というフィクションの崩壊

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今日から、2017年の国会論戦が実質的に開始する。
今国会は、天皇陛下の退位問題、共謀罪、憲法改正、働き方改革、等々がテーマとなり、公法的な論点が目白押しである。

【あってはならぬ国民と陛下の断絶:憲法1条の正統性危機】
特に皇位の問題は、国会は、国民に議論を開示せねばならない。衆議院議長等の意見聴取につき議事録の聴取及び開示が問題になっているが、こんなことが論点になること自体論外である。
我が国は間接民主制を採用している以上、天皇陛下の地位が「国民の総意に基づく」と言えるための媒介は国会しかない。
主権者国民の「代表」でしかない国会議員と国会が、憲法制定権力たる国民と天皇陛下との法的”つながり”を断絶するなどということは許されない。

我々は、決定のプロセスに参加したからこそ、その決定に服することを承認するのである。
「旅行行こうよ!」と4人で決めて、1か月音沙汰無しかで突然電話がかかってきて「明日から南極にいくから」と全然行きたくない場所を言われても承服できないのと同じである。もしかしたらいけないことすらある。そうすれば、そのコミュニティから離脱するか、ひいてはそのコミュニティを破壊しようとするかもしれない。この「納得感」は、「共生」のため、及び統治技術としても重要なのである。
もし、退位問題につき、その議論の中核が国民に開示されないまま進行するようなら、その決定のプロセスから除外された我々はその決定に服することができないばかりか、「国民の総意に基づく」と規定した憲法1条の天皇の地位への正当化要求を満たさないだろう。

【嘘ばかりの退位問題についての法形式の話】
退位問題については、3月ころには各党から出そろった提案等について、政府も含めた大筋のコンセンサスが形成され、5月の法案化に進んでいく日程であろうか。
今のところ、審議の俎上にのぼる法形式として候補にあがっているのは、1.特例法2.皇室典範の附則に根拠規定を定める形で特例法制定3.皇室典範を改正する。
1の特例法は、皇位継承について憲法が皇室典範を名指ししているという憲法上の要請に反し憲法違反の疑いがあるし、2の方法は、皇室典範によらねばならないという点をあえて形式的に矮小化し、「皇室典範さえ変えれば憲法の要請満たしている」とするもの(「特例法による」という内容を書き込むことも皇室典範の改正であるから、ということ)であり、内実は特例法によることと変わらず、憲法2条の潜脱であり許されない。また、憲法41条による法の一般性原則にも反する。
したがって、退位の問題は、皇室典範本則の改正によるべきであるし、陛下のご意思からしても、本来この道しかないのである。

この点、最近ささやかれているのが、特例法に「●年以内に皇室典範の改正をする」という趣旨の「附則」を入れ込んだ形の特例法を制定する、という方式だ。
こうすることによって、数年以内に皇室典範の改正することについての義務が発生することから、法的義務として、しばりをかけることができる、という流れだ。
法的に数年以内の皇室典範改正を義務付けるんだからこれで安心、一件落着。野党も落としどころとして国民への見栄えも良い。
ちょっと待て
そんなことあるか
これは嘘である。信じてはいけない。

法の規定とは、その実行力、つまり強制力が担保されてこそ、真に規範性を持つ。借りたお金を返さなければ終局的には強制執行される、刑を侵せば刑事法廷を経て、強制的に刑事罰を受ける、これらの強制力があるからこそ、法の規範性は担保される。
しかし、法に罰則や強制執行の仕組みがない場合、どうやってその法規定を実現するのか。
答えは簡単である。
当事者に対する「信頼」だ。
つまり、「違反しないよね」という信頼のみによって成り立っているのである。
(国連を中心とする国際安全保障秩序がまさにそれである。強制執行機関がないから、基本的には信頼でしか成り立たない、つまり、非常に弱い拘束力でしか縛られていない。国連が権威はあっても権力は無いなどと言われる所以である。)

強制力によって担保されていない場合、これに違反しても、司法としてはなすすべ無し。違反しているという状態がそこにあるだけで、これを強制的に是正することはできないのである。

直近で現政権が行った例をいくつか挙げたい

【安保国会】
まず、2015年の安保法制に沸いた国会。最後は与党の絶対多数の採決により、法案は可決された。
この前日の2015年9月17日の参議院平和安全法制特別委員会の狂騒は記憶に新しいだろう。
審議が中断して、速記も止まっていたにもかかわらず(野球でいうとタイムの状態)、突然与党議員がどどっと議場に押し寄せ、鴻池委員長を囲んでいわゆる「かまくら」を作り怒号の中で採決がされたということになっていた。その直後の未定稿の議事録は、当時の状況を「議場騒然、聴取不能」とだけ記載されていた。当然である。

それが、それがである。この後に、一か月後に議事録として国民の前に出されたときには、議場騒然、聴取不能、とされている後に、「本日の本委員会における委員長復席の後の議事経過は、次のとおりである。」、「速記を開始し」と後から補足し、その後法案の採決も、附帯決議までも十全に行われたことになっているのである。そんな事実はない、事実でないことを書き加えた、すなわち、”ねつ造”である。
しかも、ねつ造したのは、小学生の小テストの点数ではない、「国会の議事録」である。
そもそも速記が「聴取不能」の中、何に対しての議決をとったのか対象も不明であり議決の不存在ではないか、という論点もあるが、速記が「聴取不能」となり、中断したまま終わったものを、事後的に”再開”させ、動議提出者の名前や会派が分からないまま附帯決議まで存在したことにしているのである。
さらに付け加えれば、国会では、議事進行における専門家や一般かあからの広い意見聴取として、参考人招致や公聴会を行い、意見聴取を行う。2015年の安保国会において、委員会採決の前日の9月16日に地方公聴会が行われた。地方公聴会は、”地方”に派遣委員だけが参加し、委員全員が参加するわけではないので、通常であれば公聴会後に委員会で「派遣報告」をし、公聴会の内容を委員間で共有しなければならない。そうしなければ、それが委員会の熟議の前提足り得ないからだ。通例、委員会で報告された後、報告会の議事録の末尾に「参考資料」として公聴会の議事録が添付される。

 既述のとおり、この地方公聴会直後の委員会は狂騒的な採決で幕を閉じたため、地方公聴会の「派遣報告」が行われなかった。これに対し、後日、野党の抗議を受け、派遣委員の報告を聴取せずに地方公聴会の速記録を17日の採決の議事録の末尾に添付したのである。この暴挙がどれだけの暴挙かお分かりだろうか。
参考人招致や公聴会を行っても、都合の悪い内容であれば、国会に共有・顕出させることなく、採決の後から添付すればよい。
採決の対象となる議題がわからないまま、速記が中断して採決が十全に行えなくても、事後的に速記が再開したことにして、すべての議題が可決したことにしてしまえばよい。
タイムをかけておいて、ストライクを投げ込んで、アウトと言ってしまえばよい。
なぜそんなことがまかり通るのか?

一方当事者が多数派だからである。
そして何より、それを是正・担保する制度が存在しないからである。

これらについては、その後、2016年5月17日の参院予算委員会でやりとりが行われており、参議院事務総長が、上記のような議事録の追加及び事態が起こったたのは「昨年の通常国会、9月17日の平和安全特の例、一件でございます。」と明確に答弁している。

首相が先日の施政方針演説で「言論の府」とうそぶいた国会で、憲政の歴史で、「一件」しかない暴挙を行ったのである。

上記の採決自体のプロセス、議事録の取り扱い及び公聴会の報告等々
は、国会法、規則、議院慣例等々に明確に定められた法的なルールである。しかし、これに違反したときに、提訴する等是正するルールが法律上存在しないため、完全な野放しである。

【臨時国会の召集】
加えて、安保国会閉会後の2015年秋に、憲法53条に基づき、野党は臨時国会の召集を請求した。
憲法53条には「いづれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない。」との定めがある。4分の1以上で要求した場合は、召集「しなければならない」、法的な義務が内閣には課されている。
つまり、召集しなければ、違憲だ。
しかし、2015年秋、内閣は、野党からの憲法53条に基づく臨時会の召集要求が要件を満たしていたにもかかわらず、臨時会を招集しなかった。違憲である。
制度的に義務や禁止を規定しているにもかかわらず、それに反しているというのは、ほかの条文でいえば、国がいきなり何らかの宗教を国教化宣言し、政教分離に違反しているようなものである。
しかし、この違憲状態も、現行法制度上、裁判所に提訴する仕組みが不存在であるため、この憲法規律は空文と化した画餅である。
(※日本は付随的違憲審査制を採用しており、違憲審査権を行使するにも「事件」に付随してしか必要最低限度の範囲でしか行使できない。具体的に誰かの権利が侵害され、その権利救済に必要な限りでしか、違憲審査ができない。かなり雑駁な例を出すと、安保法制であれば、法案が成立しただけで違憲審査の行使はできず、例えば、自衛官が安保法制に基づく”存立危機事態”による防衛出動の命令に背き、処分を受けた場合に、この処分の適法性を争う限りで、根拠となった安保法制が違憲だ、といった具合でしか、違憲審査はできない。これに対して、ドイツ、韓国、コスタリカのような国は、憲法裁判所が設置されており、権利侵害とは独立して、抽象的一般的に憲法判断ができる「抽象的違憲審査制」を採用している。この抽象的違憲審査制を採用していれば、違憲審査の範囲は飛躍的に広がる。)。
この、臨時国会召集に関する憲法違反についても、なんらの是正がされることなく、放置された。
なぜか、違反者が多数者であり、これを是正する制度が存在しないからである。

首相は自らが「言論の府」として敬意を払う国会も、また、国会を国会たらしめる権能を授権した、なにより、首相自身が行使する過大すぎる権能を授権した憲法を無視している。

しかし、これを是正する制度が日本国法秩序上存在しない。

臨時会が召集されなかったことにより、具体的な誰か個人の権利が具体的に侵害されてはいないので、違憲審査による是正は不可能である。つまり、司法にこれを救済するオプションはない。

提訴等するなど、司法的救済は不可能なため、条文に違反している状態のみが残る。これでは、今度は事実を規律できない規範は人々から捨て去られてしまう。

国民はもちろん、国会議員はこのことをどこまで重く受け止めているのか。道理に反したことをやっているにもかかわらず抗議し続けないことは、黙認と推定されてもおかしくない。
起きた事象に抗議するとともに、制度上の欠陥を指摘し、そのエアポケットを埋める提案をなぜしないのか。

【民主制への敬譲と議院の自律権】
先に、「信頼」によって支えられていると書いたが、これは、法的空間におけるプレイヤーへの信頼もさることながら、本件の場合、「民主制」及び国民に正当性を直接付与された「政治部門」への信頼があるのである。だからこそ、司法権は、民主的決定に踏み込まない建付けになっているし(ドイツは、戦後、戦前の民主制への信頼の失敗をもって、憲法裁判所を創設し、抽象的違憲審査制に移行した。)、そもそも、我が国の民主政治の当事者は、このようなルール違反をしない、という、まさに信頼と、「民主制への敬譲」が存在する。
これはある種崇高であり、一方で、あまりにお人よしな憲法制度設計でもある。

民法における「書面によらない贈与」が日本だけの制度である(武士気質から、口約束だけでも必ず返すと信じられているというのが趣旨)、ということを参照するまでもなく、日本国憲法(及びそれに準ずる統治制度)には、「違反されたら是正する制度が用意されていない」という項目が非常に多い。
上記の例はそれを「悪用」された好例(悪例?)である。

また、この文脈で、「議院の自律権」というリーガルタームがある。
衆参両院=国会という議院は、主権者国民の代表であるから、高度の独立性=自律性をもっており、議院内部に関することに関しては自律的・自治的に決定ができ、その帰結として国会議員の不逮捕特権や免責特権も定められている。
裁判所も議院の自律権を理由に司法審査を控えるという強いタームであり、実際、子供のときの鬼ごっこのときの「バリア」のように、判例・裁判例においても、司法審査を遮断する強力な要素として、取り上げられている。
これもまた、根底には民主制への信頼が存在する。主権者国民の代表者であるから、議院内の問題は議院内で正しく解決する、多数派少数派、利害関係関係なく、議院の矜持として自浄能力を持っている、という「信頼」がそこにはある。
しかし、本当にそうか?今の国会は、多数派少数派関係なく、自己に都合が悪いことでも、議院の矜持と正義及び正しき法への奉仕の精神から、自ら是正するような自浄能力があるのか?
答えは、「否」である。そんな自浄能力はない。今の国会にそんな信頼や法の清き建前など一切通用しないし、期待してもいけない。

結局、上記のような法的な強制力の担保がない問題に対しては、現在までまったくの是正がなされていない。そのままである。

この意味で、より立憲的な憲法改正、つまり、民主主義を信頼しすぎない制度設計への憲法改正は、現代統治システムにおいて実はかなり必要性が高い。
多数派が多数派というだけで権力への節度なく横暴する現在、「多数派をもってしても動かせないルール」としての憲法に、これらの違反についての救済ルールを制度上創設することは、憲法の趣旨にもかなう。
戦後民主主義というお花畑に酔いしれている間に、民主主義の持つ諸刃の刃に丸腰で向き合っていた日本国民。本来立憲主義は民主主義と緊張関係にあり、また、時の多数者でも侵せないルールを定めるのが憲法であるという原則に立ち返れば、現代日本における統治を抜本的に見直すべき時が来ている。

【結語:附則などに騙されるな】
最初の議論に戻ろう。
もし「●年以内に皇室典範改正を行う」という附則などを規定したとしても、罰則や強制履行の手続があれば格別、そんなものがない中で、現政権がその法的義務を履行することを「信頼」することなどできない。これを信頼して、これを「落としどころ」などと思っている政治家がいれば、それはお人よしを越えて、ただの阿呆である。
そういう政治家は、誰もルールを破らないユートピアで執務すればよろしい。現在のような厳しい状況で、一人でもそのような政治家が存在することが、国民にとって有害である。与野党関係なく、そのような政治家は今すぐ退場していただきたい。
だいたい、交渉戦術として、”落としどころ”を「大人の交渉」のように掲げてはいけない。落としどころを初めから見据えた交渉は、必ず後退する。本件であれば、附則どころか、付帯決議くらいまで後退するのは目に見えている。
大人の交渉と銘打って真理や正義と戦わない姿勢は、経験や慣れとともに大切なものを差し出している。

以上のような提案が上程された場合、一斉にその欺瞞を指摘しよう。

皇室典範の本則の改正による退位制度の実現が筋なのであって、それ以外の主張は、認められないということを言い続けなければならない。

法技術的な観点からも難解な主張や提案がなされるであろうが、ここからが我々個人の力の見せどころである。「難しいから」「もっとわかりやすく」と言って補助輪を要求している間に、我々はこの日本社会を走り切る泳ぎ切る知的体力、知的足腰を失いつつある。
ここで踏ん張れるかは、我々の社会がどのくらいの底力をもっているかのバロメーターになる。
逃げてはならない。




14:36
2017/01/12

1月21日に、憲法についてちょっとだけ真剣に考える

Tweet ThisSend to Facebook | by 倉持

【2017年1月21日(土)13時30ー15時30@真生会館(信濃町))『私たちの自由・日常と憲法についてちょっとだけ真剣に考える(倉持麟太郎)』】


久々に一般の方々向けの憲法に関する勉強会です!
キリスト教学習センター的なところが主催で、『現代人の生き方、社会を考える』と題した連続講座の一環です。
そもそも憲法とは何か、というところから、憲法改正、安保・外交、天皇の生前退位やメディアと権力、トランプとアメリカ、さらには自民党と民進党、リベラルと保守の話等々、最近思っていることや語りたいたくさんのことを徒然なるままにしゃべりたいと思います。みなさんとの対話も楽しみにしておりますので、是非興味ある方はいらしてください。
元旦ふれられなかったSMAP解散についても触れないといけないな。うん

お申込みフォームはこちら
↓ ↓ ↓
https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSemdCtzfZQNPT1moDpVWHVaUdi2zSQwim0ZVrP1P1jV3rAxYg/viewform




そして、生前退位についてもっと濃厚に論じるのはもちろんこちら
_____________________________

「大御心か?権力か?」


平成29年2月12日(日)午後1時 から
『人事労務会館』 にて開催します。



「人事労務会館」
(住所:東京都品川区大崎2-4-3 )は、
JR山手線・埼京線・湘南新宿ライン・りんかい線
『大崎駅』 の 北改札口 を出て左へ、
「西口」 側の左階段を降りて、徒歩3分です。


毎回、会場の場所が分からず迷われる方が、多くいらっしゃいます。

人事労務会館のHPにて、場所をよくご確認の上、ご来場下さい絵文字:重要
(HP掲載の、駅から会場までの地図を印刷し、持参されることをオススメします )

詳しくは、 
“ こちら ” でどうぞ。



212日(日曜)の「ゴー宣道場」は、

『大御心か?権力か?』と題して、

「生前退位(譲位)」の議論をさらに盛り上げます。

 

ゲストに民進党の細野豪志議員山尾志桜里議員

迎え、大御心に沿う譲位を実現する方法を話し合います。

 

現在、民進党と共産党が譲位は「皇室典範改正」によるべき

と主張しています。

王道を歩むなら党派性は関係ない!

頭山満のように、わしは人格で評価するつもりです。

 

民進党の党勢の復活も、「尊皇心こそが真正保守」という旗を

掲げることにあると、わしは思っています。

細野議員山尾議員の人柄と覚悟を、「ゴー宣道場」に

参加してぜひ知ってほしい。

 

大御心を踏みにじり、権力を盤石にすることの危険性を、

「ゴー宣道場」で大いに議論しましょう。

応募締め切りは21日(水曜)です。




当日、道場の入場料は、お一人様1000円です。


参加ご希望の方は、このweb上の申し込みフォームから申し込み可能です
絵文字:重要絵文字:パソコン

上 ↑ のメニュー「道場参加申し込み」もしくは下 ↓ の申し込みフォームバナー(画像)
クリックして、申し込みページにお進み下さい絵文字:よろしくお願いします
入力必須項目にご記入の上、お申し込み下さい絵文字:重要絵文字:メール


申し込みフォーム


お申し込み後、記入されたメールアドレス宛に「申し込み確認メール」が届きますので、
ご記入内容に間違いがないか、よくご確認下さい。

※「申し込み確認メール」が届かない方は、以下のような原因が考えられます。

・迷惑メール対策サービスを利用していて、「ゴー宣道場」からのメールが迷惑メールと判定されている
・着信拒否サービスを利用していて、「ゴー宣道場」からのメールが着信拒否の対象となっている
・ドメイン指定受信を利用していて、「gosen-dojo.com」のドメインが指定されていない
・セキュリティソフトやメールソフトで迷惑メール対策をしていて、 「ゴー宣道場」からのメールが迷惑メールと判定されている

reply@gosen-dojo.com」からのメールを受信できるよう再設定をお願い致します。

「申し込み確認メール」が届かない場合、当選メールも届かない可能性がありますので、
ご注意ください絵文字:重要



申し込み〆切後、当選された方にのみ「当選メール」を送らせて頂きます。

当選された方は、道場当日、
その「当選メール」をプリントアウトの上、会場までご持参下さい。
プリントアウトができない方は、当選メールの受信が確認できるもの
(携帯電話、タブレット等)をお持ちの上、ご来場ください。




 道場参加申し込みフォーム



応募〆切 は 平成29年2/1(水) です。

当選通知の送付は、応募〆切後になりますので、しばらくお待ち下さい絵文字:よろしくお願いします



皆様からの多数のご応募、お待ちしております絵文字:重要絵文字:晴れ





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