倉持麟太郎の“Rin”sanity
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2017/01/12

1月21日に、憲法についてちょっとだけ真剣に考える

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【2017年1月21日(土)13時30ー15時30@真生会館(信濃町))『私たちの自由・日常と憲法についてちょっとだけ真剣に考える(倉持麟太郎)』】


久々に一般の方々向けの憲法に関する勉強会です!
キリスト教学習センター的なところが主催で、『現代人の生き方、社会を考える』と題した連続講座の一環です。
そもそも憲法とは何か、というところから、憲法改正、安保・外交、天皇の生前退位やメディアと権力、トランプとアメリカ、さらには自民党と民進党、リベラルと保守の話等々、最近思っていることや語りたいたくさんのことを徒然なるままにしゃべりたいと思います。みなさんとの対話も楽しみにしておりますので、是非興味ある方はいらしてください。
元旦ふれられなかったSMAP解散についても触れないといけないな。うん

お申込みフォームはこちら
↓ ↓ ↓
https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSemdCtzfZQNPT1moDpVWHVaUdi2zSQwim0ZVrP1P1jV3rAxYg/viewform




そして、生前退位についてもっと濃厚に論じるのはもちろんこちら
_____________________________

「大御心か?権力か?」


平成29年2月12日(日)午後1時 から
『人事労務会館』 にて開催します。



「人事労務会館」
(住所:東京都品川区大崎2-4-3 )は、
JR山手線・埼京線・湘南新宿ライン・りんかい線
『大崎駅』 の 北改札口 を出て左へ、
「西口」 側の左階段を降りて、徒歩3分です。


毎回、会場の場所が分からず迷われる方が、多くいらっしゃいます。

人事労務会館のHPにて、場所をよくご確認の上、ご来場下さい絵文字:重要
(HP掲載の、駅から会場までの地図を印刷し、持参されることをオススメします )

詳しくは、 
“ こちら ” でどうぞ。



212日(日曜)の「ゴー宣道場」は、

『大御心か?権力か?』と題して、

「生前退位(譲位)」の議論をさらに盛り上げます。

 

ゲストに民進党の細野豪志議員山尾志桜里議員

迎え、大御心に沿う譲位を実現する方法を話し合います。

 

現在、民進党と共産党が譲位は「皇室典範改正」によるべき

と主張しています。

王道を歩むなら党派性は関係ない!

頭山満のように、わしは人格で評価するつもりです。

 

民進党の党勢の復活も、「尊皇心こそが真正保守」という旗を

掲げることにあると、わしは思っています。

細野議員山尾議員の人柄と覚悟を、「ゴー宣道場」に

参加してぜひ知ってほしい。

 

大御心を踏みにじり、権力を盤石にすることの危険性を、

「ゴー宣道場」で大いに議論しましょう。

応募締め切りは21日(水曜)です。




当日、道場の入場料は、お一人様1000円です。


参加ご希望の方は、このweb上の申し込みフォームから申し込み可能です
絵文字:重要絵文字:パソコン

上 ↑ のメニュー「道場参加申し込み」もしくは下 ↓ の申し込みフォームバナー(画像)
クリックして、申し込みページにお進み下さい絵文字:よろしくお願いします
入力必須項目にご記入の上、お申し込み下さい絵文字:重要絵文字:メール


申し込みフォーム


お申し込み後、記入されたメールアドレス宛に「申し込み確認メール」が届きますので、
ご記入内容に間違いがないか、よくご確認下さい。

※「申し込み確認メール」が届かない方は、以下のような原因が考えられます。

・迷惑メール対策サービスを利用していて、「ゴー宣道場」からのメールが迷惑メールと判定されている
・着信拒否サービスを利用していて、「ゴー宣道場」からのメールが着信拒否の対象となっている
・ドメイン指定受信を利用していて、「gosen-dojo.com」のドメインが指定されていない
・セキュリティソフトやメールソフトで迷惑メール対策をしていて、 「ゴー宣道場」からのメールが迷惑メールと判定されている

reply@gosen-dojo.com」からのメールを受信できるよう再設定をお願い致します。

「申し込み確認メール」が届かない場合、当選メールも届かない可能性がありますので、
ご注意ください絵文字:重要



申し込み〆切後、当選された方にのみ「当選メール」を送らせて頂きます。

当選された方は、道場当日、
その「当選メール」をプリントアウトの上、会場までご持参下さい。
プリントアウトができない方は、当選メールの受信が確認できるもの
(携帯電話、タブレット等)をお持ちの上、ご来場ください。




 道場参加申し込みフォーム



応募〆切 は 平成29年2/1(水) です。

当選通知の送付は、応募〆切後になりますので、しばらくお待ち下さい絵文字:よろしくお願いします



皆様からの多数のご応募、お待ちしております絵文字:重要絵文字:晴れ





18:46
2017/01/04

ドゥダメルを追体験したウィーンニューイヤーのドナウ

Tweet ThisSend to Facebook | by 倉持
去る2017年1月1日、日本時間の午後7時から、音楽の都ウィーンでニューイヤーコンサートが行われた。普段は、老人が持ち回りで指揮するコンサート(案の定、来年は5回目の登壇となるムーティ、甲子園の常連校か)かつ、舞踏曲を数時間座って聞かせられる倒錯感にいたたまれず、全く見ない。興味もない。

しかし、今年は、開始時間にあわせてテレビの前で始まりを待った。
今年の指揮者は、ベネズエラ出身の35歳、グスターヴォ・ドゥダメルだったからだ。

以前もドゥダメルには当ブログで触れたことがあるが、”ベネズエラの貧困の中から生まれたスーパースター”というだけでなく、彼のリベラルな音楽は、西海岸における「死せるアメリカの伝統」を体現するとともに、アメリカーベネズエラという歴史問題をつなぐ文化外交としての側面についても指摘した。
また、純粋に、彼は私と同世代のスターであるため、彼の動向が気になる。さらに、ベネズエラという、非ヨーロッパ圏、すなわち非クラシック音楽圏の人間であるため、ポストモダン、これからのクラシック文化の行方という大きな流れの中でも注目である。

演奏の方はどうだったかというと、ドゥダメルは最初からちょっと緊張気味で、途中から持ち前のリズム感とドライブ感を発揮した。どちらかというと、速めのテンポの曲が多く、ドゥダメル特有のラテンのリズム感で捌いていった。

今回のニューイヤーコンサートでドゥダメルに期待していたのは、プログラムだ。
ニューイヤーコンサートのプログラムは、その成り立ちからしても、基本的にはヨハンシュトラウス一家に関する権威(ヨハンシュトラウス協会会長や音楽学者等)が一堂に会して曲目をピックアップし、ウィーンフィルと指揮者に投げて、最終的な決定をする。
このような過程を経るので、プログラムは必然的にヨハンシュトラウスファミリーばかりになる。
もちろん、コンサートの趣旨からは当然なのだが、コンサートプログラムとしてはかなりつまらない。はっきり言って飽きる。
ポルカもワルツも同じような曲ばかりなので、気がめいってくる。
そこで、音楽性を重視すると、プログラムも伝統等に挑戦することになる。アーノンクールのような尖った指揮者はブラームスを取り入れたり、最近はモーツァルトの序曲を取り上げた例もあった。
紅白歌合戦がわけのわからない演出をして必死で目新しい雰囲気づくりをしているのと同じで、ニューイヤーコンサートも、必死なのである。
そんな中、クラシック界の切り札、しかも非クラシック音楽圏からきたドゥダメルの登壇だ。私は、かなり奇抜なプログラムを期待した。
ヨハンシュトラウスなんかほとんどなし、ドイツ・オーストリア音楽もそこそこに各国の音楽を演奏し、最後は美しく青きドナウもやめて、ウエストサイドストーリーの『マンボ』でおしまい、と妄想を膨らませていた。
事実、2013年のウィーンフィルとのツアーは、意図的にプログラムをロシア、フィンランドの作曲家をメインに据えて、ポストモダンを演出していた。
今年のニューイヤー直前に発売されたドゥダメルとウィーンフィルの新譜は、展覧会の絵がメインで、唐突に最後のトラックがチャイコフスキー『白鳥の湖』より”ワルツ”。なんだなんだ、これは確実にニューイヤーで白鳥のワルツをやるんじゃないか。
そんな妄想にまみれながら、テレビの前でドゥダメルの登場を待った。

ふたを開けてみると、私の妄想は完全に裏切られた。ヨハンシュトラウスの中では取り上げられない作品の初出等はあったものの、基本的には徹頭徹尾ヨハンシュトラウスファミリー関係曲のみ、チャイコフスキーはおろか、非ヨーロッパ圏の音楽なぞかすりもしなかった。
演奏自体は悪いわけではない。しかし、ポストモダンは?新しい時代の幕開けは?
困惑しながら、とうとう最後から数えて二曲目、美しく青きドナウまで来てしまった。
ここもニューイヤーコンサートの恒例の儀式で、ドナウの冒頭を演奏し、すぐに観客の拍手とともにいったん中断し、指揮者と楽団が新年の挨拶をする。
ここに毎年指揮者の個性が現れる。小澤征爾が登壇したときは、満州生まれということで中国語で挨拶をしたり、メータは「ルーマニアの欧州連合加盟を歓迎します」、2009年にのバレンボイムにいたっては、「中東に人間の正義を」という政治的なメッセージを伝えた。
ドゥダメルはいったいこの新しい時代の幕開けに際して、どのようなメッセージを語るのだろう。
ここでもドゥダメルは、ドイツ語でHappy new year!と楽団と挨拶をするのみ、何のメッセージもなかった。
どうしたんだ、期待しすぎたのか、思いを乗せすぎたのか。混乱の中、ドナウの始まりへ、ドゥダメルが位置についた。
ここからが、凄かった。

美しく青きドナウの冒頭、最微弱音の弦のトレモロからの日の出を告げるようなホルンが鳴る。まるで本当に暖かい日差しが差し込むようだった。私はまた困惑した、なんだこのドナウは。
ドゥダメルは、天を仰ぎながら、祈るように、深く音を愛でるように、指揮棒をゆっくりと上下させた、楽団も呼応するように万感の想いを込めて、演奏した。

このとき、天を仰ぐドゥダメルの視線は、何とオーバーラップしていたのか。
そうだ、ベネズエラの路上を歩く、幼いドゥダメル自身だ。

ドゥダメル自身は最貧困ではなかったものの、彼自身が音楽を学んだエルシステマは、ベネズエラの貧困地域から、貧困にあえぐ子供たちを選抜し、音楽教育を通じて路上生活からの救出を企て、貧困を打破するプロジェクトである。
ドゥダメル自身、「私の周りには薬物や犯罪が蔓延していた。音楽が、私をそれらから遠ざけてくれた」と話している(2009年)。
彼が共に学んだ同世代の子供たちは、ストリートチルドレンで薬物・アルコール中毒や物乞い、強盗、さらには人身売買の対象になるような子供たちばかりだった。

そこから十数年、ドゥダメルは世界でもっとも権威あるウィーンフィルのニューイヤーの指揮台に立って、もっとも伝統ある場面において「美しく青きドナウ」を演奏している。ドゥダメル自身こそが、それを想像しただろうか。
ドゥダメルが仰いだ天の先には、ベネズエラの路上へのまなざしがある、彼は常にそことつながっている。
あのドナウは、35歳にして、音楽的にだけでなく、政治的にも凄まじい重圧や責任を背負いながら、あのウィーン学友協会の指揮台と祖国の日常風景を結実させた、ドゥダメルの喜びの歌だ。

何も特別なメッセージや奇抜なプログラミングなど必要なかったのだ。ベネズエラの路上とウィーン学友協会の指揮台が結びついた、その物語の中では、ウィーンの伝統に従い、ヨハンシュトラウスを堅実に演奏すること自体が、重要だったのだ。
そのフィナーレが、あの最後の美しく青きドナウである。緊張と恍惚が入り混じりながら、ドゥダメルの人生物語の喜びの歌は、その後のラデツキーの喧騒に飲まれていった。
幻のようなドナウ。私はあんなに感動的な美しく青きドナウを知らない。

おそらく彼には、昔の指揮者に我々が見ていた、音の交通整理という技術的なレベルを超えた何かを音楽に乗せて伝える能力があるからこそ、惹かれるのだろう。
それは、彼自身が持つ人間ドラマであり、これを追体験することを通じて、我々は自分たちの物語にも思いを馳せる。
ドゥダメルを聴く人間は、みな自分とドゥダメルとの物語を語りたがる。まさに、彼と「共に生きている」のである。

最大の懸念は、彼が「消費」されることだ。コンテンツとしても非常に価値が高いので、市場は放っておかない。しかし、本来芸術は、市場の失敗の延長線上にあるものであり、公共財に近い。

我々がこれからもドゥダメルとともに生きるために、彼が市場(聴衆)に殺されないように、本当の意味で聴き手が彼を尊重することが求められる。そして、是非同時代を生きる我々も、このスターの物語と共に、豊かな自分の物語を生きていこうと思う。

12:21
2017/01/04

2017年憲法論議の行方と政党力学、そして我々の責任

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低視聴率でにわかに揺れる紅白歌合戦と、静かな晴天で迎えた2017年。
2017年は、安倍首相就任から6年目、昨年の参議院選挙でフィクションとしての”改憲勢力”は、フィクションとしての「3分の2」を獲得し、いざ改憲の艦船の船出をみるのか。

1.「改憲勢力」は「改憲勢力」か?
まずは、「改憲勢力」が「3分の2」を獲得したという二重のフィクションを冷静に見てもらいたい。
「改憲
勢力」の中には公明党も含まれており、公明党は、もともとは「加憲」の立場とはいえ、憲法審査会の議論を見ても改憲に積極的な政党ではない。その公明党は都議会では自民党と仲たがいし、IR法案では山口代表の”造反”があるなど、意識的無意識的にも明らかに政権との関係は以前とは違う。これは、政権が維新と接近していることへの牽制でもあろうし、都議会は小池パワーという磁力があるからこその自民党からの離反=小池への接近であるとすれば、権力への志向性が極めて強い公明党の立ち振る舞いが国政において根本から変わるとも思いにくい。
どちらにしろ、いわゆる”改憲”には積極的ではない公明党を含めての「改憲勢力」を前提にするのは、あまりに議論が乱暴である。民進党の中にも改憲勢力(蓮舫代表をはじめ、前原氏、細野氏等挙げればきりがない。「あの人も?!」という人も改憲賛成派だ)がいる。また、奇妙な論点設定ではあるものの、「安倍総理の下での改憲に賛成か反対か」というアジェンダ設定のもとでは、「改憲勢力」と言われている維新や公明党の支持者の賛成と反対が逆転する(2016年7月の参院選時点)。つまり、反対が半数以上になるのだ。維新の支持者でも、である。
したがって、「改憲勢力」自体の精査と「改憲勢力支持者」の精査をしなければ、これらの概念に内実は無いといってよく、これらを冠に語られる”改憲議論”なるものは、誤導ですらある。

2.3分の2は何をもって3分の2?
「改憲勢力」と同じく乱暴なのが、「3分の2」という数字だ。そもそも憲法改正の投票対象は、法律上、個別の条文ごと(例:9条の改正案に賛成か反対か、といった具合)である。
9条のように従前から反対が根強い&政治的インパクトの強い条文であれば2分の1すら形成できるかわからないし、逆に、統治機構改革であれば、4分の3を形成できるかもしれない。いったいどの問題についてのコンセンサス形成について論じているのか、はっきりさせなければ、「3分の2」という数字も無内容である。
ここで釘を刺しておきたいのが、だからといって、改憲することだけを自己目的化し、とにかく3分の2のコンセンサスを得られるお題目を、セール会場のおばちゃんのように探すムキである。
どう考えても、現実が遥か先を歩いてしまって憲法を死文化させているのは9条である。
直近でも、全き意味での”戦場”である南スーダンに、交戦権の無い自衛隊を派遣した。交戦主体となりうる戦場にもかかわらず、国家最大の暴力である軍事権がないことになっている我が国では、自衛隊が派遣される場所は”国内法上”「紛争」と呼べる状態は存在しない「安全」という看板のかかったパラレルワールドである。ここでの戦闘については、法律上の主語である現場の「自衛官」が責任を負わされ、国家も国民も責任をとれない。
このような状態を放置して、「9条という国論を二分する条項は避けて」などと発言する議員が存在する始末である。このような考えは自らが国政に責任を持つべき議員としてのアイデンティティを放棄した”知的敵前逃亡”である。私は我が国および世界の平和のために国際紛争にコミットする自衛隊の行為に責任をとるつもりはない、ということを自白していることと同義だ。
以上のとおり、3分の2とう数字もいったい何を対象にして3分の2といっているのかを特定しなければ、これまた無意味である。今後の改憲論議では、いったいどの論点において最もコンセンサスが得られているのか、という指標として、これらの数字を見てほしい。
だが、コンセンサス優先で、現実の憲政のひずみを解消しない議論は、それ自体が誤導的であるので、そのような議論が”多数派”のように報道されるようなことがあれば、徹底的に糾弾したい。
付け加えると、2013年参議院選の直後も、主要紙が「改憲勢力3分の2獲得」と報道したことを忘れてはならない。2016年選挙でまるで初めてのように報道したマスコミ、まるで初めてのように受け止めた我々市民。どちらにも責任がある。

とにもかくにも、2017にあるとされる解散総選挙についても、ナイーブに「改憲勢力」が「3分の2」を占めるか否かという観点ではなく、何をもって改憲勢力か、また、どの論点について何分の何なのか、きめ細やかに分析し、また、そのような報道を期待したい。

3.憲法審査会での議論における”制憲への胆力”の欠如
2015年6月以来、1年4か月ぶりに憲法審査会が再開した。衆参それぞれ2回ずつの実質的議論を経たが、この議論の仕方では、改憲まであと70年かかる。
理由のひとつは、各党各人のコンセンサス形成意欲の乏しさである。党なのか個人なのかわからない意見の言いっぱなしで、なんらの合意形成への意志が見られない。
理由のいまひとつは、憲法審査会自体が放つ「制憲」への胆力、迫力の圧倒的な欠如である。
これから自分たちの手で憲法を変えるんだという気概、高揚感、緊張感、これらが一切ない。はっきり言って私の方がある。
これは、与党がどう、野党がどう、という問題ではない。
憲法審査会の空気感を肌で感じたものならば、わかるはずだ。
このような低体温のまま、数の論理で改憲原案が提出されようものなら、それこそ、政治部門の死である。しかし、そのシナリオも、考え得る有力シナリオである。

憲法改正原案の提出は、衆院100参院50の賛同でするか、衆参の合同審査会形式で提出するかの方法がある。早急に合同審査会方式を決定し、審査会全体での原案作成に尽力してもらいたい。この観点から、各党の原案を出していくというやり方は、そもそも審査会の性質になじまない。原案は審査会として提出するものなのだ。
余談だが、私は、上記の自衛隊南スーダン派遣について、これが本当に外交防衛上必要であるというのであれば、9条2項に国際貢献の文脈での交戦権の行使を書き込む原案を提出し、速やかに国民投票にかけるべきだと考えている。これが否決されればもちろん内閣総辞職。イタリアの憲法改正国民投票を思い出してほしい。安倍政権が本当の保守なら真っ先にすべきだ。国家が、そして我々が軍事権に責任をとれる憲法にすべきである。

以上、憲法審査会の低体温は憲法改正にとって絶望的である。本当に良き原案が出てくるのか、熟議はなされるのか、そして、我らの代表者に、我らの憲法を「書く」能力があるのか、これは代表者を送った我々にも監視する責任がある。

4.憲法は誰のものか
参院選の直前に、18歳選挙を受けて高知で実施した若者へのアンケートの結果、「3分の2」という数字の持つ意味を理解していない若者が8割、というニュースが衝撃をもって迎えられた。
憲法改正など経済や社会保障という直截的に「日常」と思える論点から比べればかなり遠いものであることは否めず、このような結果は当然で、もちろん大人の中でもこれに類似した感覚はマジョリティなのかもしれない。
憲法改正の投票については、投票について厳しい規制のある公職選挙法が準用されないため、かなり緩やかな規制の中での投票行動になる。しかも、発議から2か月間での投票となれば、一部の憲法への思い入れのあるおぞましき「改憲派」「護憲派」両者のアジテーション合戦になりかねない。
このような狂騒は、逆に、日々の生活を生きる我々個人を憲法から遠ざけ、ますます憲法改正への興味は失われるかもしれない。

しかし、南スーダンで今まさに戦闘地域に身を置く自衛隊員も、貧困に窮する人々も、生まれつき障がいのある人も、自分とは全く異なる性的志向を持つ人も、宗教観や道徳観が正反対の人々も、同胞である。この社会に二級市民はいない。
憲法を考えることは、私たちが「個人」や「国家」をどうデザインするのか、または社会設計などという大それた話について考えるという遠くの話とも思える。
しかし、そうではない。
憲法について考えることとは、我々が、自己とはまったく違う「他者」に思いを馳せる、イマジネーションを働かせて想像する、そういう作業を迫る行為なのである。これらは、決して我々人間の本質とは馴染まない。我々は皆目の前のことに必死だし、また同じ利益や価値観の中に埋没したい。その方が楽だ。
憲法はそれを許さない。
私も日々法律家として様々な人に触れる。多種多様な世界観や立場、生活実態に触れ、そのすべてを何とかしたいと願いながら事件にあたる。しかし、すべての人に利益を分配して、すべての人の幸福を充足させることなど到底できないというジレンマにぶつかる。
私は、憲法について考えることによって、そのような同胞の存在に思いをきたし、思い悩み、それらを節度に変えて生きよう、と決意させるのである。
憲法は、「一文字も変えたくない」か「全部変えたい」と考えている「意識の高い」人々だけの(もちろん皮肉である)ものではない。我々一人一人のものである。
憲法は「難しい」、「わかりにくい」、大いに結構な感想である。しかし、そこでとどまてしまうのではなく、普段想像していなかった他者の苦悩への想像をもって、自己がどう生きるのか、そのためには、憲法はどうあるべきか、このような視点を加えて、憲法論議に向き合ってほしい。この憲法からの息苦しい問いかけに目を背けないでほしい。
責任(responsibility)のオリジンは応答(response)である。
我々は何に応答すべきなのか。
この憲法からの息苦しい問いかけへの「応答(response)」としてのまだ見ぬ「他者へのまなざし」は、”憲法制定権力”であるこの社会に生きる我々一人一人が持つ「責任(responsibility)」であり、尊厳である。
憲法に対する責任を果たそうではないか。

09:27
2017/01/04

三浦瑠麗×倉持麟太郎@神奈川新聞正月スペシャル

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昨年、シンゴジラばりの衝撃をもってゴー宣道場への「上陸」が伝えられた三浦瑠麗氏と私の対談が、神奈川新聞の正月スペシャル対談として、(上)(中)(下)でアップされております。
2017年の展望について、安保、トランプ、改憲、濃密に話しております。
自分でも読み返しましたが、とても面白かったです。
たくさんの写真とともに(深い意味なし)、ご高覧ください!

〈時代の正体〉新春スペシャル対談 三浦瑠麗-倉持麟太郎(上)「危機に直面する国際貢献」
http://www.kanaloco.jp/sp/article/222274

緊迫の南スーダンPKOについてさらに突っ込む! 〈時代の正体〉新春スペシャル対談 三浦瑠麗-倉持麟太郎(中)
http://www.kanaloco.jp/article/222305

〈時代の正体〉新春スペシャル対談 三浦瑠麗-倉持麟太郎(下) トランプ就任の影響は
http://www.kanaloco.jp/article/222583


09:24
2016/12/30

和解の力は権利放棄の力 パールハーバーに寄せて

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民法には、和解について、以下のような規定がある。

【第695条】「和解は、当事者が互いに譲歩をしてその間に存する争いをやめることを約することによって、その効力を生ずる。」

もちろん、和解契約として、任意ですることもあれば、裁判上の和解といって、裁判所の話し合いの過程で、裁判所が入った形で和解をすることもある。

和解の本質とは何か、それは、「紛争の終局的解決」であり、「請求権の放棄」である。

我々法律家は、紛争を最大化するためでなく、最小化するためにいる(そう考えていない(そうしないと食っていけない)好戦的なムキもおられるが)ので、和解での解決に至ることが極めて多いし、それが望ましい場合が多い。条文にある通り、「互いに譲歩」するから、当事者の納得感も担保できる。「勝った」「負けた」となりにくいからである。
裁判所としても、訴訟のある程度の進行段階で、必ず和解勧旨する。
そして、和解となれば、その内容を書き込んだ「和解調書」は判決と同じ効力を持つ。つまり、強制執行までできる。

では、その和解にあたって必ず盛り込まれる要素とは何か、もちろん、お互いでの金銭の支払いや確定した債権債務の額など、「互いに譲歩」した内容が書き込まれる。
そして、最後に必ず規定するのが「清算条項」である。

・当事者間に(本和解条項に定めるほかは)債権債務の存在しないことを確認する。
・その余の請求を放棄する。
・和解に要した費用は各自の負担とする。

これにて手打ち、恨みっこなし、お互いの責任等はゼロベースに戻る。違反したら強制執行までしうる。
和解とは、それくらい重みのある法的行為なのである。

安倍首相が、先日、パールハーバーを訪れ、「和解の力」とする演説を行った。この内容の文学的価値については、措こう。
一体、安倍首相、日本政府は何を和解したのか。
明らかなとおり、今回のパールハーバー訪問は、伊勢志摩サミットに際してオバマ大統領が広島の平和記念公園を訪れたことへのある種のアンサーソングとしての訪問である。
オバマ大統領は、アメリカ人大統領として初めて広島の原爆記念館を訪問し、哀悼の意を述べた。これに対して、安倍首相は、パールハーバーを(首相としては4人目として)訪問し、同じく哀悼の意を述べた。
これが「和解」というのなら、広島とパールハーバーを天秤にかけて、「互いに譲歩」し、紛争の終局的解決をした、ということになる。
しかし、広島とパールハーバーはparity(対等、同価値)か?
民間人を虐殺した原子力による国際的な戦争犯罪と、軍港への奇襲は同価値か?

どう考えてもおかしい。去年の安保法制では、自衛隊(我が国防衛)を差し出し、今回は広島を差し出した。
そしてこれらを称して「和解」と名付けた。和解を「仲直り」くらいの意味でとらえてはいないか?
日本は、パールハーバーとはまったく同価値にない広島を差し出して「和解」をしたのだ。行政の最高権力者をしてそういったのだ。つまり、広島とパールハーバーについてのお互いの権利の放棄であり、今後はもうお互いに何らの権利義務も負わないということだ。
見返りは何だ?何か得たのか?
日露交渉もそうだったが、自分から余分にカードを切って、何か得たのか?
「大人の外交交渉」はどこへいった。
未来志向などという言葉で、ごまかしてはいけない。そのような言説を言う者は、後ろめたさはないのか。本当に傷ついた少数者、そして、消えていった少数者を無視してはいないか。それでも日本国民か、同胞か。
国を思う者、そして、この日本社会を愛する者がなぜもっと声を上げない。なぜ抗議しない、傷ついた同胞のためになぜ抗議しない。

社会自体が細分化され分断され、熱狂と沈黙に覆われ、その最小単位の個人レベルでの「自己」と「他者」の峻厳な向き合いが欠如していないか。
政権批判の「ためにする」主張ではない。
あらゆる社会的存在にこのことを投げかけたい。
自分たちが主張することやコミットした特定の問題解決の要求だけをして、そのコストや逆に自身がトレードオフをしなければならない必要を無視した、非常に独善的な単一のアジェンダに特化した「圧力団体」化していないか、集団極化していないか、自省的な眼差しが必要なのではないか。

ちょ
っと熱くなったので、アイスでも食おう
16:27
2016/12/29

元旦にAbemaTVで朝生とコラボ!出演!

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【1月1日(日)00:55 〜 05:50『Abemaはじめての年越しすべて見せます!初日の出スペシャル?朝生コラボ激論編』@AbemaNewsチャンネル 出演します!】
テレ朝の「朝まで生テレビ!」とコラボして完全同一テーマ裏激論!「トランプ大統領」、「憲法改正と安全保障」、「天皇陛下の“生前退位”」、「メディアの行方」
本家朝生とのクロストーク??もあるそう。小林よしりん先生とも表と裏で共闘ですかね。
新年から早速の仕事ですが、みなさん、スマホでも見れるそうなので、餅でも食いながらAbemaTV見てください。本家朝生よりもこちらは若手論客中心?らしいです!
僕の役割は、泥酔してSMAP解散について語るってところでしょうか。



20:34
2016/12/23

天皇誕生日にゴー宣ローヤルストレートフラッシュ

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本日は天皇誕生日
そんな日に、私と高森先生の神奈川新聞のインタビューが、Yahoo!ニュースのヘッドラインにものりました。怒りが神奈川からYahoo!に届いた!
是非ご笑覧ください!

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161223-00014400-kana-l14
18:04
2016/12/15

もっと強いのをくれー先鋭化の交響楽と社会ー

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某歌手や元プロ野球選手の薬物事犯、ではない。

子どもに足し算を教えるときに、1+1について、リンゴを二つならべて、一つずつ示しながら、1+1が2であることを伝える。
抽象的な物事を伝えるのに、具体的な媒介を設定することは、戦略的に合理性がある。

今日の時間割は、音楽だ。

サンフランシスコ交響楽団、ドレスデンシュターツカペレ、バイエルン放送響の演奏を立て続けに聞いた。ここには現代の縮図がある。

サンフランシスコ交響楽団は、20年以上も音楽監督をしているマイケルティルソントーマスとともに来日。トーマスはLGBTであることを公表しており、同性婚もしている。音楽は頭脳明晰分析的で、バーンスタイン亡き後のアメリカ・クラシックシーンをけん引した”鬼才”である。
このようなトーマス率いるサンフランシスコ交響楽団は、オーケストラにおける人種構成の多様性も世界一、まさにダイバーシティを体現しているような楽団だ。
当然、音楽も自由。それぞれの楽団員は、トーマスの音楽に深く共鳴しながら、しかし、それぞれの楽団員が皆各人の個性を存分に発揮しながら調和を構築していく。ここにいるのは指揮者も含めて皆「個人」だ。個人がまったく違うフレーズや音色やパッセージをもって対話をし、しかし、多様性が共生したまま調和に向かっていく。
多様な価値観と少数へのまなざし、そして、共生と調和、これぞリベラルな社会そのものではないか。
補足のために脱線すると、実は、同じカリフォルニア州の雄、ロサンゼルス・フィルも面白い。
音楽監督はグスターボ・ドゥダメル、1981年生まれの35歳のベネズエラ人である。若手だ。
貧困児童のための音楽プログラム”エル・システマ”を創始した、ホセ・アブレウ卿に見いだされ、ベネズエラの成り上がりの象徴でもあるスーパースターかもしれない。
マーラー国際指揮者コンクールに出場し、当時当コンクールの審査員でLAフィルの音楽監督だったエサペッカサロネンは、審査直後にLAフィルの事務局に連絡をした。
「僕の後任を見つけた、とても若いベネズエラ人だ」
どこの馬の骨ともわからないベネズエラの若者の名を指名されたLAフィルは困惑した。
しかし、サロネンの後任としてLAフィルの音楽監督になったドゥダメルは、現在、まさに時代の寵児として、世界を席巻している。世界中の主要オーケストラからオファーの嵐で、2017年1月1日には、かのウィーンフィルニューイヤーコンサートの指揮台に、ダントツの最年少で登場する。これは、紅白歌合戦のトリを新人中学生歌手がいきなり歌うくらい、異例だ(私は、ニューイヤーコンサートが「切り札」ドゥダメルをもうすでに呼ばねばならないくらい、クラシック界は危機に瀕しているとも思っているが。)。
そんなドゥダメルの母国ベネズエラは、アメリカにとって、簡単にいうと長年の「歴史問題」なのである(チャベスがブッシュを”悪魔”呼ばわりしていたのは記憶に新しい)。それを、アメリカのトップオケの音楽監督に据え、世界中にその芸術を発信している。まさしく文化外交の実務だと思う。
ドゥダメルのリハーサルに立ち会ったことがあるが、ドゥダメルは、とにかく楽団員に"personality"を要求した。偉そうでも、高飛車でも、引っ込み思案でも、温厚でも、それぞれの楽団員に「君は?どんな人間だい?」問いかけながら、音楽を作った。決してその個性を何かに収れんさせたり、強制的に一つの価値観を押し付けたりはしない。唯一彼が繰り返し叫んだのは「聞いて!」「対話して!」「それが自分がYesで相手がNoでも!」という言葉だった。あとは、ドゥダメルが指揮棒を上げれば、自然とすべての"personality"は、交響的(公共的)空間で対話(熟議)を経て、一つの音楽を形成していった。サンフランシスコ交響楽団のところで書いたものと同じことを書こう、「共生と調和」である。
そういう意味で、現在の社会で失われつつあるもの、もっと言えば、トランプ後のアメリカで失われそうなものが、西海岸の音楽シーンには、かなりプロトタイプかつ洗練された形で生きている。
これらの”多様性””対話””調和””共生”は、絵空事かもしれないが、アメリカが掲げた理念であったはずだ。我々は、これらの「現在」西海岸の誇る文化芸術を「あえて」守らねばならないし、新政権の文化政策も、注視する必要があるだろう。
これはアメリカ一国のことではない、急速に多様性等が失われ、分断が加速している日本社会にとっても、何かヒントが隠されているかもしれない。

アメリカのオーケストラは、合奏は正確かつ最強最大最重量最速、そして大量生産大量消費、ゆえにヨーロッパの古城の黴臭さや深い森、ほの暗い空等々の表現には適さない、エンターテインメント型オーケストラであった。ヨーロッパのオケに対して「アメリカのオケみたいな演奏だ」という揶揄もよくある。アメリカのオケには、いわゆるヨーロッパ文化であるクラシックの演奏はできないものとされていた。しかしどうだろう、「多様性」等の価値観は、むしろ普遍的であるし、無味無色だからこそ、世界に発信し、共感されるものではないだろうか。"post truth"といわれる時代に、実はアメリカの絵空事かもしれずに掲げていた理念は、普遍性をもって蘇るかもしれない。その普遍性を音色に乗せて運ぶ西海岸のオケの音に耳を傾けてほしい。

さあ、次に登場願うのは、ドレスデンシュターツカペレである。
1548年にザクセン選帝侯の宮廷楽団として設立され、ワーグナーやウェーバーとも関係のある、現存するオケ(歌劇場)では最古のオケの一つである。
音楽監督は、クリスティアン・ティーレマン、これまた、歌劇場の歴史ばりに古風な指揮者である。ワーグナーを祭るバイロイト音楽祭の音楽監督である。
ここまでの説明でご理解いただけるかはわからないが、ティーレマンの音楽はマッチョイズムの権化だ。タクト=棒=男性、を音楽に体現したような復古主義的な音楽で、誤解を恐れず言えば、ネオナチ的である。よくも悪くも独裁者的である。ちなみに、私は、指揮者が独裁者的であることにまったく嫌悪感も覚えないし、1スタイルとして承認するばかりか、望ましいとすら思う時もある。最近は、いろいろな「差異」を解消させようとするあまり、すべて「同じ目線」で語ることが是とされる。しかし、リーダーは対話するリーダーが良いわけではない。強力に、時に独裁的にけん引するリーダーも、その結果、誰にも到達できない世界観へ導いてくれるのなら、その船に乗ろうではないか。
オケの演奏能力は、世界随一、弦はニスをそのまま音にしたような深く粘りのある音、管楽器の号砲と豊潤な合奏は物理的にも強大で、トゥッティ(全楽器が一斉に鳴る)では、大げさではなく、コンサートホールの天井が落ちるかと思う。
そんなティーレマン率いるドレスデンの演奏は、一糸乱れぬ演奏で、全員が同じ方向を向いて、一気呵成に軍隊のように我々に迫ってくる。チャイコフスキーもリストもベートーヴェンも、ティーレマンの手にかかればワーグナーのようにマッチョだ。
アンコール、ワーグナーのローエングリン第三幕への前奏曲を聴いたときは、血液が沸騰し、脳からアドレナリンが噴き出て自然と全身から汗が出るのがわかった。演奏が終わった瞬間、ステージにダイブしたくなる衝動を抑えきれない。
暴力的なまでのマッチョイズムに統制された同一方向への推進力、そして、まるで自分が強者になったような感覚、血沸き肉躍るとはこのことか。
しかし、同時に、私はこのティーレマン&ドレスデンシュターツカペレの演奏が、とても息苦しかった。
皆が統率され疑いなどなくある特定の価値観に向かって一直線に突き進む音楽は、一方で排他的だ。これに共感できなければ、それは二級市民。
これはとても悪魔的な音楽だ、危険ですらある。人間の強者との同一化欲求を確実に満たしている。気づかない間に、この音楽に同化している、同化することで、それ以外のものを制圧した気分になる。これは人間に内在する感情なので、抗うのはとても難しいし、ひとたび抗うことは、排他や、「道を外れること」との対峙にもなる。
これは、現在の欧州社会の断片ともオーバーラップする。
欧州では、現在、いわゆる極右勢力が台頭し、また、彼らは「欧州文化の守り手」を自負する。ドレスデンシュターツカペレとティーレマンの演奏もそうだ。彼らは、ヨーロッパ文化における「ロマン」「理性」等々の体現者であり、守護神であることを、その演奏によって誇示している(補足すれば、これまた欧州随一のオケであるパリ管弦楽団も、楽団員の96%がフランス人と、サンフランシスコ交響楽団と真反対である。)。しかし、どこか浄化された世界への志向は、真空状態のように非現実的かつ息苦しい。

ここまで、非常にリベラルかつ多様性を具現化したサンフランシスコ交響楽団と、ヨーロッパ文化の守護神たらんとする極右勢力ドレスデンシュターツカペレを、対照的な存在として取り上げてきた。
どちらも、ある種、両極端の先鋭的な価値を体現する存在である。

最後に、バイエルン放送響だ。音楽監督はマリスヤンソンス。音楽は正統派で、まさに中庸の雄。お祭り男的な盛り上げはうまいが基本的には、とがっていたり奇抜な表現は採用しない王道の音楽であった。
今回のヤンソンスの演奏はどうだ。オケはさすが世界最強放送オケ、立派な音楽である。音の交通整理的なバランスも良い。しかし、ヤンソンスの音楽は緩かった、あえて踏み込んで言えば退屈だった。細部の引き締めや演出が緩くなり、全体として非常に弛緩した音楽であった。このとき感じたのは、ヤンソンスがど真ん中を歩いていた「中庸」は、弛緩した瞬間に「凡庸」に堕すのだ、ということである。
そして、メインプログラムのストラヴィンスキー『火の鳥』が終わり、カーテンコールに行き来するヤンソンスは、数回の往復のあと、舞台の袖で、倒れた。
会場は悲鳴に似た観客と楽団員の息を飲む声と緊張感に包まれた心臓病を患っているヤンソンスが倒れれば、皆の背筋に冷たいものが走る。数十秒倒れこんだ後、ヤンソンスはむっくと立ち上がり、両腕を上げ、力こぶを作るジェスチャーをして「大丈夫だ」とアピールした。心あるいは、足がもつれたのかもしれない。
しかし、あまりに象徴的だった。そう、「中庸」の敗北、そして、「中庸」の死である。直後アンコールで演奏したグリーグの『過ぎにし春』は、メインプログラムなど比べ物にならないくらいの緊張感と悲壮感を持って、万感の想いを込めて演奏された。まるで、それは「中庸」へのレクイエムであった。「過ぎにし」価値となってしまった豊かな「中庸」に対してのレクイエムとしては、あまりにふさわしい。

私は、この日の演奏会を持って、交響楽における中庸の終焉を感じた。そして、それはこの人間社会をそのまま映してはいないか。
上に書いた通り、サンフランシスコの対話に基づく多様性の共存と、ドレスデンの浄化された輝ける単一価値への志向は、対極をなしている。双方ともにとても刺激的であるし、すでに書いた通り、それぞれ悪魔的な魅力を内在している。しかし、同時に、これら二極は、それぞれの対極にある価値観がときに突然変異的に増殖しながら先鋭化し、その帰結として咲いた、とてもグロテスクな花だ。
両端に咲くグロテスクな花は、先鋭化した熱狂と陶酔を得、培養される。この土には、別地帯から浮遊した種は根付かず、いずれ、一種類の花のみに淘汰される。一種類になれば、当該種自体も、いずれは、絶える。
中庸の花は枯れ、その肥沃な大地には、種の対決を制したグロテスクな花が咲き狂うだろう。
それならば、それしか選択肢がないというのならば、その花だけでも多様性を内包し、差異と対話を包摂した、リベラルな花が望ましい。
しかし、私は、もう一度、包容力のある逞しい「中庸」の復権を目指したい。
「勝ち組」「負け組」や格差という言葉が氾濫する中で、中庸は、窒息していったのかもしれない。また、ポリティカルコレクトネスの旗のもと、細かい表現が、パソコンにプログラミングすれば出てくるような”正論”で叩き潰されていく。これは、ヘイトスピーチと対をなしつつ、一周して、同じだ。言葉の専制だ。
人々の悪魔的な欲求を満たすグロテスクな花の増幅によって、麻痺した人々は、もはや中庸を雑草のように踏みつけた。「中庸」は人々への訴求力を失っていた。
そして、人々は中庸の死骸の上で言う「もっと強いのをくれ」

これより強い薬は、行き過ぎた多様性がニヒリズムと化し、価値観自体が空中で瓦解するか、単一の価値観への極致的な収斂で巨人と化したマッチョイズムによる排外主義へと行きつくしかない。
つまり、極化した価値観は、いくら幅を広げても、支持者を得ても、「中庸」にはならない。
極化はどこまでいっても極化であり、これがエスカレートすると、「分断」に行きつく。欧米ではこの現象は明らかであるし、現代日本も、この状態に足を踏み入れている。

かつては中庸が日本を支えていた。「一億総中流社会」を掲げ、生活も思想も中庸であった人々が、日本社会の包摂性を担保していた。良くも悪くも分断を生み出さない”かすがい”となり得ていた。
中庸が死んだ今、極化のどちらかに加担するのではなく、もう一度「中庸」とはなんだったかを再考し、まさに「中庸」の再生、ひいてはより逞しい「中庸」精神の涵養をしていかなくてはならない。

私自身も、それが具体的にどのような思想で、どのような知的戦略で獲得できるのか、模索中である。しかし、必ずある。
だから、今は、取り急ぎ(!)皆さんに言いたい、目の前の棚に陳列されている二極化された思想商品から、自分に心地よいものを
二者択一的に選ばぬよう。
一度手を出したらおしまい、きっと近い将来に言うだろう
「もっと強いのをくれ」

12:05
2016/12/14

三浦瑠麗と多様性

Tweet ThisSend to Facebook | by 倉持
去る12月11日のゴー宣道場に、ゲストで三浦瑠麗氏が登場した。
私もゲストに毛の生えたような師範”見習い”ではあるものの、だからこそ感じたことはいくつかあった。

三浦さんとは、2015年の安保法制について、新聞誌上で対談して以来、定期的に意見交換をしている。
「三浦さんて、どこかのスパイですか?」「この前の朝生、いつにもましていけすかない感じ出てましたよ」などと意見交換をしている。

彼女の議論は、形式(外見)も実質(中身)も、論争誘発的・挑発的・刺激的であるので、私は意見や見解を異にするところも少なからずあるが、いつも、「稽古」のように意見をぶつけさせてもらっている。

そんな中、道場ではどうだっただろう。
トピックはかなり多岐にわたった。女性活躍、労働、教育、選挙、憲法、そして皇位・・・
どれについても、持ち前の反射神経と三浦的視点から、テーマを斬っていった。

内容については、各自いろいろと意見の相違があると思う。
私も、大学無償化については、むしろエリートだけが得をする社会から脱却するという意味で、政策のとらえ方が違うと思うし、夫婦別姓についても、あと数歩踏み込んでいただいてもよかったと思う。
また、彼女は、とにかく構造改革路線なので、その視点で彼女の発言をみると説明がつきやすいかもしれない。

何より、彼女の言論の特徴は、突き付ける、ことだと思う。突き付けられた問や投げかけは、まるで「あなたちょっと脱いでみなさい」と言われ、言われるがままに脱ぐと「その程度ね」と笑われる、こんな感じだ(どんな感じだ、怒られるぞ)
しかし、現代であそこまでタイマンはりまっせ型の論客は珍しいのではないか。

後から入った身からすれば、前回のゴー宣道場は、非常に多様な論点について、それぞれがかなり自己の体験や思想から出発して、賛否含めて悶絶したと思う。
三浦さんのことをどうしても受け入れられないムキもあろうかと思う。しかし、それでいいのだ、論破や否定を越えて、各論点についての各個人の思想が共存する。そこで、我々は異質の「他者」に出会い、「自己」を再定位する。
三浦さんに反発しながらも、自己を再発見した方もたくさんおられたのではないか。「自分はこんな風に、こんな思想を真に大切に思っていたのか」と。
その意味で、前回の道場は、多様な考え方がつばぜり合いしながら、しかし、淘汰されるのではなく共存する、「対話」するフォーラムのデモンストレーションになっていたと思う。
そこには、それぞれ「悶絶する」”生身の個人”がいた。なんてダイナミックなんだ。

「つきつける女」三浦瑠麗の存在は、そんな意味づけもできるかな、と、考えてみた。

ちなみに、1月1日ころのの神奈川新聞で、南スーダンやトランプ、憲法改正等々、2017年をどう読むか、というテーマで、三浦瑠麗VS倉持麟太郎、やってます。追って告知いたしますが、ご高覧ください。

10:26
2016/12/05

憲法審査会と過ぎし日の思い出

Tweet ThisSend to Facebook | by 倉持
第1 再開

先週から、憲法審査会の議論が再開した。
衆議院においてが、実質的審議は昨年2015年6月4日以来。
昨年6月4日の憲法審査会といえば、憲法学者3人(長谷部恭男教授、笹田栄司教授、小林節教授)が、いわゆる安保法案について、そろって「違憲」と断じたあの日である。
あの日以来の開催であるから、その開催に要したカロリーたるや、バックトゥーザフューチャーのデロリアンが未来に行く時くらいの熱量であろう。

第2 中身は

さて、内容・テーマといえば、実質1回目(9月から、形式的なものだけは行われている)の11月17日は、「憲法制定70年を振り返って」等、11月24日は「憲法改正の限界、立憲主義」等であった。

安倍総理が、「憲法の議論は憲法審査会で」とあらゆる質問にも答弁拒否をして憲法審査会に場を譲った。待ちに待った(誰が?)憲法審査会での議論の内容について、ここからは叙事的に書こう。
【総論:大方のコンセンサスと考えていいもの】
・「押しつけ憲法論」は乗り越えよう
・日本国憲法の三大原理はおさえた上で改憲を議論しよう
・必要な項目は改憲してもよし

【各論】
改正項目としてあがったもの
・9条(しかしかなりトーン低め)
・環境権
・解散権の行使の制限
・緊急事態条項(議員の任期延長に限れば、民進細野氏も同調)
・憲法裁判所の創設(与野党から提案あり。)

【特筆すべきこと】
公明党の決意表明
・積極的に「押しつけ憲法論からの脱却」を表明
・憲法審査会での議論の仕方を提示(立憲的姿勢での議論を提示)
→これが、自民党に対する牽制なのかどうかというところはこれから観察しなくてはならない。

大筋としての議論の”流れ”は上記のようなものであり、これ以外の、明治以前くらいで頭がとまっている議員や、とにかく存在感をアピールするために他党を批判する品位のない議員の言説などは、愛嬌といえば愛嬌にも失礼な言説であり、語るに落ちると言わざるを得ない。
ここで上記の”流れ”につき評価すれば、プラスは、「改憲か護憲か」という二分論にはならなそうな雰囲気であること
マイナスは、現実のスピード感からして、まったくもって議論のスピード感が遅すぎるのと、最低限の共有されたシナリオもなさそうな「バラバラ」感に、こんなことでは、現実の変化にはまったく対応できないのではないかということだ。
大体、南スーダンへの自衛隊派遣や、自然災害等の危機管理の問題は、この瞬間にも決壊しかねないにもかかわらず、冒頭に「70年間を振り返って」とはあまりに牧歌的ではないか。
まるで、冒頭に「みんなでいった志賀高原(一同:しぃがぁこぉげん)」みたいな卒業式での思い出振り返りをしているようだ。そんな場合ではない。
また、各人各党がバラバラに発言をしており、会長の捌きもないので、コンセンサスが得られる要素がない。各党による「憲法草案」的なものの提出というシナリオも聞こえてくるが、そもそも、憲法改正原案は憲法審査会から提出するのであり、特定政党の草案を数の力で押し切るような性質のものではない。私個人的には、草案提示は是非積極的にやるべきであると考えているが、示し方によっては、またそれらがにらみ合って建設的な議論が進まないということになりかねないという危惧を覚える。
憲法自体が、特定の立場や時の多数派とは離れた価値観を規定するものだとすれば、憲法審査会での議論も、そのような憲法的な価値観のもと議論をされたい。

第3 どう見るのか

憲法審査会がこのままの体たらくで進むようだと、憲法改正にはあと70年はかかるだろう。親が亡くなったのに、それを隠して不正に年金を受給していたという事件が相次いだことがあった。憲法が死文化したにもかかわらず、”輝け憲法”として生きている「ふり」をしてはいけない。
憲法審査会では、各人が、ご都合主義的に、自己の主張を補強するために、切り貼りで議論を援用するようなことを厳に戒め、本来は、テレビチャンピオンのように、あまりに知的誠実性を欠く委員は脱落していく方式をとりたい。が、それでは、まさに立憲的ではなくなってしまうので、知的な最終ラインと知性への敬意及びマナーをわきまえることも含めて、”コンセンサス形成”を目標にしていただきたい。
そのためには会長の手腕も問われる。「手探り」というのはわかるが、プロなら、初球からスタンドに運べるよう準備すべきである。手探りで見逃し三振は言い訳にならない。
また、維新の掲げる教育無償化や、緊急事態対処のように、法律レベルで解決するマターを改憲議論に密輸入しないでほしい。これらを精査して、何が真に「憲法論議」の俎上に乗せるべきなのか、ということを、まさに知を結集して議論してほしい。
憲法改正を望むものは、改憲すべきであるという「立証責任」を負う。
戦後、憲法論壇は、憲法改正の必要性の立証のハードルに、様々なカードで挑んできた。それは「押しつけ憲法論」であったり、「時代の変化」であったりした。今回、様々なカードで改憲ハードルへの挑戦が試みられるだろう。緊急事態、教育無償化、憲法裁判所・・・これらのカードが、果たして立証責任を果たせるものなのか、また、法改正マターを潜り込ませていないか、厳しいふるいにかけて、王道の改憲議論によって、”コンセンサス形成”を目指してほしい。我々も、監視していかねばならない

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