倉持麟太郎の“Rin”sanity
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2017/03/23new

籠池理事長の『駆け込み訴え』

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「申し上げます。申し上げます。旦那さま。あの人は、酷い。酷い。はい。厭な奴です。悪い人です。ああ。我慢ならない。生かして置けねえ。
 はい、はい。落ちついて申し上げます。あの人を、生かして置いてはなりません。世の中の
です。はい、何もかも、すっかり、全部、申し上げます。私は、あの人の居所を知っています。すぐに御案内申します。ずたずたに切りさいなんで、殺して下さい。あの人は、私の師です。主です。けれども私と同じ年です。三十四であります。私は、あの人よりたった二月おそく生れただけなのです。たいした違いが無い筈だ。人と人との間に、そんなにひどい差別は無い筈だ。それなのに私はきょう迄あの人に、どれほど意地悪くこき使われて来たことか。どんなに嘲弄されて来たことか。ああ、もう、いやだ。堪えられるところ迄は、堪えて来たのだ。怒る時に怒らなければ、人間の甲斐がありません。私は今まであの人を、どんなにこっそり庇ってあげたか。誰も、ご存じ無いのです。あの人ご自身だって、それに気がついていないのだ。いや、あの人は知っているのだ。ちゃんと知っています。知っているからこそ、尚更あの人は私を意地悪く軽蔑するのだ。あの人は傲慢だ。私から大きに世話を受けているので、それがご自身に口惜しいのだ。あの人は、阿呆なくらいに自惚屋だ。私などから世話を受けている、ということを、何かご自身の、ひどい引目ででもあるかのように思い込んでいなさるのです。あの人は、なんでもご自身で出来るかのように、ひとから見られたくてたまらないのだ。ばかな話だ。世の中はそんなものじゃ無いんだ。この世に暮して行くからには、どうしても誰かに、ぺこぺこ頭を下げなければいけないのだし、そうして歩一歩、苦労して人を抑えてゆくより他に仕様がないのだ。あの人に一体、何が出来ましょう。なんにも出来やしないのです。私から見れば青二才だ。私がもし居らなかったらあの人は、もう、とうの昔、あの無能でとんまの弟子たちと、どこかの野原でのたれ死していたに違いない」

これは、今日行われた籠池理事長の証人喚問における安倍首相に対する発言、ではない。
太宰治の『駆け込み訴え』の一節である。三島の「神の視点」とは対照的な主観最大化天才の太宰の真骨頂という作品である。これは、キリストを裏切ったユダが、キリストへの愛と憎しみ、そして、裏切った理由をまくしたてる、そんな場面だけを一気に描いた作品だ。文庫本にしてたった13Pの作品である。しかし、そのユダのグロテスクな心理描写の迫真性と、心の中に渦巻く愛憎逆説的な感情の相克と、それを語るスピード感で、本当に一気に読める。

は、今回、籠池理事長をの証人喚問を聞いていて、この『駆け込み訴え』のユダを思い出した。
すなわち、籠池理事長は、安倍晋三を愛していた。恋していた。
安倍首相は、この男の恋心を蔑ろにした。
籠池理事長は、証人喚問の中で何度も安倍首相を「敬愛していた」を繰り返した。

双方向だと確信していた愛が、一方的であったとわかったとき、それがないがしろにされたとき、愛が憎悪にそのまま変身し、牙をむく。今回にはあてはまらないが、ストーカーの心理構造もこれに近い。

安倍晋三は、否、安倍晋三という権力は、一人一人からの愛など関係なかった。そのような愛や憎しみが織りなし収斂された結果の政治権力という「世俗的パワー」の源泉を甘くみていた。もっとわかりやすくいえば、安倍晋三は「人の心」がわからなかった。
過小評価した、いや、安倍晋三が理解できなかった籠池の男の恋心が、事態をここまで動かした。
人の心の総体が政治権力の源泉だとすれば、その核心を理解していなかった安倍晋三は、この人の心のねじれによって足元をすくわれるかもしれない。
もちろん、安倍晋三を駆け込み訴えでいうイエスに見立てたり、籠池に肩入れするつもりなど毛頭ない。まったくない。
しかし、最高法規をはじめとした法規範や慣習、安定性や継続性、信頼や約束、暗黙のルール等、ありとあらゆる規範や論理を軽視・無視してきた政権が、それらよりもはるかに地べたに近い「人の心」の軽視・無視で、その権力を追われるかもしれないという状況に、政治と権力に埋め込まれた人間の業を感じずにはいられないのである。
繰り返すが、今、上に挙げた最高法規等々の源泉も、これまた「人の心」である。

さあ、次はだれの「駆け込み訴え」を聞こうか


18:26
2017/03/23new

この「青い空」と立憲主義者たちの欺瞞ー愛子さまの卒業作文に寄せて

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昨日、愛子さまが学習院女子中等科をご卒業された。おめでとうございます。
ご卒業にあたり、記念文集に「世界の平和を願って」と題された作文を寄せられている。
内容は、僭越ながら趣旨をまとめれば、あたりまえの日常的な平和や自由があたりまえではないとお感じになられるようなり、この意識変化のきっかけは広島訪問によって戦時中に思いを馳せたからであるというものである。文末には、核なき世界への志向もされておられる。

この作文の核心部分は、以下であろう。このように綴られている。

「何気なく見た青い空。しかし、空が青いのは当たり前ではない。毎日不自由なく生活ができること、争いごとなく安心して暮らせることも、当たり前だと思ってはいけない。なぜなら、戦時中の人々は、それが当たり前にできなかったのだから。日常の生活の一つひとつ、他の人からの親切一つひとつに感謝し、他の人を思いやるところから「平和」は始まるのではないだろうか。」

もちろん、戦時中に思いをいたせば、我々個人にとっての「青い空」という日常があたりまえではないという主題がそこにはある。
これに加えて、この「青い空」について、愛子さまの意識にあるかどうかはわからないが、今一つの文脈を指摘したい。
すなわち、憲法及び立憲秩序の「飛び地=皇室」から見た空も、その秩序内にいる我々が見る空も、同じ「青い空」なはずである。しかし、ここには、これがあたりまえのようで当たり前ではないのだ、という文脈における、現代日本の自由及び統治構造が抱える諸問題への投げかけである。

「自由」という視点から考えたとき、皇族の方々は一般的市民が享受しうる自由を著しく制限されている。それは、美智子皇后から、雅子さま及び愛子さまの三代にわたって、「皇族」であられることでおかれている、内外からのその人格的重圧という非常に困難な環境ゆえに、過度な精神的負荷がかかっていることは明らかである。心身への影響も、三代続けて問題視されるべき状況にある。

この度、この作文が公表され、いわゆるリベラルや立憲主義等を「大切である」と標榜しているような人々(ここでは批判的意味をこめて「立憲主義者」と呼ぶ)から、作文の内容を称賛するような言説が散見された。「平和」や「核廃絶」に言及していることも原因であろう。
しかし、彼らから、愛子さまの「自由の現況」についての憂いや、皇室制度そのものへの考察、ひいては、それを含めた現在そして将来にわたる日本型立憲秩序への言説は、一切聞かれない。
その理由は単純で、愛子さまの作文の内容が、彼らの主張にとって親和的である限りにおいて援用しているからにほかならない。だからこそ、その作文を書かれた本人の「自由の現況」や、日本型立憲主義の核にある皇室制度については、言及がない。現代社会における皇室制度をどのように考えるのか、存続させるべきか否かも含め、これについての意見表明も自由にすればいいではないか。その中で、市民的自由が著しく制限された皇室制度における皇族の方々の自由について、いかに考えていくのかということに触れるべきであろう。
同じ日本国に存在する自然人でありながら自由を制限されつつも日本型統治機構を実質的に支えている皇室制度という日本型の権威と権力の関係等、立憲主義及び憲法秩序について真にコミットするならば、現代日本及び憲法秩序における自由及び統治の根幹でもある皇室制度の在り方と、皇族の方々の「自由の現況」について言及すべきである。立憲主義の核心は個人の自律であり、「自由」であるにもかかわらず、そこには言及しない。これは、まさに、「自由」や「立憲主義」のご都合主義的な援用であり、ダブルスタンダードである。
私は、譲位問題を含め、皇室制度の在り方をめぐる近年の議論状況に触れ、立憲主義やリベラルを標ぼうする人間にとって、「立憲主義」は片面的なイデオロギーでしかない、という思いをより一層強くすることになった。
その思いをさらに強くさせたのが、この愛子さまの作文をめぐる、人々の様々な言説である。

これはご譲位についての議論状況とも密接に関連している。今上陛下のお考えがリベラルであったり立憲主義についての深いご考察については賛意を表明することのある「立憲主義者」たちは、陛下ご自身の譲位問題について、陛下のお気持ちを叶えるための方策はおろか、ほぼ一切発言をすることすらなかった。皇族の方々を、立憲主義や憲法秩序の枠内と「飛び地」その間でご都合主義的に行き来させているのは誰か。
立憲主義やリベラリズムは、本来厳しい自己批判と自己吟味を我々に課すはずである。

愛子さま(皇族の方々)が見る「青い空」と、我々個人が見る「青い空」は、本来は同じである。しかし、それがあたりまえのようであってあたりまえではない、という命題が突き付けるこの国の「自由の現況」について、片面的・ご都合主義的な思想的態度ではなく、真正面から向き合わねばならないのではないだろうか。
共謀罪についても同じである。テロの脅威や安全・安心を語る言説には、監視や拘束の対象となる人間の自由と自分の自由はまるで別物のように扱う感覚がある。自由にはアプリオリに制限されてもよい二級の自由など存在しない。ここに欠如しているのは、自分が常に他者の立場と入れ替わるかもしれない、そして、入れ替わったとしてもそれを受容できるのかという視点である。
これからの社会を語り、そして生きていくために、我々の社会という同一平面上に広がる自由を遮断したり分断しようとする権力や自己欺瞞から解き放たれた、逞しい自由論の再生なくして、この社会の再生もない。
この社会の誰もが同じ「青い空」を見ているはずだ、というあたりまえのことをあたりまえに共有できる社会を築こうではないか。

08:35
2017/03/21new

【本日3月21日東京新聞朝刊『退位こう考える』】

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今日の東京新聞の朝刊にインタビュー記事『退位こう考える』掲載されました。
議長とりまとめを受けて総括してます。
それにしても、普段、「憲法守れ」とか「立憲主義」とか叫ぶ人々(法律家含む)が、まさに日本の立憲主義と憲法語るのにど真ん中の皇位の問題につき、まったく発言しないのをみてると、結局、「立憲主義」をイデオロギーとしてしかみてないんだなという気がして冷めた気持ちになります。

道場での議論を経て、さらに、陛下を考える際に立憲主義の重要さ、そして、無色透明さを実感しています。こちらのブログでも総括していきたいと思います!


11:41
2017/03/16

明日3月17日(金)朝7時-『モーニングクロス』@東京MX

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明日の朝7時?、東京MXのモーニングクロスに出演します。
あたりまえのことが、あたりまえに行われないこの現代にドロップキック!怒りと共に突撃します!


15:02
2017/03/01

皇位問題をノーガードで戦うな

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裁判等で、法的な主張を構成するときに、二種類の主張をすることがある。
「貸した100万円返せ!」がテーマになっているとしよう。
貸金返還請求をされたときに、まずは、

1.「そもそも借りてない(主位的な主張)」
というところで争う。つまり、こちらからしてマックス100%の主張だ。

次に、主位的な主張につき、”たとえそうでなかったとしても”、という次善の主張として

2.「たしかに借りたが、これについては、おまえに貸してた100万円で相殺する(予備的な主張)」
というような主張をするのである。

つまり、主位的主張のみを全面展開したとしても、勝てば100%だが、もし負けたら獲得できるのは0%である。完全なノーガードだ。
そうではなく、もし主位的な主張が倒れたとしても、予備的な主張を展開することで、0%での敗北は防げる。これこそが戦略的な戦い方である。

皇位の問題を含めた、現在日本で起きている事象についての戦いも同じだ。
もちろん、皇室典範改正を掲げる民進党のみを100%応援するのがまず筋であろう。
しかし、民進党が敗れた、というだけでなく、もし現政権が何らかのスキャンダル等で倒れたとしたら??民進党の案がすぐに通るのか??政権を即奪取するのか?
現実はそうではないし、そうならない可能性をヘッジするのが戦略である。
自民党は圧倒的与党として存在するわけであり、現政権に代わるオルタナティブとして、自民党の中の良識派を応援し、育てなければならない。
どのように転んでも、100%の敗北をしないオプションを常にもっておくことこそが肝要だ。なぜなら、大事なのは、どこを応援するかどうか、ということではなく、この社会をより善きものにするという最終目標にとって、何が効果的か、だからである。

その意味で、現在埋もれている自民党の中にいる良識派を探し、光を当て、応援することは、我々の戦略として、潜在的な手段・選択肢の深化を広がりを意味する。

今回ゴー宣道場に登壇いただく船田元氏も、その一人である。自民党が”官邸の下請け業者”化している中で、党から声を上げることすら困難である。
そして、このような人が一人でも現れれば、それに呼応する議員も増えてくるかもしれない。「自分にもできるかもしれない」と。
自民党だからダメ、というような選好重視の幼稚な考えでは、この遥かなる戦いには勝てない。

我々も、日和見することなく、胆力をもって、一人一人で声を上げよう。

「コオロギは 鳴き続けたり 嵐の夜」

これは、私の憲法学の師である、駒村圭吾が本で紹介していた、桐生悠々(1873-1941)の句である。
信濃毎日の主筆も務め、反権力の論陣を張り続けた悠々が、当時の社会情勢が、軍靴の音が鳴り響き言論の世界も体制に同化し称揚する言説が嵐となっていた中で、かき消されたとしても、その嵐の轟音の中で、コオロギとして鳴き続けるのだ、という気概を読んだ句だ。
やがて、コオロギの鳴き声自体が嵐になり、嵐をものみ込むことにもなりうる。

「野党だからできない」「自民党にいるからダメ」
これらの言説は、内実何も言っていないのと同じ無責任な言説であり、嵐にかき消され藻屑となってしまう。
また、もし政治家でこのように考えている人間がいるのであれば、「公」と同化可能な存在である政治家が、その「公共心」を捨てた政治的廃人と等しいので、即刻やめていただきたい。少なくとも私はそのような人間は公共空間に「職業として」存在すべきでない有害な存在だと考えている。

我々一人一人が、悠々の句のコオロギのように、真に正しいと思うことに向けて鳴き続け、コオロギをかき消さんとしていた嵐を凌駕するような逞しい公論を形成しよう。

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「自民党にもいる尊皇派」


平成29年3月12日(日)午後2時 から
『人事労務会館』 にて開催します。



「人事労務会館」
(住所:東京都品川区大崎2-4-3 )は、
JR山手線・埼京線・湘南新宿ライン・りんかい線
『大崎駅』 の 北改札口 を出て左へ、
「西口」 側の左階段を降りて、徒歩3分です。


毎回、会場の場所が分からず迷われる方が、多くいらっしゃいます。

人事労務会館のHPにて、場所をよくご確認の上、ご来場下さい絵文字:重要
(HP掲載の、駅から会場までの地図を印刷し、持参されることをオススメします )

詳しくは、 
“ こちら ” でどうぞ。



312日(日曜)開催の「ゴー宣道場」は、
『天皇論 平成29年』発売記念として、
本書に関する議論を行なう。テーマとしては、

「自民党にもいる尊皇派」を掲げる。

 

男系固執の安倍政権による全体主義的な同調圧力に
屈せず、公の場で声を上げてくれる自民党議員は
少ない。

特例法に反対で、皇室典範改正支持、女性宮家創設に
賛成する議員はいるが、残念ながら「ゴー宣道場」と
日程が合わないケースもあった。

 

そんな中、勇気を持ってゲスト出演を了承してくれた
貴重な自民党議員が
船田元氏である!

 

ただし船田氏が地方から戻って、「ゴー宣道場」に駆け

つけてくれる時間が16時(午後4時)になるので、

今回の道場は、開始時間を14時(午後2時)からにして、

終了時間を17時(午後5時)にする。

 

今の自民党内で数少ない尊皇派の一人である船田氏が

果たして何を思い、何を語ってくれるか?

 

天皇陛下が皇室典範改正で、堂々と退位できるか否か、

いよいよ正念場が近づいている。

自民党は5月に法案を出すと言ってたから、3月、4月で

決まってしまうだろう。6月にはもう終わっている。

この状況では、毎月、「ゴー宣道場」を開催せざるを得ない。

しかも今回は、応募締め切りが31日(水曜)と迫っている。

何が起こるか分からない、予断を許さぬ時期だ。
ゲストもまだ増えるかもしれない。

ぜひ参加しよう!




当日、道場の入場料は、お一人様1000円です。


参加ご希望の方は、このweb上の申し込みフォームから申し込み可能です
絵文字:重要絵文字:パソコン

上 ↑ のメニュー「道場参加申し込み」もしくは下 ↓ の申し込みフォームバナー(画像)
クリックして、申し込みページにお進み下さい絵文字:よろしくお願いします
入力必須項目にご記入の上、お申し込み下さい絵文字:重要絵文字:メール


申し込みフォーム


お申し込み後、記入されたメールアドレス宛に「申し込み確認メール」が届きますので、
ご記入内容に間違いがないか、よくご確認下さい。

※「申し込み確認メール」が届かない方は、以下のような原因が考えられます。

・迷惑メール対策サービスを利用していて、「ゴー宣道場」からのメールが迷惑メールと判定されている
・着信拒否サービスを利用していて、「ゴー宣道場」からのメールが着信拒否の対象となっている
・ドメイン指定受信を利用していて、「gosen-dojo.com」のドメインが指定されていない
・セキュリティソフトやメールソフトで迷惑メール対策をしていて、 「ゴー宣道場」からのメールが迷惑メールと判定されている

reply@gosen-dojo.com」からのメールを受信できるよう再設定をお願い致します。

「申し込み確認メール」が届かない場合、当選メールも届かない可能性がありますので、
ご注意ください絵文字:重要



申し込み〆切後、当選された方にのみ「当選メール」を送らせて頂きます。

当選された方は、道場当日、
その「当選メール」をプリントアウトの上、会場までご持参下さい。
プリントアウトができない方は、当選メールの受信が確認できるもの
(携帯電話、タブレット等)をお持ちの上、ご来場ください。




 道場参加申し込みフォーム



応募〆切 は 平成29年3/1(水) です。

当選通知の送付は、応募〆切後になりますので、しばらくお待ち下さい絵文字:よろしくお願いします



皆様からの多数のご応募、お待ちしております絵文字:重要絵文字:晴れ





10:00
2017/02/24

権力の弛緩と僕らの自由について(2)自由の”共食い”を生む共謀罪(続き)

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【テロ等準備と共謀罪は違う?:2本の柱】

1つの論点として、過去3回廃案になった共謀罪と今回のテロ等準備罪の違いとして、「構成要件を厳格化した」点が挙がることがある。果たして、本当に「厳格化」することによって、見違える法案となっているのだろうか。

ちなみに、この中身を検討せずに、政府が言うままに「共謀罪の構成要件を厳格化したテロ等準備罪」と無批判に垂れ流しているマスコミがあるが、これは本当か。ついでにマスコミの自己検証能力も吟味できる。

 

●「組織的犯罪集団」:主体の問題

 まず、一つ目の柱が、テロ等準備罪の行為主体の問題である。つまり、どのような人が対象になるのか、という問題である。過去の共謀罪からの議論で単純に整理すれば、主体となるのは、暴力団やテロ組織のように、“そもそも”その団体の結合の目的が犯罪実行にある集団なのか、それとも、もともと正当な活動を行っていた団体(一般人)でも、犯罪実行をする団体に変化したと判断された場合も主体たりうるのか、という問題である。

後者であれば、一般人であっても、犯罪実行集団に「一変」したと判断された場合は逮捕・処罰の対象になるということである。

菅官房長官は、これにつき「一般人は対象にならない」という翻訳で説明していた。

 これに対して、法務省から統一見解として提出された、平成29年2月16日付「2月9日山尾志桜里君要求に係る理事会協議事項について」と題する書面(以下「本件書面」という。)にいう、テロ等準備罪における「組織的犯罪集団」の定義は、もともと正当な活動を行っていた団体であっても、犯罪を目的とした団体に「一変した」と認められれば組織的犯罪集団に該当するとしている。これは、過去の共謀罪における「団体が形成された当初の目的のみをいうものではなく、当該共謀が行われた時点における個別具体的な団体の活動実態に照らして判断されることになります」【平成171014日 衆)法務委 大林政府参考人】との説明とまったく同趣旨の定義であり、過去廃案となった共謀罪と、今回のテロ等準備罪は、要件の中核たるその犯罪主体の定義において、なんら変わるところがなく、要件を厳格化したとの説明も失当であるということになる。

共謀罪とテロ等準備罪の要件設定が同じであるということは「全くの誤り」【平成29年2月9日 衆】予算委 安倍内閣総理大臣】とした総理の説明自体が、「全くの誤り」である。

そしてまた、上記のとおり、共謀罪とテロ等準備罪における要件は同趣旨であるから、一般人であっても、犯罪実行集団に「一変」すれば本罪の対象になりうる。

本罪に該当しなければ「一般人」と言えるとしても、「一変」性が犯罪の対象か否かの分水嶺だとすれば、全国民が潜在的に「一変性」を有するわけで、もともと本罪に該当することがない「一般人」など想定しえない。

したがって、「一般人は対象にならない」との菅官房長官の説明は虚偽である。

以上のとおり、組織的犯罪集団の要件は厳格化されておらず、過去の共謀罪と同趣旨であるから、一本目の柱が倒れた。

●準備行為:行為の問題

政府が、テロ等準備罪を共謀罪ではない、ということの核心は、この準備行為性にある。

つまり、共謀罪とは、共謀及び合意をもって犯罪が成立し処罰するものであるところ、テロ等準備罪においては、さらに「準備行為」がなされなければ、処罰条件を満たさない、というのだ。つまり、さきにみた立法事実の事例2におけるハイジャックテロを例に考えれば、その話し合いだけでは処罰はされず、具体的に飛行機のチケットを予約しなければ処罰されないという。しかし、チケットの予約行為自体を取り上げると行為の危険性がないため、現行法では処罰できない、ということであった(この点は先に現行法でも対処できることは論じた)。「非行為(合意=内心)」で処罰するのが共謀罪、「行為」で処罰するのがテロ等準備罪、というわけだ。「行為」という発現形態をもって犯罪のメルクマールとすることは、より明確性をもつ。

しかし、いやしくも政府の説明にあるとおり、その行為自体は具体的危険性をもたない。飛行機のチケットを購入している人を処罰できるかどうか、当該行為が危険かどうかは、その人の内心に立ち入らなければわからない。さらにいえば、犯罪の準備のための「共謀」があるという前提があるからこそ、その行為を処罰できるのである。

今回、政府は明示していないが、犯罪成立及び、自由保障機能のメルクマールたる構成要件は、あくまで「合意・共謀」であり、これをもとに犯罪捜査が行われるとすれば、本罪の本質は、人々の共謀や合意を取り締まることにある。また、後述のとおり、これを包括的に認めれば、我々の社会は変容する。

したがって、「準備行為」を要求することにより構成要件を厳格化したということも言えない。

二本目の柱も維持しえない。

 

以上書いてきた通り、「共謀罪の構成要件を厳格化したテロ等準備罪」とは到底断言できない状態であることは明らかである。少なくとも、断言はできないはずだ。

にもかかわらず、メディアでは、いまだに「構成要件を厳格化した」などと断定的に冠して報道しているところが少なくない。どれだけ論理や言葉に不誠実なのか。論理や事実しか依るものがないはずであるのに、その点の誠実性を放棄することはメディアの自殺であり、表現の公共的使用を認められた主体として不適格である。

2月23日付けの読売新聞の社説でも、本罪について「不安煽る言説は慎みたい」などと、正しい分析や論理的言説を放棄して、その議論姿勢をまるで“大人”としてたしなめるかのような記事を書いているが、その内容は、まるで本罪の議論をつきつめたものではなく、あきれるばかりである。教育に悪いので、知的誠実性の放棄を慎んでもらいたい。

一方で、「平成の治安維持法」などというほぼレッテル張りとしてしか意味をもたない粗雑なキャッチフレーズ(や、これに準ずる、「飲み屋で上司を殴りに行こうと言ったら共謀罪」というような議論)も厳に慎んでもらいたい。(具体的には後述するが、今回の法案は、2006年のときよりもさらに情報化された2017年の社会にこそ自由への危険性が新たな形で立ち現れるのである。その意味で治安維持法とはむしろ文脈が異なる。)まさにこれこそが自由についての本質的議論を阻害する有害な言説である。安保のときの「戦争法案反対」と同じで、標語を叫ぶことで一部には訴求するかもしれないが、私が議論したい、もっと胆力のいる自由についての議論は、この標語に覆いかぶされ、ついには放逐されてしまう。

この両者どちらも、本質的には自由について真剣に議論する知的態度が欠如している。


【正しき看板をかけ、民主的正統性を獲得すべき】

今回、包括的な共謀罪の創設にあたっては、私は自由をめぐる長調と短調の主題があると考えている。それは、
1.テロの恐怖からの自由(“安全・安心”)
2.国家からの自由(個人の自由)

である。

そして、既述のとおり、今回提出されるテロ等準備罪について、今回の法案の立法事実があるのかないのか(三つの穴)と、過去三回廃案になった法案から厳格化されたのか(=過去の共謀罪と違うのか)(2本の柱)、という二つの論点がある。

 なぜこれらをここまで細かく確認するかというと、自由を論じる前提として、一体この法案が何をどこまで制限しようとしているか、議論の対象を明らかにしなければならないからである。そして、できれば各個人がどう考えるかの材料を提供したい。

 法案の「看板」ではなく「中身」がどうかを正しく提示し、正しく認識・議論することがもっとも大事である。

 以前、高級料亭において国内産の高級食材と謳っていた食材が実は輸入物の価値にしてかなり低いものを使用していた、といった食品偽装事件が多発した時期があった。舌を肥やせ、という審美眼的見地からの批判もあろうが、そもそも、“偽装”したことによって、消費者の正しい判断の前提を確保できないところに問題がある。

 国会は、多元的な価値や利益の対立と妥協(バーゲニング)というテストをくぐりぬけることによって、その帰結に正統性が付与されうる。

聞こえのよい偽の看板で偽装しては、そのバーゲニング・テストを不当にスルーしてしまう可能性があるのだ(purarismの観点から経済的自由における規制目的二分論を説明した長谷部恭男教授の分析参照)。過去の共謀罪と同じなのか、違うのか、同じだとしても受け入れるべきなのか、これらを正しく議論するためにも、正しい看板をかけて、国会というバーゲニングテストに臨む姿勢が強く求められる。そうでなければ、国会及び国民を欺いているのと同義である。

 

 ここまでの議論を裏から、というか人々の意識から分類すると、

a.今回要件が厳格になっていたとしてもテロ等準備罪はいらない

b.厳格になっているならば必要である
c
.これまでの共謀罪と同じ(厳格になっていない)であれば必要ない

d.これまでの共謀罪と同じであっても必要である。

というグラデーションが存在する。

aが上の「1.国家からの自由」へのインセンティブが一番高く、dは「2.安全・安心の価値」により強く親和的な人々の考えであろうか。

これを読んでいる方は、自分はどの考えにより親和的だろうか。

 

【テロとの戦いも国際社会への貢献ももちろん大事:共謀罪を論じる困難さ】

共謀罪について、議論が難しいのは、共謀罪を創設することが、まったく新しい概念を創設するのではない点である。すでに個別の法律に「共謀罪」は存在する(特定秘密保護法など13の法律に規定されている)ので、集団的自衛権や、退位の問題(歴史的にどうかは措いておいて現行法として)のように、まったくなかったものを創設する、というのとは、わけが違う。つまり、0か100か、という論理の問題ではなく、程度問題であると考えられやすい。なんの程度問題か。我々の社会がどこまで自由を認めていくのか、という極めてセンシティブな程度問題である。
 そして何より、「安全・安心」「テロの抑止・防止」という看板は、現代を生きる人々の肌感覚に危機感とそれへの救済として直接に訴えかけるため、自由の価値との相克関係を吟味し、どこに自由と安全の一線を引くのかという緻密な議論ができない。
 テロの脅威に対しては、絶対に屈することなく、断固として戦わなければならない(テロを生んだ背景ばかりを論じて、現実の対応に言及しない言説などは、違和感を感じる。どんな大儀や背景があろうと、同じ状況でテロをしないという選択をする人間がいるのに、テロをすることは許されない。それは、この社会から共生への意志を奪い、まさに「万人の万人に対する社会」に巻き戻してしまう。)。また、国際的な価値秩序にコミットすることは、責任ある主権国家としてあたりまえのことだ。
 しかし、今回の包括的共謀罪によって、我々が意識的・無意識的に獲得し、その一線を守ってきた自由のラインを後退させるという自覚が果たして我が国の国民にはあるのだろうか。
先に見た「より制限的でない他の手段」があるなら、そちらを選択すべきだ、という価値観は、自由の制限は緻密かつ慎重になされるべきで、なるべく自由が制限されないことが望ましい、という、大きく言えば、我々一人一人が真に自由を最も尊い価値であるとの認識を共有しているか、が問われている。自由について敏感でない、価値をおかない社会では、自由は「安全・安心」にすぐに飲み込まれてしまう。

【2017年現在の社会における共謀罪は、2006年の共謀罪よりも自由と緊張関係がある】

そしてここからはさらなるイマジネーションが要求される。すなわち、本罪が成立したあとのこの社会の変容である。

法は、実体が変わればそれを履践・担保するための手続も変わる。

共謀罪は、その犯罪の核心を「共謀=合意」におくため、捜査機関は、“共謀していること”を探知し、摘発しなければならない。テロのためには、共謀段階で検挙することが、この法のねらいだからだ。

想像してみてほしい。人々の私生活における話し合いや合意、これは通常、非常にプライベートな空間でなされるはずである。これらを可視化し把握・探知するためには、我々の私生活に捜査機関=国家権力の目や耳が網の目のように潜在化して配置されなければならない。すなわち、監視の強化と、会話・通信等の傍受の拡大である。

事実、2月23日の衆議院予算委員会第三分科会において、金田法相は、「メーリングリスト」や「LINEグループ」による合意でも共謀罪における合意を形成する可能性は「否定しない」とした。これらをどのように把握するのか。人々のメールやLINEグループを常時監視できるシステムを構築しなければ不可能である。

2017年の現代社会は、高度に情報及びサイバー空間に依存する社会である。このような社会は、個人の意思を越えて、まったく無意識的に人間同士のつながりをほぼ自動的に拡大・構築したがゆえに、利便性と引き換えに、包括的な監視や情報把握及び干渉に対して非常に脆弱な社会になった。真偽はいまだわからないとしても、ロシアのサイバー攻撃によるアメリカ大統領選の結果への影響の有無を例にとれば、これは自国の民主主義が、サイバー空間によって破壊され、主権への他律の混入の途が開かれてしまっている好例(悪例?)だ。

根本的な社会制度設計についてのコンセンサスや、人々の自由観より先に、実態が変化してきてしまった。

昨今、最高裁も含めて「忘れられる権利」についての議論がなされているが、サイバー空間は、一度立ち入ってしまえば、入り口はあっても、出口はない。ドアを閉めた瞬間に、もうサイバー空間からは退出できない。忘れられる権利は、ここに出口を設けさせてくれ、という、サイバー空間への入退場の自由についての議論である。

プライバシー権は、古典的には自己情報コントロール権として論じられてきたが、もはや現代社会のサイバー空間では、コントロール不可能である。

出口無きサイバー空間に監視者の目や耳が入れば、“白”か“黒”か関係なく、まさに「一網打尽(安倍総理大臣【平成29年1月26日:衆院予算委】)」である。

LINEグループに参加したが、そのまま放置していることもあるだろう、メーリングリストもそうだ。それらが一網打尽にされてしまうのであれば、実は、今回のテロ等準備罪は、過去の共謀罪よりも、さらに自由制約的な法律である、ということである。構成要件の厳格化どころではない。

これは、社会がそのように変化してきていることと呼応しあうものであり、その意味で、過去の議論よりも、さらに「2017年現在」における本罪と自由の関係をきめ細やかに論じなくてはいけない。

そして、傍受が、社会生活への不可視の網の目だとすれば、もし、傍受の拡大を認めないとすると、その網の目は可視化せざるを得ない。具体的には、LINEグループに入っている人をすべて参考人として呼んで白黒の判断をして、白ければ釈放する。つまり、文字通り広く“関係者”に網をかけ、その後に白黒を判断する。これは、そもそも身体拘束のハードルが著しく下がってしまうと同時に、冤罪を生む。

監視の拡大か、冤罪か。どちらを選ぶか?どちらも選びえない選択肢ではないのか。ではなぜこうなるのか、包括的共謀罪自体に、このような自由への挑戦が内在しているからである。

フーコーのパノプティコンをひくまでもなく、監視されているということだけ認識させられ、その監視主体が不可視の状態、つんまり、どこで誰が監視しているかわからないけども、確実に監視はされているという状態を作るだけで、監視体制の構築は完成である。あとは、監視されている客体が、監視を勝手に過大評価し、自ら自由を減縮していく。萎縮の構造である。萎縮の病理に感染した自由は自壊するのみだ。後述のとおり、監視によって萎縮した自由は、お互いの自由の外延を懐疑で接着し、共生社会自体を破壊する。

包括的共謀罪から逆算して設計される社会の核心的な装置には、自由を自壊させるメカニズムが内包されている。

 

【「共謀罪」の議論で我々は何を承認しようとしているのか】
 誤解なきように釘を刺すが、過去の共謀罪と同じ、という論証に成功すれば、即本罪は必要ない、などと論じているのではない。

真に、「安全」「安心」「テロの根絶」のためなら「監視か冤罪か」という社会への変容可能性を理解し、自らの自由のラインは後退してもよい、との前提を共有して、包括的共謀罪を承認するなら、我々はそのような社会を選んだのだ、というだけのことである。我々が我々の自由観として、そのような社会を採択すればよい。


 しかし、果たしてそこまで真剣に自由の価値を考えているか。

また、政府(メディア)は、正しき議論の材料を誠実に提供しているか。
 

威勢よく「テロ対策」や「グローバルスタンダード」と叫ぶのも、表現の自由が保障されているからだということを明確に認識しているのか。そのような発言が今回の共謀罪の関係で取り締まられるなどという話をしているのではない、自由の制限を主張する者が享受する自由と、制限対象としての自由は、異質のものではなく、むしろ同じ自由なのである。

民主主義が、多数の専制に堕しないのは、その熟議の過程で、なされた決定がもし自分とまったく反対の価値や利益であってもその決定を受け入れることができるというテストをクリアするからである。およそ自分が逆の立場になったとしたら受容できない決定を強行することは、民主主義や、その産物である法自体の正義要求を満たさない。

さらに進めれば、受容できない決定の敗者は、この決定に服する納得感を得れない。そうなれば、共同体の維持も困難になり、ひいては、リベラルデモクラシーがその眼目とする「共生」のプロジェクトも、瓦解する。
自己が行使する自由と、それによって制限される自由を完全に切り離し、自己の行使する自由を優先させるような言説は、典型的なご都合主義的なダブルスタンダードである。
 そこには、常に自身の自由も制限の対象になりうるのだ、という節度と緊張感がまったく欠如している。これは、裏を返せば、他者の自由の軽視である。他者の自由の軽視は、リベラルデモクラシーの基礎を掘り崩す。

この社会の自由に、制限されるべき”二級”の自由は存在しない。

包括的共謀罪の創設は、我々個人に保障されている自由のintegrityを破壊、分断し、制限されても良い自由と、そうでない自由を創設してしまう。ウイルスとされてしまう自由と、そのワクチンとしての自由を観念し、それぞれが共食いしあうことになり、最後は、自由そのものが死滅する。

我々が享受する自由には死守すべき自明のラインは存在しない。我々が決めたラインが我々の自由のラインである。監視と不信に満ちた社会が実際にくるのか本当にこれでいいのか?我々の社会における自由のラインをここに引いていいのか?

概念的で難しいといって放棄してはならない。1+1=2を理解するのに、実際の物体を二個並べて理解するのと同時に、「1+1=2」という概念を理解しなければ、一億+一億は理解できなかったはずだ。それと同じである。

いったい我々が自由をどのように考え、リベラルデモクラシーをどのように考え、そして、どのような社会形成を採択するのか、包括的共謀罪の是非への態度決定は、我らが市民社会と僕らの自由の価値にあなたがどのようにコミットするのかという態度決定と同義である。

自由という言葉自体の弱体化は否めない。しかし、私たち一人一人が、我らの個人の自由とリベラルデモクラシーという価値に対してどれだけコミットしていくかを示すチャンスである。ここは、一方で“テロ対策”を掲げて「不安を煽る言説は慎みたい」や、他方で「平成の治安維持法」などというような両端において極めて“雑”な議論に乗っかることなく、僕らの自由の中身を自分たちで再考し再定位しようではないか。

 

 


12:18
2017/02/24

権力の弛緩と僕らの自由について(2)自由の”共食い”を生む共謀罪

Tweet ThisSend to Facebook | by 倉持

【夢、情熱】
得体のしれないウイルスから人々を守るために、効く効くといわれているワクチンが発明された。
ただし、このワクチンには強い副作用がある。正常な細胞までむしばんでしまうのだ。
人々は、ウイルスにおそれるあまり、このワクチンを過剰摂取した。
その結果、人々の体内の正常な細胞まで、すべて死滅してしまった。


【共謀罪狂想曲】
国会では、共謀罪をめぐって、金田法務大臣が、その答弁内容も答弁姿勢もフラフラノックアウト寸前で、挙句、「もうこれ以上攻撃しないで」というペーパーを出し、内閣の国会に対する責任を放棄し議院内閣制を侵犯、メディアの報道の自由に対しても無自覚的に圧力をかける、という異常空間であった。いまだに、金田大臣の答弁は、答弁と呼ぶのもはばかられる、極最低劣悪劣弱不誠実怠惰答弁であり、もはや法案提出責任者としてまったくふさわしくないことは、誰の目から見ても明らかである。

彼をこの任務においておくことは、野球の9人のポジションの1つに猿の人形を置いておくようなものである。つまり、冒涜である。

最大の逃げ口上は「成案を得てから答弁いたします。」であったが、ついに、テロ等準備罪の法案が、3月7日閣議決定、3月10日に提出されるということだ。これも、3月11日という東日本大震災のあの日の前後、メディアが震災について集中的に報道し、特集含めまったく枠のないところにぶつけてくるあたり、やはり情報戦略としてしたたかな政権だ。

【議論の単純化】
共謀罪の議論は簡単で、そもそも、行為がなくとも共謀(合意)するだけで逮捕という重大な身体拘束がありうるのであるから、人身の自由(憲法31条)や思想良心の自由(19条)が制限されている。
これら尊い権利についての重大な権利制限なのであるから、権利制限をする側たる政府は、当該制限の適法性・合憲性を立証しなくてはならない。あくまでも、立証責任は、政府にある。
そこで、司法試験受験生よろしく論証すれば、ここで持ち出されるのがこの制限が憲法上許されるかどうかを判断する違憲審査基準である。具体的には、制限の目的と手段を精査する。
今回の場合は、人の内心と身体という極めて重要な権利に対する強力な制約であるから、政府は目的の必要不可欠性と、手段の必要最小限度性を立証せねばならない。
さらに一歩踏み込むと、この手段が必要最小限度かどうかというのが大事で、ここを厳格に審査する手法をLRA審査という。LRAとは"less restrictive alternative"の略で、「より制限的でない他の手段」があるかどうかをテストすることにより、当該制約手段が必要「最小限」かを判断するという、厳格な審査手法である。

 
共謀罪では、下記のとおり、共謀罪という「行為」以前の合意を取り締まらなくても、未遂罪や予備罪という、行為自体が危険性を有する場合に取り締まるという、共謀の手前の罪、すなわち「より権利制限的でない」ほかの手段が存在する。
はからずも、それが、今国会で明確に反証された。すなわち、政府は、この法案による権利制約についての立証責任を果たせなかったことになる。
したがって、法律や論理(や答案用紙)の世界では、包括的な共謀罪の制定は、憲法上も認められず、お引き取り願うことになる。これでおしまい。
(そもそも、「組織的犯罪集団」等の概念が、漠然不明確である等の観点から、文面審査で違憲性が認められアウト、ということもありうる。)
のはずが、そうはいかないのが、政治の世界である。
今見た目的や手段について、もう少し詳しく立ち入ってみよう。

【立法事実:法案の必要性:三つの穴】
今回、政府が国会に提出した法案は、「テロ等準備罪」という名前であるが、内実は過去三回廃案になった共謀罪とその内容において変わらない(どう変わらないか、については後述)。
101回告白するとドラマになるくらいなので、3回フラれたのに告白する男をしつこい!と思うか執念深い!と思うか武田鉄矢!と思うかは無制限の個人の思想良心にゆだねるとしても、そもそも今回の法案は、過去の共謀罪と同趣旨のものを出してきたのだろうか?
総理によれば、前回廃案になっていた共謀罪と今回のテロ等準備罪が同じというのは「全くの誤り」だそうだ。
では、今回の法律を制定する必要性はどこにあるのだろうか。

その法律を制定する必要性を「立法事実」という。
今回、法務省は、本法案の立法事実として、3つの事例を出してきた。つまり、既存の法体系では、処罰できない3つの事例だ。共謀罪を創設しないと処罰できないという。これがまさにテロ等準備罪制定の必要性の要、これが倒れれば本罪制定の必要性なし。
その事例が以下である。

 

(立法事実1)テロ組織が殺傷能力の高い化学薬品を製造し、これを用いて同時多発的に一般市民の大量殺人を行うことを計画した上、例えば、殺傷能力の高い化学薬品の原料の一部を入手した場合

 これは、規律しうる現行法を探すと、「サリン等による人身被害の防止に関する法律」が存在する。その第2条で処罰対象の物質については「政令で定める」としている。

 

 つまり仮に現在規制されていない危険な化学薬品でも、新たに危険な物質が登場すれば行政府が「政令」で加えれば足りる。また「原料の一部を入手した場合」についても、当該法律の原料の一部の猛毒性の要件を緩和することや、条文の文言に、原料の一部入手の場合も書き加えればよい。

 

 では現行法でも対処できない危険な薬品はどれだけ存在するのだろうか。

 2月3日の衆院予算委で民進党の山尾志桜里議員が「(現行法上規定されている)サリン等にあたらないけど殺傷能力の高い薬品の名前を挙げてほしい」と質問したところ、金田勝年法相は「具体的な薬品を想定していない」と答弁した。


 さらに安倍首相はこう答えた。

 「テロ組織あるいは国家ぐるみで、化学兵器になる毒性物質をひそかに開発しているのは当然のことであろう。(中略)未知のものであっても準備を行っていることが明らかになれば検挙できる」

「未知の薬品もある」。だから共謀罪が必要だ。こんな論理はまかり通るだろうか。罪と刑を事前に法定しなければならならい「罪刑法定主義」(憲法31条)に反する疑いすらある。つまり、犯罪構成要件を明確にすることで、裏から「どこまでなら自由か」の枠を規律している刑事法の機能を果たせないということである。

政府が例示した一つ目の事案は「政令」で危険物質をその都度加えたり、既存法の条文の文言の細部を改正すれば足り、包括的な共謀罪よりも「より制限的でない」手段が存在することになる。

 

(立法事実2)テロ組織が複数の飛行機を乗っ取って高層ビルに突撃させるテロを計画した上、例えば、搭乗予定の航空機の航空券を予約し

た場合

 

 これは一つ目の事例以上にひどい。過去の参院法務委員会で「航空機強取等処罰法」(通称・ハイジャック防止法)について同様の事例が挙げられ当時の法務省刑事局長はこう答弁している。

 

 「航空券を買ったという場合にも、ハイジャックをやるというその目的でその当該の航空券を買ったというような場合が第3条の予備に当たるわけでございます」

 つまり現行法のハイジャック防止法でも、航空券購入段階を予備罪で処罰できると過去に政府が法解釈しているにもかかわらず、無理くり「対応できない事例」として今さら例示したわけだ。立法事実1とあわせて、オウム事件や9・11を想起させるような典型的なテロ事例を「検挙できない」などと政府答弁することの方がよっぽど危険だ。

 

(立法事実3)テロ組織の複数のクラッカーが分担してウイルス・プログラムを開発し、そのウイルスを用いて全国各地の電力会社、ガス会社、水道会社等の電子制御システムを一斉に誤作動させ、大都市の重要インフラを麻痺させてパニックに陥らせることを計画した上、例えば、それらのクラッカーがコンピューターウイルスの開発を始めた場合

 

 これは2011年に成立した刑法改正で盛り込まれた「不正指令電磁的記録に関する罪」(168条の2、168条の3)が問題となる。

 

 ただこの犯罪は現行法上未遂が処罰されない。法案を検討する際に、あまりに広範な処罰の恐れがあると指摘されあえて未遂を処罰しないという政策判断があったようだ。だが、もし事例に挙げているようなサイバーテロの恐れがあり、既遂以前の段階を処罰する必要性があるなら、個別に、既遂以前の未遂や準備・予備、さらには未遂よりも前段階であるの共謀・陰謀を処罰対象にすれば足りる。

 

 このようにしてみるといずれも「より制限的でない手段」は明らかに存在する。したがって、目的達成のための手段としては、必要不可欠とはいえず、また、政府が、本法案の立法事実=必要性として挙げた3つの事例=穴は、より制限的でない手段によって埋まることが明らかとなり、立法事実も存在しない。したがって、包括的共謀罪を創設する正当性は崩れた。

 

【デジャビュ】

 このような光景は、デジャビュではないか。そう、2015年の安保法制である。政府は、現行の個別的自衛権では対応できない事例として、ホルムズ海峡の機雷掃海事例、米艦防護(お母さんが赤ちゃんを抱いたあのフリップのやつだ)を立法事実に掲げた。このとき、政府は、集団的自衛権行使を解禁したいがゆえに、個別的自衛権を極端に矮小化した。「個別的自衛権なんて何にもできない、だから集団的自衛権が必要です」と。これによって、発艦準備中の戦闘機への給油に対する自衛権行使など、従前、個別的自衛権でカバーできていたケース等まで、できないという答弁に変えてしまった。

このときも、無理に「集団的自衛権を必要とする状況」を作り出すためにひねり出されたのが、ホルムズ事例と米艦防護事例である。そして、政府は、法案成立の直前、参院審議の最終盤に、これらの事例については、「想定していない」と、立法事実がないことを認めた。

今回も、この立法事実たる3事例は、サンドバックか撒き餌のようなもので、最後は「想定していない」となるのであろうか。そうであれば、もはや必要性がないにもかかわらず、立法がなされることになり、まさに立法権の担い手である国会と内閣は液状化的に同化しチェック&バランスももちろん機能不全となる。立法権の濫用であり、権力の濫用である。

(つづく)
12:17
2017/02/15

ピアニッシモを極めればフォルテはいらない

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チェリビダッケというルーマニア人の指揮者(1912年生/1996年没)がいた。晩年、禅を愛し、仏教徒になった。
白髪オールバックに鷹のような目つき。希代の大指揮者カラヤンについて聞かれたときの彼の言葉が残っている「(カラヤンは)ひどいなんてもんじゃない。彼は商売人として優秀か、でなければ耳がないかのどちらかだ
スーパースターの指揮者に対して「耳がない」など、宣戦布告を越えて、一発着弾している。
彼は、数々の暴言を残しながらも、伝説的な指揮者として記憶されている。音楽への弁証法的なアプローチもさることながら、テンポの設定が特徴的だった。俗っぽい表現を使えば「遅い」。とまりそうに「遅い」。そんな彼が大切にしていたのが、微弱音だ。
彼は言う
「真にピアニッシモ(最弱音)が実現されれば、フォルテなどいらない」

私の怖い怖いピアノの師匠が、嬉々として大音量でラフマニノフやリストを弾く私に、顔をしかめながら、諭すように教えてくれたものでだった。「フォルテ(強音)はどんなに強く弾いても、威嚇はできても人の心は開かない。でも、ピアノ(弱音)は人の心を開く。弱音を極めなさい。」
”静かな”音楽は、小さい音とイコールではない。その音楽のもつ豊かさにおいて、ライブハウスの爆音よりも訴求力をもつ。ただの弱音は喧騒に消え入るが、豊かな静けさは、絶対に埋没しない。聴き手が耳を傾けるからだ。

演奏はコミュニケーションである。その奏でる音自体が、「音の姿勢」が、聴衆の心の傾きを生む。

なんの話をしているのか。
昨日(2月14日)の高森氏のブログで語られた、退位問題について、ひいてはある問題を伝えるときの姿勢について、私は感銘を受けた。

・まずは問題や本質を「正しく理解」すること。
・「普通の礼儀」をわきまえること
・「陛下のお役に立とうとする国民に相応しい丁寧な態度で」「真剣に」熱意を伝えること
「静かに」「懇切に」語ること
・回答が意に沿わなくても「激昂したりしない」こと

これは、「個人」として「共生」のために「対話」するときのエッセンスがすべて詰まっている。高森氏が、長年研究されてきた末にたどり着いた学問的真理や、陛下への敬愛、これが目の前で破壊されようとしているときに、その対話の姿勢として、攻撃的になるのではなく、”強さ”や”圧力”や”大きさ”ではなく、「礼儀」「丁寧」「静かに」「懇切に」「激昂したりしないで」対話せよと言っている。

ここには、私の解釈による立憲主義が想定した”やせ我慢する個人”そのものが描かれている。自己が確信している問題だからこそ、これを声高に叫ぶのではなく、相手を攻撃し否定するのではなく、静かに懇切に伝える。
チェリビダッケの言葉や、私がかつてピアノの師匠に聞いた言葉との通奏低音が、ここにはある。
人は、相手のコンタクトにあわせて、コミュニケーションの姿勢を決める。攻撃的にコンタクトすれば、相手は防御として攻撃的になる。だからこそ、弱音は心を開くが、強音は威嚇しかしないのだ。
本当に伝えたいとき、静かに、しかし豊かさをもって、伝えようと再認識した。なぜなら、それが本当に自分にとって相手に伝えたいからだ。

高森先生、ありがとう

18:37
2017/02/13

チーム民進党

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昨日2月12日のゴー宣道場には、細野豪志議員と山尾志桜里議員がゲストとして参加した。野党では発信力・政策論議ともにトップクラスの二人だろう。
二人の議論を以下にまとめると
【実体的議論】
これは、見逃されがちだが、今回のお言葉を含めた退位問題の本質は、「恒久的な皇位継承ルールを創設すること」である。
これが叶えば、本来、それがどのような法規範によるかはまさに法技術的な問題となる。
ここに、憲法の要請により、国家の基幹的正当性を担保するため、「皇室典範によるべき」という命題が導かれ、結果的に、「皇室典範による恒久的な皇位継承ルールの創設」という最終命題が導出される。
退位のみは特例法でも、呼称は典範改正が必要であり、したがって、典範改正が実現する、などというのは与してはならない詭弁である。
これらの点は明確にされた。
また、細野議員の「人権」と「人格」の論点提示は、論理を越えた人間存在へのまなざしを我々に迫った。

【手続的議論】
手続論としては、山尾議員の発した「落としどころは探さない」という一点に尽きる。
”皇室典範改正による恒久的制度の創設”というゴールが見えている中、それ以外の「落としどころ」などない。
上記のような”まやかしの典範改正”によって民進党にも花道を作った、などという駆け引きによって得た果実は、毒リンゴでしかない。

交渉の常道としても、カードの広げ方と切り方は大事だ。
民進党は、「対案は出さない」「百歩譲って特例法だったとしても」などといって、自ら極めて不適切な時期及び方法でカードを切ってはいけない。
これも、二人にかかっている。細野議員の党内説得力に期待している。

【民進党の歩む道】
昨日の二人はとても熱気があった。しかし、国会の予算委員会等の議場傍聴でライブで体験するとわかるが、民進党にはまったく熱気や一体感がない。逆に与党は良くも悪くも、「一丸」となっている。地鳴りのようなヤジに、抗議のため息すら議員全員の息があっている。与党席だけでウェーブでも見たい
前に、巨人軍の選手が、甲子園での阪神ファンの応援が凄すぎて、気づいたら守っているときに相手の応援にあわせて足を踏み鳴らしていた、という巨人ファンとしては改宗を迫りたくなるエピソードを聞いたことがある。与党の一体感は甲子園のファンに通じるものがある。

これに対して、民進党の席は数の問題ではなく熱気がない。質問者を応援し、一丸となって与党と対峙する気迫をまったく感じない。
質問者は孤軍奮闘。
他の議院は知識もないからヤジもでない。せめて、その日の質問に関する知識が豊富な議員は席を陣取るべきだ。与党は知識と関係なくとめどないヤジであるが。
これは知性の問題ではない。知性だけでは勝てない。
個の力がなければ勝てないが、個の力だけでは勝てない。
このままでは、政権交代の緊張感がまったく存在せず、権力はさらに弛緩する。
細野・山尾両氏が個の力があるのは明らかだが、それだけでは勝てない。
全員が全員に対して関心をもち、新しい力や現在落選中の人々の復活を含め、どのような動きをすることがチームとしての力を向上させるのかを真剣に考えてほしい。
政策論議では、退位問題は、結束の一番地として最高ではないか。これよりも結束を高められるアジェンダはない。

是非妥協せず、自虐的になることなく、戦い抜いてほしい。


18:06
2017/02/10

皇室典範さえ変えればオッケーの愚

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私は一応中身も社会的にも男なので、私が女子トイレにズンズンと入っていけば、ぎょっとされるばかりか、物を投げつけられるかもしれない。では、女装して女子トイレに入ればいいではないか。物を投げつけられたら答える「え、女子ですけど。」

現在、退位問題において、報道等含めた有力案の一つが、皇室典範の中に「退位は法律の定めるところによる」という特例法への委任条項を規定(つまり皇室典範を改正)して、退位については特例法で定めるというものである。これなら皇室典範を改正しているから憲法2条による皇位継承は「皇室典範の定めるところにより」という条件もクリアする。そして、皇室典範の改正による恒久的な制度の創設(女性宮家等についても言及)は今後行うことを附則に定めるか、何らかの文書で残す案も出ているそうだ。
しかし、皇室典範を変えさえすれば憲法2条の要請を満たすかといえば、そんなわけがない。結局は特例法に投げているのであれば、いくら皇室典範を改正していても、その趣旨において憲法2条の潜脱である。「皇位」の「継承」について、実質的にも皇室典範で定める必要がある。
形式だけ、外見だけ整えればOKなわけがない。大事なのは中身、実質である。憲法2条が、皇位の継承は皇室典範によるべし、として趣旨が、形式だけ皇室典範をいじるという形を認めているわけがない。皇位継承についての普遍的な制度構築を皇室典範によったのだ。

また、退位の問題と女性宮家、女性・女系宮家の問題をトレードオフにしてはいけない。つまり、女性宮家等の問題が進展するなら今回の退位制度は特例法でもよい、とはならないであろう。約束違反や憲法違反を是正する制度が存在しないのだから、附則や合意は無意味。
勝負は、今である。

現在出ている案は、心も体も男なのに、女装しているから女子トイレ入ってオッケーと同じ理論である。女装してトイレに入ろうとしている輩を捕まえて、「こいつら男です!」と叫ぼうではないか。
これ、どこか常識に反してますか?

10:09
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