倉持麟太郎の“Rin”sanity
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2017/07/26new

明日7月27日朝7時から東京MX「モーニングクロス」出演します

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明日7月27日朝7時から、東京MXテレビのモーニングクロスに出演します。
またまた9条の話もします!

そんな9条について徹底的に議論するのが、次回8月6日のゴー宣道場!
井上先生のモノマネとかしたことないのにーあはは

17:38
2017/07/11

共謀罪第1号で逮捕されたくて?2017夏

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本日、共謀罪法(テロ等準備罪とも呼んでる輩がいる)が施行。
「テロ対策」という偽りの看板をかけ、委員会での審議における議会慣例の破壊や中間報告での採決等々、熟議の前提をことごとく毀損し成立した法律である。
あらゆる意味で、法律が可哀そうになるほど民主的正当性がない。

また、「自由を制約するときは、選びうる選択肢の中でなるべく自由を制約しない方法で制約するように!」という要請(LRA「より制限的でない他の選びうる手段」という)からしても、既遂→未遂→予備→共謀と右にいくほど順に自由制限的(つまり、犯罪の実現から遠いのに処罰されるから自由制限的)という体系をぶっ壊して、未遂がない犯罪に共謀罪を創設したりしているため、適用においても「違憲」との判断がありうるだろう。
きめ細やかな合憲性審査さえもスキップして法律を定立する様は、まさに立法権の濫用。

そして、何より、社会が変容する。人々の共謀を嫌疑として捕捉するためには、我々の私生活に国家の目や耳が入り込む。
「共謀罪で逮捕されるような人間が騒いでいる」などという批判をしている輩には愕然とする。自己の自由と他者の自由が切り離されており、自己の自由以外は制約を受けうる別次元の自由と考えている。
しかし、そんなことはありえない、自由は同一平面上に存在するのだ。自己の立場と他者の立場を完全に入れ替えても受け入れられるのか、それができないならそれはまさに自己にのみ自由の利益をご都合主義的に援用する「ダブルスタンダード」である。

日本社会は、目に見えないものに対する警戒心が極めて弱い、監視は?放射能は?
我々の「共生」を根底から揺るがす自由や生命の敵も、目に見えなければヘッジすることができない。
要するに想像力が足りない。思いやりがない。

政府は、共謀罪の審議で、「一般人は対象にならない」「テロの抑止になる」「捜査は前倒ししない」「嫌疑がなければ捜査はしない」「準備行為までが構成要件である」「監視社会にはならない」などと、「逆にほんとにそれでテロふせげんのか?!」と思うほど抑制的な実体と手続きをうそぶいた。
我々国民は、今後本当に共謀罪の運用が政府の言うようになされているか、まさに「監視」しなければならないのである。
もちろん政府のその抑制的な答弁は詭弁・強弁だ。しかし、そこをなし崩しに波泊めてしまっては、国会の価値を国民も軽んじることとなり、ひいては、さらに国会をハリボテ化してしまう。

しかし、テロ等準備罪という罪名は存在しないため、おそらく「●●罪の共謀罪」という形でさらっと警察発表されるから、マスコミも気づかないかもしれない。

ならばしょうがない、この夏の思い出に、共謀してみて、共謀罪第一号で逮捕されてみるか

19:30
2017/07/04

小池ファーストと倉持勉強会のお知らせ

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先日、我が街東京の都議選が行われ、小池自分ファースト、否、都民ファーストが圧勝、自民歴史的惨敗、民進勝ちとか負けとか以前、といった結果となった。

「●●ファースト」、「現状への不満の受け皿」「何よりも都民」という内向性、普遍主義よりもローカルナショナリズム、これ、トランプが出てきたときと同じですね。ローカルナショナリズムでいえば、イギリスのブレグジットもそうでした。
なんだ、今の民主主義の世界的潮流と合致しているではありませんか。
非常に直情的で、その場その場の無機質な決定装置と化したむき出しの民主主義。そのプロセスや、熟議の過程での普遍主義的な価値観へのコミットはどこへいった。多様な価値観を吸い上げて悩みに悩んで結論を下すからこそ、一人で決めるより正解に近づくのではなかったか。日本もむき出しの民主主義と真正面からお付き合いする時が来ました。これと対峙しながらも、熟議と対話の民主主義を育てなければなりません。
●●ファーストではなく、今こそ普遍主義的な価値観を語る政党でてこいや!
とにかく、常に権力や強者にはオルタナティブが存在することを健全とする価値観を醸成したいものです。

そんな四方山話や、安倍改憲、9条、ポスト安倍、(もちろん共謀罪や皇位継承問題も)についてまさに熟議する勉強会やります。知り合いの司教と対話しながら、本質に迫るぜ。

http://www.catholic-shinseikaikan.or.jp/news/506


09:19
2017/06/15

明日6月16日午前7時からモーニングクロス@東京MX!

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明日の朝7時から、東京MX(9チャンネル)のモーニングクロスに出演します!
安倍の欲望充足改憲の欺瞞について語るで!

11:53
2017/05/19

共謀罪から消えた「テロ対策」:日本の民主主義の退行現象

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商品表示と本当の中身が違うこと、タイトルと中身が違うこと、看板と店内の実態が違うこと、これは往々にしてある。
往々にしてあるからいいわけではない。私も昔某日本の南国で、夜に食事にありつけず、どうしても開いていたのがそこしかなく入った店の名が「スナックみさこ」であったにもかかわらず、入店したらゴリラみたいな屈強な中年男性が店主だったときは、度肝を抜かれた。

食品偽装や不当表示がなぜ問題なのか。それは、我々が意思決定のプロセスの前提となる事実が正しくないため、我々の意思決定自体にキズがついてしまうということである。

「正しい情報があればこの決定はしなかった」
こういうことになる。

共謀罪法案が衆院の委員会で可決された。来週半ばには参院での審議が開始されそうな日程である。
本来、法案が可決されるというのは、論理的な議論は熟し、論点も網羅され、それぞれ意見や価値観の違う立場の者同士の議論が尽くされたからこそ、その熟議の過程での様々な価値の激しい凌ぎあいの結果、一人で決めるよりは、よりよい解に近づくであろうという想定のもと、やむなく決断のツールとして、多数決を行うのである。この前提が崩れれば、民主主義はまったく無機質な多数決主義に堕する。
今回の共謀罪法案の核心は「テロ対策」であった。首相はテロの脅威を強調、共謀罪がなければオリンピックが開催できないといっても過言ではないとまで発言し、共謀罪に競技場の設計やロゴマークでも作らせるのかと思ったほどだ。
安倍首相自身、2月3日の予算委員会でこの法案の目的として「目的は二つでありまして、二つの目的については、まさに条約を批准するためですね、もう一つは、テロに対する、穴があればそれを埋めておく必要があります」と答弁している。つまり、法律制定の目的として、1.条約批准と2.テロ対策を掲げている。もう一度いうが、1.条約批准と、2.テロ対策を明確に分けて法律制定の目的としている。
つまり、当初は、条約の批准からあえてテロ対策をくくりだしているのだから、最近では条約=テロ対策というようなイメージになっているが、そうではないのだ。
そして、このテロ対策、現行法での穴として政府が出してきたのが、いわゆる「3事例」である。1.サリン事件事例、2.9.11ハイジャックテロ事例、3.サイバーテロ事例である。
これは、想像を容易にするためにいえば安保法制のときの「ホルムズ海峡事例」や「(赤ちゃんを抱いたお母さんの絵でおなじみの)米艦防護事例」と同じである。つまり、その法案の必要性を支える事実、レゾンデートル(raison d'etre:生命線)である。

しかし、本日5月19日の衆議院法務委員会で、金田大臣は、いわゆる3事例+αが立法事実かと問われ、「立法事実は条約の批准」とだけ明言した。すなわち、条約批准には本来テロ対策は含意されていなかったのだから、事実上、テロ対策を立法事実から外したのだ
法案の目的の根幹が当初想定していたものと変化した、否、そもそもその看板は偽りの看板であったということだである。国民の代表である国会の場では、当初掲げられた「テロ対策」という看板に基づいて、この法案の是非を議論してきた。共謀罪の法案がテロ対策として実効性があるかどうか、当然そこに焦点をあてて、論戦が繰り広げられてきた。
しかし、いざ店内に入ってみたら、まったく看板と書いてあることが違い、再度入り口を見てみたら看板が変わっていた。これと同じことである。

そうであれば話は簡単である。議論してきた前提が消失したのであるから、その消失した砂上に積み上げた決定のプロセスも消失し、決定自体が正当性を失うということだ。つまり、具体的には、審議を一からやり直すか、この法案を一度ないものとするしかない。なぜなら、もうこの法案がよすがにした正当性の基盤は、すでになくなっているからだ。何よりも、これがなくなっていることを政権自らが認めらのである。

それにもかかわらず、法案は可決された。

採決は多数派がすればどうやっても可決することから「強行」ではないという声がある。しかし、真の熟議民主主義における採決は、様々な価値のバーゲニングと妥協のプロセスを経て、議論を尽くしたという”付加価値”が付与されている。この付加価値があればこそ、多数決主義はそのむき出しの数の論理に民主主義という価値を纏える。そうしなければ、本来多数決とは真っ向衝突するはずの立憲主義(=個人、少数派のためには多数決をも覆す価値)と民主主義が両立しないのである。
さらに付言すれば、ここには「手続き」を大切にするという価値観がある。人種、信仰、姓、年齢等が異なったとしても、手続きだけは中立でありうる。アメリカでプロセスが重視されるようになったのも、人種や民族、信仰が違う中で、手続きの中立性しか、物事を裁定する基礎足りえなかったからである。手続きは無色だ。日本も本来は、「柔道」「剣道」はたまた「野球道」と、「道」=「プロセス」を大切にしてきた国民であったはずだ。私は剣道をやっていたが、試合に入るまでに様々な作法があり、いざ試合中も、いくら面や小手をとっても、声が出ていないと一本にはならなかったりする。徹底的なプロセス重視だ。むしろ、この「道」を踏むことを美徳とする文化があった。しかし、今や、そのような価値観は消えてしまった。
プロセスにどのような嘘偽りが混ざっていても、プロセスにおける作法を無視しても、結論から逆算して、当初予定していた結論に持ち込むことのみが最高の価値とされる。

法案審議のプロセスに瑕疵があったのなら、やり直すか、出た結論を否認するのが筋である。私はテロ対策はいらないなどとは言ってない、すぐにそのような反論をする輩がいるか、そんなこと最低限の理性を備えた人間なら考えるわけなかろう。もってまわった言い方をすれば、「バカか」と言いたい。
嘘の看板をかけ、挙句にその法案の必要性とされてきたテロ対策という立法事実まで消失してしまった。

なぜここまで卑怯で不誠実なのだろうか。
なぜわが国の知性をフル稼働させてこの法案をよりよいものとする発想がないのか。
それがこの国を「取り戻す」方法なのか。

熟議をするのは、どんな人間でも、一人では、皆で知恵を持ち寄って決めたこととまったく同じレベルの決定ができる保証はないからである。何より人は間違える。だからこそ、我々人類は、皆で決めるプロセスを妥当性のあるものとして獲得してきた。今まさにこのプロセスは、音をたてて崩壊している。これは我々にも責任がある。看板が違うことを見抜く目をもたねばいけない、不当表示であることを察知する舌がなければいけない。

まだ参議院の議論がある。衆議院でのやりとりの積み上げを踏まえ、我々は、不当表示や看板の掛け替えを見抜かねばならない。そして、我々が大事にしてきた「道」を取り戻したい。まさに、そのための道はまだまだ半ばだ。

21:19
2017/05/05

9条3項追加論は愚の極致

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去る5月3日の憲法記念日に、安倍首相が読売新聞の取材に応えて、憲法改正について、2020年をめどに、9条1項、2項は変えずに「自衛隊を明記」した9条3項を新設する改憲を目指すとの意見表明を行った。
今まで一貫して「行政府の庁」としては改憲については語らないとかたくなに答弁拒否をしてきた首相が、”行政府の長として”、しかも”憲法記念日に””9条という最も論争不可避的な条文の改正について”言及したことは、安倍首相本人の立場からしても、越権行為的でご都合主義(ダブルスタンダード)的であるものの、あまりに大きすぎる意味があるといえる。

しかし、これは、明らかにおかしい。

9条2項は、わが国の「交戦権」を認めていないため、自衛隊は国際法上も軍隊ではありえず、雑駁に言えば、軍事権を行使する主体、すなわち交戦の主体にはなりえない。
したがって、たとえば先般の南スーダンにおいても、そこは国際法上の「交戦」が支配する空間であるから、本来交戦主体足りえない自衛隊は活動不能である。なぜなら、政府軍かどうかもわからない人間が銃口を向けられた場合、正当防衛の建前であったとしても、自衛隊が銃の引き金をひけばそれは明確な「交戦」となりうる。これは自衛隊にはできない。これを(バカ)正直に表現したのが、稲田防衛大臣の、「紛争」というと9条に違反する可能性があるため、「衝突」と言っている、という驚愕の答弁である。
これは、「万引き」というと刑法に触れるので、「お借りしている」と言っている、というのと同じだ。言い方を変えれば違法なものが合法になる?!おそらく稲田防衛大臣は、少なくとも法律の勉強はしたことがないのであろう。

さて、このように自衛隊は、国際法上軍隊ではなく、国際貢献に海外の紛争地帯にいっても法的には「日の丸つけた山賊」状態で捕虜にもなれない。
もちろん、わが国防衛のための「交戦」も否認されている。
さらには、この「軍隊」であるのに9条のせいでそれを軍隊と認めないことで一番不合理なしわ寄せを食っているのが自衛隊員である。交戦できないからこそ、極めて限定的かつ非現実的な場面での武器使用を認められており、それも現場の自衛官の判断にかなり依存している。もし誤射でもすれば、ただの殺人扱いだってありうる。こんなものは、自分に向けて銃を持たされているようなものである。

わが国防衛、自衛隊員の安全・権利・名誉、そして国際貢献のために、このままでよいのか?せめて自衛隊を憲法に位置付けるべきではないのか?
ここからくるのが「自衛隊を明記すべき」という、現状追認改憲である。私は、国家最大の暴力たる軍事権の主体たる自衛隊の立憲的統制のため、立憲主義の観点からも当然9条に明記すべきであると考えている。当然、最低限9条2項の交戦権の否認を否定し、交戦主体たりうる自衛隊としての、自衛隊の9条への明記である。
そうでなければ、明記する法的意味がなくなる。

しかし、安倍首相のいう9条1、2項にふれない9条3項新設論では、交戦権は否定されたままの「交戦権のない自衛隊」をそのまま憲法に固定化していしまうだけだ。
2項改正をしなければ、なんの意味もない。

この意味がわかるだろうか?これは、わが国防衛も国際貢献も十全にすることもできず、しかし、すべての責任を現場の自衛官に負わせて国家=国民は一切これにつき責任を負えない(負わない)、という法的構図をそのまま憲法に焼き付けるということだ。
手足を縛られたままの自衛隊を憲法に「明記する」のである。
定員が足りない中で極めて過酷な状況で執務にあたっている自衛隊員のことを思えば、このような扱いが、防衛及び軍隊にとってどれだけ不誠実かおわかりだろう。私は怒りに震える。
わが国防衛や自衛隊を真に大切と思っている人間はもちろん、今回の改憲提案は、心の底から怒っているはずだ。これに怒らない人間は、保守ではない。

皆さんも、今回の改憲提案についての反応をリトマス試験紙として、真の保守を見極めたらよろしい。




18:48
2017/05/02

5月3日憲法記念日『モーニングクロス』@東京MX

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明日朝7時?8時30に、東京MX『モーニングクロス』に主演します。
憲法記念日なので、倉持的改憲論についてお話したいと思います。
是非ご覧ください!
22:57
2017/04/27

権力分立と道徳的中立性の黄昏(2)

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【国家権力の作法】

さて、国家権力同士の権力の分立・均衡を「横」の関係だとすれば、国家と個人の関係において、いわば「縦」のルールがある。それが、国家の個人の道徳観に対する中立性の要請である。国家は、ある特定の道徳観や思想にコミットし、奨励してはならない。典型的な例としては、日本国憲法20条にも定めのある政教分離である。なぜなら、国家が特定の価値観に「お墨付き」を与えれば、それ以外の価値観は“二級”となってしまうが、この社会に“二級”として劣後して扱われるべき道徳観や世界観など存在しないからである。「個人」であれば、どのような価値観を奉じていても独立対等に扱われる。これが立憲主義の目指した共生のプロジェクトだ。ここから、国家権力の活動する公的領域と我々個々人の私的領域を区分するという発想が生まれる。我々は、私的領域(個々人の「善き生き方」の決定)においては、他者加害にわたらない限りどのような道徳観に基づいて行動することも自由であり、故に、公的領域(「良き社会」の決定)における決定の場面では、国家は、特定の価値観を押し付けたりすることのないよう道徳的に中立であることを求められる。道徳的中立性の侵犯は、間接的に、我々個々人の私的領域への侵犯なのである。

個人の自律の核心は、「自己の生という物語の作者は自己でしかない」というところにあるが、国家がある特定の道徳観にコミットした決定をするということは、この物語を国家や政治権力に書かれてしまうのと同じことになってしまう。あくまで個々人の「善き生き方」は私的決定であり公共的な決定でありえない。国家が道徳的にある価値観にコミットするということは、善き生き方の決定を国家が代行するのに等しい。

【道徳的中立性を捨てた道徳的国家】

先日、文科省が、道徳教科書の検定で、教科書の物語の作中に「パン屋」の記述があったところ、「教科書全体で指導要領にある『我が国や郷土の文化と生活に親しみ、愛着をもつ』という点が足りないため」「学習指導要領の示す内容に照らして、扱いが不適切」との検定意見を付した。これを東京書籍が「忖度」して、パン屋の記述を「和菓子屋」に変更したという事例である。これには、忖度の問題やパン屋か和菓子屋かという話もあるが、それ以前に、「我が国や郷土の文化と生活に親しみ、愛着をもつ」という特定の道徳的価値観を国家が教科書検定を通じて注入するということが大問題である。これは、明らかに“愛国心的”という特定の道徳観への誘導であり、国家の道徳的中立性に反する。具体的に、「記述を変更する」という明白な効果まで生じている。他にも、改正教育基本法によって幼稚園においても愛国心についての評価が行われる等々、すべて国家の道徳的中立性の弛緩と私領域への侵犯という文脈に連なっている。当然、愛国心自体を非難しているのではない。愛国という特定の道徳観は、私的領域において、各人が自由に保持すればいいものであるし、愛国心の有無の押しつけは、個人の人格の根源的対等性にも背馳する。なにより、“愛”は強制されるものでなく醸成されるものである。公的領域における良い社会の構築によって、人々の愛国心を獲得すべき筋の話である。

【社会システムとしての公私区分の崩壊】

さらに、実生活上の公私の破壊と侵犯がある。共謀罪(テロ等準備罪)だ。政府は、過去三回廃案になった共謀罪に絞りをかけたというが、組織的犯罪集団に「一変」するかどうか、共謀(計画)の有無・中身を検知するには、監視の目や耳を私生活に溶け込ませなければ実現できない。政府がその批准を共謀罪法案制定のよりどころとするTOC条約20条に「監視等」「必要な措置」を講ずる義務を締約国に課しているのは、まさに監視社会への政府の意思を端的に示す証左である。

繰り返しになるが、「公」の豊かさは「私」の豊かさに依存する。公権力による監視の拡大は、公私の悪しき同化、境界線のなし崩し的無力化を生む。委縮した「私」領域からは多様性や豊かさは消え、社会全体の収縮とともに、“息をつく余地”を失った自由は窒息死する。

国家が道徳的中立性を脱ぎ捨て、物理的にも私生活に国家権力の目が張り巡らされる可能性がある。人類が共生のために構築してきた公私の区分が、いとも簡単に、今まさに、決壊している。

【日本型立憲主義・民主主義の再考】

強大な国家権力の“間違いうる権力行使”を抑制することで、私的空間における我ら個人の「間違いうる」ダイナミズム、すなわち一人として同じでない多様な自己の善き生への試行錯誤・トライを保障する。これが立憲主義のプロジェクトであったはずだし、このような個々人の多様な善き生へのトライが保障されていない社会など生きる意味がない。

権力の集中・統合、そして道徳的中立の侵犯は、我々一人一人の多様性を奪い、ひいては我々の社会の多様性を奪う。公的空間と私的空間を切り分けるといっても、結局はその構成員は我ら個人であるから、登場人物は同じであり、公的空間の豊かさは私的空間の豊かさに依存する。権力集中は、一見、統治の便は良さそうだが、権力による価値の選別、単一的道徳観の称揚によって、権力の豊かさの調達源である私的空間が貧困化する。皆が“忖度”と“自主規制”によって萎縮した私的空間もろとも、公的空間も貧困化する。

多様性と寛容さを失った権力、そして社会は、自壊的ですらある。

我々は本当にそんな社会を望んでいるのか?意識的無自覚は最大の罪である。

立憲主義とは“やせ我慢”である。まったく違う価値観を持つ「他者」を承認しなければならない。自己の考える「正しさ」を意図的に相対化し、共生のための熟議を尽くさねばならない。本当は否定したい、正しさを教えてあげたい、という人間の性からすれば、相当にタフな目論見である。多数派(権力の側)にいれば、権力の集中を望むかもしれない。しかし、立憲主義は、常に自己が他者と立場が入れ替わる可能性とその想像力も要求する。だからこそ、「多数派だから」という理由だけでは、立憲主義のテストは通過できない。我々の社会が、生きる意味のある豊かさを獲得するためにも、もう一度、権力の均衡という観点から、日本型立憲主義・民主主義の再定位が迫られている。

昔、学校の教室には「教室は間違えるところ」という張り紙がされていた。
「間違えること」が認められるということは、絶対的な“正解”はないということを意味する。特に道徳については、数字や記号的な正解が存在しない。各人が多様な価値観を有していることを前提に、個々人の道徳観すべてを尊重するということだからだ。国家が教科書を通じて、ある道徳観を奨励すれば、それが“正解”となり、それ以外は不正解となる。画一的な正解の存在は、正解と不正解を分断し、不正解の劣後というレッテルを生み出す。このような「間違えること」のできない教室では、多様性は滅失する。

「教室」は社会の縮図である。教室で起こっていることは、今まさに社会においても生起している。だからこそ、「社会は間違えるところ」こんな張り紙のある寛容な社会を自分たちの手で再構築しようではないか。


10:26
2017/04/27

権力分立と道徳的中立性の黄昏(1)

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人類がこの歴史の中で獲得できた唯一といってもよい教訓は、「人は間違いうる」という、人間の可謬性の確信である。

革命を経て、まさしく“間違いうる”「人」が支配した絶対王政が倒れた。しかし、主権が絶対君主から我々国民の手に戻っても、「法」の支配のタテマエのもと、国家権力の担当者は、相変わらず人間である。そこで、「間違いうる」人間の権力行使を抑制するべく編み出された知恵が「権力分立」だ。

なんのための権力分立か、権力行使の抑制か。すべては、我ら「個人」の尊厳を保障するためである。宗教戦争や革命を通じて、今までの「貴族」「聖職者」「封建領主」「奴隷」という看板をご破算にし、人種、価値観、年齢、性別関係なく、立憲主義社会の構成員の最小単位として、すべて人は独立・対等の「個人」であるとされた。教科書的に立憲主義の“本籍地”のように引用されるフランス人権宣言16条には、「権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていないすべての社会は、憲法をもたない」とあるが、これは、立憲主義(憲法)の核心的価値である「個人」の尊厳を暴走する権力から守る目的のため、権力分立を手段的に採用することを確認したものだ。

【権力分立を巡る変奏曲】

現代日本社会において、権力分立は、憲法典に「三権分立」として規定されているだけではなく、社会構造の中にも様々な形で装置として埋め込まれている。いわば“多元的”権力分立によって、Check&Balanceをはかっていたものが、現在、悉く分立のタガがはずれ、権力統合・権力集中の遠心力を止められなくなっている。以下に見ていきたい。

《権力vs法》

初めに、法規範及び法による権力分立の企てについてみたい。三権分立の本籍地である日本国憲法によれば、裁判所は違憲審査権により政治部門を牽制し、議院内閣制ではるものの立法府と行政府は、解散等による緊張関係を前提に、抑制均衡している「はず」である。しかし、最高裁は、「事件」の解決に必要最小限度でしか行使されない違憲審査制のもと(付随的違憲審査制)では、抽象的一般的に法令を審査することができず、違憲立法(安保法制)や、違憲の国家行為(例えば、2015年秋に、憲法53条に基づく臨時会の召集が適法に求められたが、政府は臨時会を開かなかった。これは憲法上の義務違反であるが、現行制度上是正するシステムが存在しない。)を正すことができない。解釈改憲にも何らの歯止めにもならず、まさに「憲法の番人」との呼び名は“名誉的称号”に堕している。憲法自体も、今指摘した制度的欠缺があるばかりか、自衛隊の存在と9条という欺瞞を抱えながら、まるで美しいもののように70歳を迎えてしまった。憲法を裸の王様にしないためにも、国会や国民の従来の「護憲vs改憲」という不毛な二項対立を超えた議論が求められるが、憲法審査会等をみても期待できそうにない。

 最高裁人事は、内閣が深く関与しているため、ここには「違憲判決をださない」ことと「人事に手を突っ込まない」こととのトレードオフが存在する。これでは、違憲立法審査権は、“刃の無い刀”である。

 また、政治部門に目を向ければ、議院内閣制とはいえ、もはや、国会の第一党である自民党は官邸(政府)の下請け機関と化し、まるで一体である。ここに何らの緊張関係はない。各委員会での委員長(立法府)の政府(行政府)への過剰な配慮は、立法府の矜持を放棄したものといって過言ではない。

 さらに、違憲立法審査権を実質的に補ってきた機関として内閣法制局がある。日本の違憲判決が少ないのは、内閣法制局による事前審査が極めて厳格に機能していたからだ。しかし、内閣法制局人事も、政策にあわせて挿げ替えられ(集団的自衛権行使賛成派の故・小松一郎氏を大抜擢した異例の人事は記憶に新しい)、答弁は政府擁護に堕し、政権の法的お墨付き与え機関になってしまった。

 もはや、法規範は権力集中を止められない。

《権力vsメディア》

 社会的権力として、第4の権力と言われたのがメディアであった。メディアも、権力の監視チェック機能として、権力との緊張関係の中で、憲法21条の表現の自由の“公共的使用”を認められた特別な職能集団である。しかし、大手メディアの幹部は総理とこぞって会食し、懐柔されなければまだしも、政権を忖度した報道しかしない。ジャーナリズムの役割を「官邸の情報をどれだけ早く伝えるか」などと考えている人間すらいる。このような批判的精神を失った記者は、とっとと政府の広報に転職すればよい。特に政治部記者の腐敗・堕落は著しい。議員や議会及び党の部屋にまるで党職員のように入りびたり、それをもって「情報収集」としている、これを通常のものとしている政治家とメディア双方の“ウェット”な感覚は、国民感覚とは程遠い。憲法は、このような者たちのために、表現の自由の公共的使用を認めたわけではない。

 さらに、政権側も、高市総務相が「電波停止」発言により、悪しき政治的中立性を掲げてメディアを統制したり、金田法相が、マスコミに「共謀罪については厳しい質問をしてくれるな」という趣旨のペーパーを配布するなど、メディアへの統制及び癒着の例は枚挙にいとまがない。これでは、現在のメディアには、社会的権力分立を担わせるには荷が重すぎる。

《権力(中央)vs地方》

 憲法92条以下にも「地方自治」の規定があるように、中央権力と地方権力も、権力分立の一形態である。しかし、沖縄問題をみればわかるとおり、住民の意思がどれだけ強大かつ画一的に表明されても、まったく顧みられることはない。住民自治など画餅だ。アベノミクスも、中央の利潤が地方へというモデルだし、自民党改憲草案に新設される緊急事態条項の発想も、緊急時の権力集中である。災害大国日本の教訓は、災害時は地方に権限を落とせ、ではなかったか。

《権力vs権威》

加えて、日本には特殊な権力分立があった。権力と権威、すなわち権力と天皇の権力分立である。今上陛下は、象徴の在り方として、憲法の枠内で、ご公務を積極的にされ“能動的象徴性”を確立された。政治的権能がない中、ハンセン病の施設訪問等、忘れ去られそうな少数者のところに訪問することにより、無言で「我らの同胞がここでも苦しんでいる」とメッセージを発し、弱者に寄り添った。これも「公務負担軽減」というミスリード有識者会議に始まり、今回ご譲位が「例外的」であることを確定的にすることによって、陛下の意思や、皇位の安定的継承への想いを踏みにじった。一代限りの特例法の悪しき先例性は、ときの多数派による強制退位を可能にすることである。本政権は、権威からの牽制も、無力化した。

《権力vs与党第一党》

 55年体制と言われた自民党一党体制においても、自民党は党内で右から左まで非常にバリエーション豊かな人材と派閥で構成されていたため、「党内政権交代」と言われるほど、党内勢力同士の均衡と抑制が働いていた。しかし、小選挙区制における公認権も相まって、人事権をちらつかせながら、現政権幹部は、自民党内における異論も排除し、党内においても「一強多弱」状態を作出した。議会内での強弱構造は覆りそうにない現在、党内熟議が頼みの綱であるが、これも期待できない。

 以上のとおり、現政権は、ありとあらゆる権力分立の契機を無力化することに成功している。


10:24
2017/04/02

【明日4月3日7時?『モーニングクロス』@東京MX】

Tweet ThisSend to Facebook | by 倉持

【明日4月3日7時?『モーニングクロス』@東京MX】
明日の新年度一発目のクロスにでます!
パン屋和菓子屋の話とか、社会への満足度、そしてそれと並走する権力について、話まっせ権力分立と皇室制度にも触れます!


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