倉持麟太郎の“Rin”sanity
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2017/06/15

明日6月16日午前7時からモーニングクロス@東京MX!

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明日の朝7時から、東京MX(9チャンネル)のモーニングクロスに出演します!
安倍の欲望充足改憲の欺瞞について語るで!

11:53
2017/05/19

共謀罪から消えた「テロ対策」:日本の民主主義の退行現象

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商品表示と本当の中身が違うこと、タイトルと中身が違うこと、看板と店内の実態が違うこと、これは往々にしてある。
往々にしてあるからいいわけではない。私も昔某日本の南国で、夜に食事にありつけず、どうしても開いていたのがそこしかなく入った店の名が「スナックみさこ」であったにもかかわらず、入店したらゴリラみたいな屈強な中年男性が店主だったときは、度肝を抜かれた。

食品偽装や不当表示がなぜ問題なのか。それは、我々が意思決定のプロセスの前提となる事実が正しくないため、我々の意思決定自体にキズがついてしまうということである。

「正しい情報があればこの決定はしなかった」
こういうことになる。

共謀罪法案が衆院の委員会で可決された。来週半ばには参院での審議が開始されそうな日程である。
本来、法案が可決されるというのは、論理的な議論は熟し、論点も網羅され、それぞれ意見や価値観の違う立場の者同士の議論が尽くされたからこそ、その熟議の過程での様々な価値の激しい凌ぎあいの結果、一人で決めるよりは、よりよい解に近づくであろうという想定のもと、やむなく決断のツールとして、多数決を行うのである。この前提が崩れれば、民主主義はまったく無機質な多数決主義に堕する。
今回の共謀罪法案の核心は「テロ対策」であった。首相はテロの脅威を強調、共謀罪がなければオリンピックが開催できないといっても過言ではないとまで発言し、共謀罪に競技場の設計やロゴマークでも作らせるのかと思ったほどだ。
安倍首相自身、2月3日の予算委員会でこの法案の目的として「目的は二つでありまして、二つの目的については、まさに条約を批准するためですね、もう一つは、テロに対する、穴があればそれを埋めておく必要があります」と答弁している。つまり、法律制定の目的として、1.条約批准と2.テロ対策を掲げている。もう一度いうが、1.条約批准と、2.テロ対策を明確に分けて法律制定の目的としている。
つまり、当初は、条約の批准からあえてテロ対策をくくりだしているのだから、最近では条約=テロ対策というようなイメージになっているが、そうではないのだ。
そして、このテロ対策、現行法での穴として政府が出してきたのが、いわゆる「3事例」である。1.サリン事件事例、2.9.11ハイジャックテロ事例、3.サイバーテロ事例である。
これは、想像を容易にするためにいえば安保法制のときの「ホルムズ海峡事例」や「(赤ちゃんを抱いたお母さんの絵でおなじみの)米艦防護事例」と同じである。つまり、その法案の必要性を支える事実、レゾンデートル(raison d'etre:生命線)である。

しかし、本日5月19日の衆議院法務委員会で、金田大臣は、いわゆる3事例+αが立法事実かと問われ、「立法事実は条約の批准」とだけ明言した。すなわち、条約批准には本来テロ対策は含意されていなかったのだから、事実上、テロ対策を立法事実から外したのだ
法案の目的の根幹が当初想定していたものと変化した、否、そもそもその看板は偽りの看板であったということだである。国民の代表である国会の場では、当初掲げられた「テロ対策」という看板に基づいて、この法案の是非を議論してきた。共謀罪の法案がテロ対策として実効性があるかどうか、当然そこに焦点をあてて、論戦が繰り広げられてきた。
しかし、いざ店内に入ってみたら、まったく看板と書いてあることが違い、再度入り口を見てみたら看板が変わっていた。これと同じことである。

そうであれば話は簡単である。議論してきた前提が消失したのであるから、その消失した砂上に積み上げた決定のプロセスも消失し、決定自体が正当性を失うということだ。つまり、具体的には、審議を一からやり直すか、この法案を一度ないものとするしかない。なぜなら、もうこの法案がよすがにした正当性の基盤は、すでになくなっているからだ。何よりも、これがなくなっていることを政権自らが認めらのである。

それにもかかわらず、法案は可決された。

採決は多数派がすればどうやっても可決することから「強行」ではないという声がある。しかし、真の熟議民主主義における採決は、様々な価値のバーゲニングと妥協のプロセスを経て、議論を尽くしたという”付加価値”が付与されている。この付加価値があればこそ、多数決主義はそのむき出しの数の論理に民主主義という価値を纏える。そうしなければ、本来多数決とは真っ向衝突するはずの立憲主義(=個人、少数派のためには多数決をも覆す価値)と民主主義が両立しないのである。
さらに付言すれば、ここには「手続き」を大切にするという価値観がある。人種、信仰、姓、年齢等が異なったとしても、手続きだけは中立でありうる。アメリカでプロセスが重視されるようになったのも、人種や民族、信仰が違う中で、手続きの中立性しか、物事を裁定する基礎足りえなかったからである。手続きは無色だ。日本も本来は、「柔道」「剣道」はたまた「野球道」と、「道」=「プロセス」を大切にしてきた国民であったはずだ。私は剣道をやっていたが、試合に入るまでに様々な作法があり、いざ試合中も、いくら面や小手をとっても、声が出ていないと一本にはならなかったりする。徹底的なプロセス重視だ。むしろ、この「道」を踏むことを美徳とする文化があった。しかし、今や、そのような価値観は消えてしまった。
プロセスにどのような嘘偽りが混ざっていても、プロセスにおける作法を無視しても、結論から逆算して、当初予定していた結論に持ち込むことのみが最高の価値とされる。

法案審議のプロセスに瑕疵があったのなら、やり直すか、出た結論を否認するのが筋である。私はテロ対策はいらないなどとは言ってない、すぐにそのような反論をする輩がいるか、そんなこと最低限の理性を備えた人間なら考えるわけなかろう。もってまわった言い方をすれば、「バカか」と言いたい。
嘘の看板をかけ、挙句にその法案の必要性とされてきたテロ対策という立法事実まで消失してしまった。

なぜここまで卑怯で不誠実なのだろうか。
なぜわが国の知性をフル稼働させてこの法案をよりよいものとする発想がないのか。
それがこの国を「取り戻す」方法なのか。

熟議をするのは、どんな人間でも、一人では、皆で知恵を持ち寄って決めたこととまったく同じレベルの決定ができる保証はないからである。何より人は間違える。だからこそ、我々人類は、皆で決めるプロセスを妥当性のあるものとして獲得してきた。今まさにこのプロセスは、音をたてて崩壊している。これは我々にも責任がある。看板が違うことを見抜く目をもたねばいけない、不当表示であることを察知する舌がなければいけない。

まだ参議院の議論がある。衆議院でのやりとりの積み上げを踏まえ、我々は、不当表示や看板の掛け替えを見抜かねばならない。そして、我々が大事にしてきた「道」を取り戻したい。まさに、そのための道はまだまだ半ばだ。

21:19
2017/05/05

9条3項追加論は愚の極致

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去る5月3日の憲法記念日に、安倍首相が読売新聞の取材に応えて、憲法改正について、2020年をめどに、9条1項、2項は変えずに「自衛隊を明記」した9条3項を新設する改憲を目指すとの意見表明を行った。
今まで一貫して「行政府の庁」としては改憲については語らないとかたくなに答弁拒否をしてきた首相が、”行政府の長として”、しかも”憲法記念日に””9条という最も論争不可避的な条文の改正について”言及したことは、安倍首相本人の立場からしても、越権行為的でご都合主義(ダブルスタンダード)的であるものの、あまりに大きすぎる意味があるといえる。

しかし、これは、明らかにおかしい。

9条2項は、わが国の「交戦権」を認めていないため、自衛隊は国際法上も軍隊ではありえず、雑駁に言えば、軍事権を行使する主体、すなわち交戦の主体にはなりえない。
したがって、たとえば先般の南スーダンにおいても、そこは国際法上の「交戦」が支配する空間であるから、本来交戦主体足りえない自衛隊は活動不能である。なぜなら、政府軍かどうかもわからない人間が銃口を向けられた場合、正当防衛の建前であったとしても、自衛隊が銃の引き金をひけばそれは明確な「交戦」となりうる。これは自衛隊にはできない。これを(バカ)正直に表現したのが、稲田防衛大臣の、「紛争」というと9条に違反する可能性があるため、「衝突」と言っている、という驚愕の答弁である。
これは、「万引き」というと刑法に触れるので、「お借りしている」と言っている、というのと同じだ。言い方を変えれば違法なものが合法になる?!おそらく稲田防衛大臣は、少なくとも法律の勉強はしたことがないのであろう。

さて、このように自衛隊は、国際法上軍隊ではなく、国際貢献に海外の紛争地帯にいっても法的には「日の丸つけた山賊」状態で捕虜にもなれない。
もちろん、わが国防衛のための「交戦」も否認されている。
さらには、この「軍隊」であるのに9条のせいでそれを軍隊と認めないことで一番不合理なしわ寄せを食っているのが自衛隊員である。交戦できないからこそ、極めて限定的かつ非現実的な場面での武器使用を認められており、それも現場の自衛官の判断にかなり依存している。もし誤射でもすれば、ただの殺人扱いだってありうる。こんなものは、自分に向けて銃を持たされているようなものである。

わが国防衛、自衛隊員の安全・権利・名誉、そして国際貢献のために、このままでよいのか?せめて自衛隊を憲法に位置付けるべきではないのか?
ここからくるのが「自衛隊を明記すべき」という、現状追認改憲である。私は、国家最大の暴力たる軍事権の主体たる自衛隊の立憲的統制のため、立憲主義の観点からも当然9条に明記すべきであると考えている。当然、最低限9条2項の交戦権の否認を否定し、交戦主体たりうる自衛隊としての、自衛隊の9条への明記である。
そうでなければ、明記する法的意味がなくなる。

しかし、安倍首相のいう9条1、2項にふれない9条3項新設論では、交戦権は否定されたままの「交戦権のない自衛隊」をそのまま憲法に固定化していしまうだけだ。
2項改正をしなければ、なんの意味もない。

この意味がわかるだろうか?これは、わが国防衛も国際貢献も十全にすることもできず、しかし、すべての責任を現場の自衛官に負わせて国家=国民は一切これにつき責任を負えない(負わない)、という法的構図をそのまま憲法に焼き付けるということだ。
手足を縛られたままの自衛隊を憲法に「明記する」のである。
定員が足りない中で極めて過酷な状況で執務にあたっている自衛隊員のことを思えば、このような扱いが、防衛及び軍隊にとってどれだけ不誠実かおわかりだろう。私は怒りに震える。
わが国防衛や自衛隊を真に大切と思っている人間はもちろん、今回の改憲提案は、心の底から怒っているはずだ。これに怒らない人間は、保守ではない。

皆さんも、今回の改憲提案についての反応をリトマス試験紙として、真の保守を見極めたらよろしい。




18:48
2017/05/02

5月3日憲法記念日『モーニングクロス』@東京MX

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明日朝7時?8時30に、東京MX『モーニングクロス』に主演します。
憲法記念日なので、倉持的改憲論についてお話したいと思います。
是非ご覧ください!
22:57
2017/04/27

権力分立と道徳的中立性の黄昏(2)

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【国家権力の作法】

さて、国家権力同士の権力の分立・均衡を「横」の関係だとすれば、国家と個人の関係において、いわば「縦」のルールがある。それが、国家の個人の道徳観に対する中立性の要請である。国家は、ある特定の道徳観や思想にコミットし、奨励してはならない。典型的な例としては、日本国憲法20条にも定めのある政教分離である。なぜなら、国家が特定の価値観に「お墨付き」を与えれば、それ以外の価値観は“二級”となってしまうが、この社会に“二級”として劣後して扱われるべき道徳観や世界観など存在しないからである。「個人」であれば、どのような価値観を奉じていても独立対等に扱われる。これが立憲主義の目指した共生のプロジェクトだ。ここから、国家権力の活動する公的領域と我々個々人の私的領域を区分するという発想が生まれる。我々は、私的領域(個々人の「善き生き方」の決定)においては、他者加害にわたらない限りどのような道徳観に基づいて行動することも自由であり、故に、公的領域(「良き社会」の決定)における決定の場面では、国家は、特定の価値観を押し付けたりすることのないよう道徳的に中立であることを求められる。道徳的中立性の侵犯は、間接的に、我々個々人の私的領域への侵犯なのである。

個人の自律の核心は、「自己の生という物語の作者は自己でしかない」というところにあるが、国家がある特定の道徳観にコミットした決定をするということは、この物語を国家や政治権力に書かれてしまうのと同じことになってしまう。あくまで個々人の「善き生き方」は私的決定であり公共的な決定でありえない。国家が道徳的にある価値観にコミットするということは、善き生き方の決定を国家が代行するのに等しい。

【道徳的中立性を捨てた道徳的国家】

先日、文科省が、道徳教科書の検定で、教科書の物語の作中に「パン屋」の記述があったところ、「教科書全体で指導要領にある『我が国や郷土の文化と生活に親しみ、愛着をもつ』という点が足りないため」「学習指導要領の示す内容に照らして、扱いが不適切」との検定意見を付した。これを東京書籍が「忖度」して、パン屋の記述を「和菓子屋」に変更したという事例である。これには、忖度の問題やパン屋か和菓子屋かという話もあるが、それ以前に、「我が国や郷土の文化と生活に親しみ、愛着をもつ」という特定の道徳的価値観を国家が教科書検定を通じて注入するということが大問題である。これは、明らかに“愛国心的”という特定の道徳観への誘導であり、国家の道徳的中立性に反する。具体的に、「記述を変更する」という明白な効果まで生じている。他にも、改正教育基本法によって幼稚園においても愛国心についての評価が行われる等々、すべて国家の道徳的中立性の弛緩と私領域への侵犯という文脈に連なっている。当然、愛国心自体を非難しているのではない。愛国という特定の道徳観は、私的領域において、各人が自由に保持すればいいものであるし、愛国心の有無の押しつけは、個人の人格の根源的対等性にも背馳する。なにより、“愛”は強制されるものでなく醸成されるものである。公的領域における良い社会の構築によって、人々の愛国心を獲得すべき筋の話である。

【社会システムとしての公私区分の崩壊】

さらに、実生活上の公私の破壊と侵犯がある。共謀罪(テロ等準備罪)だ。政府は、過去三回廃案になった共謀罪に絞りをかけたというが、組織的犯罪集団に「一変」するかどうか、共謀(計画)の有無・中身を検知するには、監視の目や耳を私生活に溶け込ませなければ実現できない。政府がその批准を共謀罪法案制定のよりどころとするTOC条約20条に「監視等」「必要な措置」を講ずる義務を締約国に課しているのは、まさに監視社会への政府の意思を端的に示す証左である。

繰り返しになるが、「公」の豊かさは「私」の豊かさに依存する。公権力による監視の拡大は、公私の悪しき同化、境界線のなし崩し的無力化を生む。委縮した「私」領域からは多様性や豊かさは消え、社会全体の収縮とともに、“息をつく余地”を失った自由は窒息死する。

国家が道徳的中立性を脱ぎ捨て、物理的にも私生活に国家権力の目が張り巡らされる可能性がある。人類が共生のために構築してきた公私の区分が、いとも簡単に、今まさに、決壊している。

【日本型立憲主義・民主主義の再考】

強大な国家権力の“間違いうる権力行使”を抑制することで、私的空間における我ら個人の「間違いうる」ダイナミズム、すなわち一人として同じでない多様な自己の善き生への試行錯誤・トライを保障する。これが立憲主義のプロジェクトであったはずだし、このような個々人の多様な善き生へのトライが保障されていない社会など生きる意味がない。

権力の集中・統合、そして道徳的中立の侵犯は、我々一人一人の多様性を奪い、ひいては我々の社会の多様性を奪う。公的空間と私的空間を切り分けるといっても、結局はその構成員は我ら個人であるから、登場人物は同じであり、公的空間の豊かさは私的空間の豊かさに依存する。権力集中は、一見、統治の便は良さそうだが、権力による価値の選別、単一的道徳観の称揚によって、権力の豊かさの調達源である私的空間が貧困化する。皆が“忖度”と“自主規制”によって萎縮した私的空間もろとも、公的空間も貧困化する。

多様性と寛容さを失った権力、そして社会は、自壊的ですらある。

我々は本当にそんな社会を望んでいるのか?意識的無自覚は最大の罪である。

立憲主義とは“やせ我慢”である。まったく違う価値観を持つ「他者」を承認しなければならない。自己の考える「正しさ」を意図的に相対化し、共生のための熟議を尽くさねばならない。本当は否定したい、正しさを教えてあげたい、という人間の性からすれば、相当にタフな目論見である。多数派(権力の側)にいれば、権力の集中を望むかもしれない。しかし、立憲主義は、常に自己が他者と立場が入れ替わる可能性とその想像力も要求する。だからこそ、「多数派だから」という理由だけでは、立憲主義のテストは通過できない。我々の社会が、生きる意味のある豊かさを獲得するためにも、もう一度、権力の均衡という観点から、日本型立憲主義・民主主義の再定位が迫られている。

昔、学校の教室には「教室は間違えるところ」という張り紙がされていた。
「間違えること」が認められるということは、絶対的な“正解”はないということを意味する。特に道徳については、数字や記号的な正解が存在しない。各人が多様な価値観を有していることを前提に、個々人の道徳観すべてを尊重するということだからだ。国家が教科書を通じて、ある道徳観を奨励すれば、それが“正解”となり、それ以外は不正解となる。画一的な正解の存在は、正解と不正解を分断し、不正解の劣後というレッテルを生み出す。このような「間違えること」のできない教室では、多様性は滅失する。

「教室」は社会の縮図である。教室で起こっていることは、今まさに社会においても生起している。だからこそ、「社会は間違えるところ」こんな張り紙のある寛容な社会を自分たちの手で再構築しようではないか。


10:26
2017/04/27

権力分立と道徳的中立性の黄昏(1)

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人類がこの歴史の中で獲得できた唯一といってもよい教訓は、「人は間違いうる」という、人間の可謬性の確信である。

革命を経て、まさしく“間違いうる”「人」が支配した絶対王政が倒れた。しかし、主権が絶対君主から我々国民の手に戻っても、「法」の支配のタテマエのもと、国家権力の担当者は、相変わらず人間である。そこで、「間違いうる」人間の権力行使を抑制するべく編み出された知恵が「権力分立」だ。

なんのための権力分立か、権力行使の抑制か。すべては、我ら「個人」の尊厳を保障するためである。宗教戦争や革命を通じて、今までの「貴族」「聖職者」「封建領主」「奴隷」という看板をご破算にし、人種、価値観、年齢、性別関係なく、立憲主義社会の構成員の最小単位として、すべて人は独立・対等の「個人」であるとされた。教科書的に立憲主義の“本籍地”のように引用されるフランス人権宣言16条には、「権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていないすべての社会は、憲法をもたない」とあるが、これは、立憲主義(憲法)の核心的価値である「個人」の尊厳を暴走する権力から守る目的のため、権力分立を手段的に採用することを確認したものだ。

【権力分立を巡る変奏曲】

現代日本社会において、権力分立は、憲法典に「三権分立」として規定されているだけではなく、社会構造の中にも様々な形で装置として埋め込まれている。いわば“多元的”権力分立によって、Check&Balanceをはかっていたものが、現在、悉く分立のタガがはずれ、権力統合・権力集中の遠心力を止められなくなっている。以下に見ていきたい。

《権力vs法》

初めに、法規範及び法による権力分立の企てについてみたい。三権分立の本籍地である日本国憲法によれば、裁判所は違憲審査権により政治部門を牽制し、議院内閣制ではるものの立法府と行政府は、解散等による緊張関係を前提に、抑制均衡している「はず」である。しかし、最高裁は、「事件」の解決に必要最小限度でしか行使されない違憲審査制のもと(付随的違憲審査制)では、抽象的一般的に法令を審査することができず、違憲立法(安保法制)や、違憲の国家行為(例えば、2015年秋に、憲法53条に基づく臨時会の召集が適法に求められたが、政府は臨時会を開かなかった。これは憲法上の義務違反であるが、現行制度上是正するシステムが存在しない。)を正すことができない。解釈改憲にも何らの歯止めにもならず、まさに「憲法の番人」との呼び名は“名誉的称号”に堕している。憲法自体も、今指摘した制度的欠缺があるばかりか、自衛隊の存在と9条という欺瞞を抱えながら、まるで美しいもののように70歳を迎えてしまった。憲法を裸の王様にしないためにも、国会や国民の従来の「護憲vs改憲」という不毛な二項対立を超えた議論が求められるが、憲法審査会等をみても期待できそうにない。

 最高裁人事は、内閣が深く関与しているため、ここには「違憲判決をださない」ことと「人事に手を突っ込まない」こととのトレードオフが存在する。これでは、違憲立法審査権は、“刃の無い刀”である。

 また、政治部門に目を向ければ、議院内閣制とはいえ、もはや、国会の第一党である自民党は官邸(政府)の下請け機関と化し、まるで一体である。ここに何らの緊張関係はない。各委員会での委員長(立法府)の政府(行政府)への過剰な配慮は、立法府の矜持を放棄したものといって過言ではない。

 さらに、違憲立法審査権を実質的に補ってきた機関として内閣法制局がある。日本の違憲判決が少ないのは、内閣法制局による事前審査が極めて厳格に機能していたからだ。しかし、内閣法制局人事も、政策にあわせて挿げ替えられ(集団的自衛権行使賛成派の故・小松一郎氏を大抜擢した異例の人事は記憶に新しい)、答弁は政府擁護に堕し、政権の法的お墨付き与え機関になってしまった。

 もはや、法規範は権力集中を止められない。

《権力vsメディア》

 社会的権力として、第4の権力と言われたのがメディアであった。メディアも、権力の監視チェック機能として、権力との緊張関係の中で、憲法21条の表現の自由の“公共的使用”を認められた特別な職能集団である。しかし、大手メディアの幹部は総理とこぞって会食し、懐柔されなければまだしも、政権を忖度した報道しかしない。ジャーナリズムの役割を「官邸の情報をどれだけ早く伝えるか」などと考えている人間すらいる。このような批判的精神を失った記者は、とっとと政府の広報に転職すればよい。特に政治部記者の腐敗・堕落は著しい。議員や議会及び党の部屋にまるで党職員のように入りびたり、それをもって「情報収集」としている、これを通常のものとしている政治家とメディア双方の“ウェット”な感覚は、国民感覚とは程遠い。憲法は、このような者たちのために、表現の自由の公共的使用を認めたわけではない。

 さらに、政権側も、高市総務相が「電波停止」発言により、悪しき政治的中立性を掲げてメディアを統制したり、金田法相が、マスコミに「共謀罪については厳しい質問をしてくれるな」という趣旨のペーパーを配布するなど、メディアへの統制及び癒着の例は枚挙にいとまがない。これでは、現在のメディアには、社会的権力分立を担わせるには荷が重すぎる。

《権力(中央)vs地方》

 憲法92条以下にも「地方自治」の規定があるように、中央権力と地方権力も、権力分立の一形態である。しかし、沖縄問題をみればわかるとおり、住民の意思がどれだけ強大かつ画一的に表明されても、まったく顧みられることはない。住民自治など画餅だ。アベノミクスも、中央の利潤が地方へというモデルだし、自民党改憲草案に新設される緊急事態条項の発想も、緊急時の権力集中である。災害大国日本の教訓は、災害時は地方に権限を落とせ、ではなかったか。

《権力vs権威》

加えて、日本には特殊な権力分立があった。権力と権威、すなわち権力と天皇の権力分立である。今上陛下は、象徴の在り方として、憲法の枠内で、ご公務を積極的にされ“能動的象徴性”を確立された。政治的権能がない中、ハンセン病の施設訪問等、忘れ去られそうな少数者のところに訪問することにより、無言で「我らの同胞がここでも苦しんでいる」とメッセージを発し、弱者に寄り添った。これも「公務負担軽減」というミスリード有識者会議に始まり、今回ご譲位が「例外的」であることを確定的にすることによって、陛下の意思や、皇位の安定的継承への想いを踏みにじった。一代限りの特例法の悪しき先例性は、ときの多数派による強制退位を可能にすることである。本政権は、権威からの牽制も、無力化した。

《権力vs与党第一党》

 55年体制と言われた自民党一党体制においても、自民党は党内で右から左まで非常にバリエーション豊かな人材と派閥で構成されていたため、「党内政権交代」と言われるほど、党内勢力同士の均衡と抑制が働いていた。しかし、小選挙区制における公認権も相まって、人事権をちらつかせながら、現政権幹部は、自民党内における異論も排除し、党内においても「一強多弱」状態を作出した。議会内での強弱構造は覆りそうにない現在、党内熟議が頼みの綱であるが、これも期待できない。

 以上のとおり、現政権は、ありとあらゆる権力分立の契機を無力化することに成功している。


10:24
2017/04/02

【明日4月3日7時?『モーニングクロス』@東京MX】

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【明日4月3日7時?『モーニングクロス』@東京MX】
明日の新年度一発目のクロスにでます!
パン屋和菓子屋の話とか、社会への満足度、そしてそれと並走する権力について、話まっせ権力分立と皇室制度にも触れます!


20:43
2017/03/31

司法の敵は誰か?!法曹を育てる社会意識の衰退

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あまりに頭にきたので書く

本日3月31日にある衆議院法務委員会で議題に上る司法修習生に対する「給費制」について、極めて公平・公正を欠き、自分さえよければよい視野極小のエゴイスティックな議論をしている民進党議員がいるので、糾弾するために書く。あまり話題になっていないが、皆さんも注目してほしい。こいつは司法の敵だ。

弁護士になるには、ご存知のとおり、司法試験を受験し、合格したあとに、「司法修習」という研修期間(昔は2年、今は1年)を経て、もう一度研修所の卒業試験たる「二回試験(司法試験から数えて二回目だから)」に合格すれば、晴れて弁護士、検察官、裁判官、のどれかになれる。
(この最初の司法試験を受験するためにも、10数年前にできたロースクールを卒業しなければ受験資格を得られなかったのだが、予備試験という、大検みたいなもに受ければ受験資格を得られるようになった。)
今日ここで吠えたいのは、この司法修習生に対する「給料」の話である。
戦後、この研修期間には、「給費」として、一定額の給料が支払われていた。
しかし、2011年、民主党政権時代、この給費制が「貸与制」に変更された。
すなわち、司法試験に合格したのち、司法修習生になるときに、貸与制によって金を借りるか、金を借りないか、選ばされるのである。
つまり、300万円強の借金を背負って弁護士業を始めるかどうかの選択を強いられる。
では借りなければいいではないか。確かにそうだ。実家から通えばよい。貯金で暮らせばよい。アルバイトをすればよい。
しかし話はそんなに簡単ではない。司法修習は、全国的に配属され、自分の意とはまったく無関係に配属が決まる。引っ越し費用は?家賃は?生活費は?
しかも、司法修習生には、「修習専念義務」というのが法的に課されていて、兼業禁止である。つまり、アルバイトもできない。収入の道がない。これを読んでいるあなた、あなたが自分の縁もゆかりもない場所に配属され、実家は仕送りする体力もない、アルバイトもできない。それで司法修習できますか?本当の意味で専念しますか?
私はロースクール創設のときもその学費の高さをかなり問題視したが、これでは金持ちしか、あるいはたまたま環境的にフィットした人しかなれないではないか。
社会の階層の流動性を極めて鈍くする、階層間の参入障壁を上げてしまう、こんな政策には反対であった。
これが、司法修習でもう一回固定化する。
上記のような事情から、事実上、国からの貸与を受け入れなければ、修習ができない、事実上の貸与しか選択肢がない。

この世に存在する職業で、その職業になろうとしたら事実上300万円の借金を背負わされる職業があるか?

答えてほしい、あるか?
借金を背負わされたから闇稼業で働くのとは逆だぞ。
何かを始めたら金がかかる、というのとは違うぞ?国から借金をさせられるのだぞ?

この問題は、「弁護士を増やすべきか」「ロースクールをどうするのか」「司法試験の受験資格をどうするのか」等の問題とからめて論じられる。
しかし、極論をいえば、法曹という仕事に魅力がなくなったのである。2%しか受からなかった時代に5万人受けていた試験に、25%受かっても8千人しか受験しない。そもそもの志望者が激減している。これは、小手先の改革ではどうにもならない。

「ロースクールと受験資格の切り離し」という案もあるが、私はロースクール至上主義ではないため、予備試験含め受験の窓口は広げるべきと考えるが、しかし、切り離せば確実にロースクールは衰退する。司法試験塾が巨大マーケットを形成し、誰もがそこで答案作成の「パターン」を覚えて吐き出す「金太郎あめ答案」からの脱却をかかげ、これからの社会に対応すべく「考える力」を養うという理念で司法制度改革の目玉であったロースクール。ロースクールという社会資源は、残すなら活用すべきである。国費を投入したものを、ダメだったから放置する、というのではあまりに無責任である。

法曹資格というリスクが原因ともいわれる。しかし、私は、法曹は、弁護士法1条に「人権の擁護と社会正義の実現」という目的が謳われていることをいうまでもなく、そのリスクを超えてでもこの仕事にしかコミットできない価値がある、という理念型の職業だと思っている。そうであれば、リスクを負ってでも人間社会が希求する価値の実現者・行動者たりたい、という思い、ひいては、そのような価値へのコミット自体が衰退しているのではないか。同時に、国としても、社会自体、再チャレンジを認める、目指したい職業を安心して目指せる社会を構築する必要がある。

また、人数が膨れ上がっているから社会の受け入れ先がないというような需要との関係を持ち出すムキもあるが、そんなものは、我々一市民的自由としての社会保障の話とは違い、厳しい”法曹”市場における「競争」の話なのだから、「全弁護士に仕事があるべきだ」という前提自体が間違っている。無能な法曹はどんどん市場から退場したらよろしい。なぜ、民間のベンチャーや中小企業が裸で戦いがんばっているのに、弁護士のみ業界保護の話をするのか、より広く社会の隅々まで法律家が浸透する社会、ということよりも、目の前の食い扶持、という既得権益にしがみつく化石法曹たちは、とっとと市場から淘汰されるべきである。
私は、ロースクールの失敗も一部認めるし(これには、複数要因がある。ロースクールでの教育自体はとても良いものがある)、

そして、聞いてあきれるのが、このような議論に対して、衆議院法務委員会は「あなたのいうことはもっともである」という雰囲気で、反論もないそうだ。おそらく、この民進党議員が法務委員会でそこそのベテランだからだ、敵も味方も自分の頭で考えて中身を吟味して、批判的に検証することすらしない。聞いてあきれる。これぞ日本社会の悪しき側面の具現化。
つまり、"to do"(何をするか)より"to be"(なんであるか)が最優先される。どんな職業、身分、地位、性別、年齢、キャリアだろうが、そのひとのdoで判断するのがフェアネスであるが、日本社会は往々にして、「政治家だから」「弁護士だから」「医者だから」という、その人がなんであるか=to be によって批判的検証をパスしてしまう。
これが日本の”国権の最高機関”の法務委員会だぞ?これに無批判な連中が共謀罪を議論するのか?マスコミ批判もいいが、リーガルマインドとは、事実と論理だけに基づいて、常にそこにある多数派や通説に批判的吟味を加える精神のことのはずだ。日本の法務省にも大臣にも法務委員会にも、リーガルマインドもフェアネスもない。是非民進党含む野党から、このような不公平な議論を称揚する愚かな言説に批判的な声が上がることを期待している。

中世、いわゆる大学というものがこの社会に創設されたとき、学部は大体三つだった。

神学部(心の病を治す)
医学部(体の病を治す)
法学部(社会の病を治す)

この三つである。
我々市民の司法や法曹への無関心が、社会の病を進行させていないか?

今日このあとの法務委員会、注目だ。
「法曹養成」の問題は、とかく”内輪ネタ”になりやすい。しかし、違う。この問題は、「司法」という社会インフラ、ひいては、我々個人の自由の最後の砦を構成する人員の問題なのだ。最終的にその帰趨にもっとも影響を受けるのは、実は我々一個人なのである。是非自分事として、頭の片隅で全力で注目してほしい。

07:56
2017/03/23

籠池理事長の『駆け込み訴え』

Tweet ThisSend to Facebook | by 倉持
「申し上げます。申し上げます。旦那さま。あの人は、酷い。酷い。はい。厭な奴です。悪い人です。ああ。我慢ならない。生かして置けねえ。
 はい、はい。落ちついて申し上げます。あの人を、生かして置いてはなりません。世の中の
です。はい、何もかも、すっかり、全部、申し上げます。私は、あの人の居所を知っています。すぐに御案内申します。ずたずたに切りさいなんで、殺して下さい。あの人は、私の師です。主です。けれども私と同じ年です。三十四であります。私は、あの人よりたった二月おそく生れただけなのです。たいした違いが無い筈だ。人と人との間に、そんなにひどい差別は無い筈だ。それなのに私はきょう迄あの人に、どれほど意地悪くこき使われて来たことか。どんなに嘲弄されて来たことか。ああ、もう、いやだ。堪えられるところ迄は、堪えて来たのだ。怒る時に怒らなければ、人間の甲斐がありません。私は今まであの人を、どんなにこっそり庇ってあげたか。誰も、ご存じ無いのです。あの人ご自身だって、それに気がついていないのだ。いや、あの人は知っているのだ。ちゃんと知っています。知っているからこそ、尚更あの人は私を意地悪く軽蔑するのだ。あの人は傲慢だ。私から大きに世話を受けているので、それがご自身に口惜しいのだ。あの人は、阿呆なくらいに自惚屋だ。私などから世話を受けている、ということを、何かご自身の、ひどい引目ででもあるかのように思い込んでいなさるのです。あの人は、なんでもご自身で出来るかのように、ひとから見られたくてたまらないのだ。ばかな話だ。世の中はそんなものじゃ無いんだ。この世に暮して行くからには、どうしても誰かに、ぺこぺこ頭を下げなければいけないのだし、そうして歩一歩、苦労して人を抑えてゆくより他に仕様がないのだ。あの人に一体、何が出来ましょう。なんにも出来やしないのです。私から見れば青二才だ。私がもし居らなかったらあの人は、もう、とうの昔、あの無能でとんまの弟子たちと、どこかの野原でのたれ死していたに違いない」

これは、今日行われた籠池理事長の証人喚問における安倍首相に対する発言、ではない。
太宰治の『駆け込み訴え』の一節である。三島の「神の視点」とは対照的な主観最大化天才の太宰の真骨頂という作品である。これは、キリストを裏切ったユダが、キリストへの愛と憎しみ、そして、裏切った理由をまくしたてる、そんな場面だけを一気に描いた作品だ。文庫本にしてたった13Pの作品である。しかし、そのユダのグロテスクな心理描写の迫真性と、心の中に渦巻く愛憎逆説的な感情の相克と、それを語るスピード感で、本当に一気に読める。

は、今回、籠池理事長をの証人喚問を聞いていて、この『駆け込み訴え』のユダを思い出した。
すなわち、籠池理事長は、安倍晋三を愛していた。恋していた。
安倍首相は、この男の恋心を蔑ろにした。
籠池理事長は、証人喚問の中で何度も安倍首相を「敬愛していた」を繰り返した。

双方向だと確信していた愛が、一方的であったとわかったとき、それがないがしろにされたとき、愛が憎悪にそのまま変身し、牙をむく。今回にはあてはまらないが、ストーカーの心理構造もこれに近い。

安倍晋三は、否、安倍晋三という権力は、一人一人からの愛など関係なかった。そのような愛や憎しみが織りなし収斂された結果の政治権力という「世俗的パワー」の源泉を甘くみていた。もっとわかりやすくいえば、安倍晋三は「人の心」がわからなかった。
過小評価した、いや、安倍晋三が理解できなかった籠池の男の恋心が、事態をここまで動かした。
人の心の総体が政治権力の源泉だとすれば、その核心を理解していなかった安倍晋三は、この人の心のねじれによって足元をすくわれるかもしれない。
もちろん、安倍晋三を駆け込み訴えでいうイエスに見立てたり、籠池に肩入れするつもりなど毛頭ない。まったくない。
しかし、最高法規をはじめとした法規範や慣習、安定性や継続性、信頼や約束、暗黙のルール等、ありとあらゆる規範や論理を軽視・無視してきた政権が、それらよりもはるかに地べたに近い「人の心」の軽視・無視で、その権力を追われるかもしれないという状況に、政治と権力に埋め込まれた人間の業を感じずにはいられないのである。
繰り返すが、今、上に挙げた最高法規等々の源泉も、これまた「人の心」である。

さあ、次はだれの「駆け込み訴え」を聞こうか


18:26
2017/03/23

この「青い空」と立憲主義者たちの欺瞞ー愛子さまの卒業作文に寄せて

Tweet ThisSend to Facebook | by 倉持
昨日、愛子さまが学習院女子中等科をご卒業された。おめでとうございます。
ご卒業にあたり、記念文集に「世界の平和を願って」と題された作文を寄せられている。
内容は、僭越ながら趣旨をまとめれば、あたりまえの日常的な平和や自由があたりまえではないとお感じになられるようなり、この意識変化のきっかけは広島訪問によって戦時中に思いを馳せたからであるというものである。文末には、核なき世界への志向もされておられる。

この作文の核心部分は、以下であろう。このように綴られている。

「何気なく見た青い空。しかし、空が青いのは当たり前ではない。毎日不自由なく生活ができること、争いごとなく安心して暮らせることも、当たり前だと思ってはいけない。なぜなら、戦時中の人々は、それが当たり前にできなかったのだから。日常の生活の一つひとつ、他の人からの親切一つひとつに感謝し、他の人を思いやるところから「平和」は始まるのではないだろうか。」

もちろん、戦時中に思いをいたせば、我々個人にとっての「青い空」という日常があたりまえではないという主題がそこにはある。
これに加えて、この「青い空」について、愛子さまの意識にあるかどうかはわからないが、今一つの文脈を指摘したい。
すなわち、憲法及び立憲秩序の「飛び地=皇室」から見た空も、その秩序内にいる我々が見る空も、同じ「青い空」なはずである。しかし、ここには、これがあたりまえのようで当たり前ではないのだ、という文脈における、現代日本の自由及び統治構造が抱える諸問題への投げかけである。

「自由」という視点から考えたとき、皇族の方々は一般的市民が享受しうる自由を著しく制限されている。それは、美智子皇后から、雅子さま及び愛子さまの三代にわたって、「皇族」であられることでおかれている、内外からのその人格的重圧という非常に困難な環境ゆえに、過度な精神的負荷がかかっていることは明らかである。心身への影響も、三代続けて問題視されるべき状況にある。

この度、この作文が公表され、いわゆるリベラルや立憲主義等を「大切である」と標榜しているような人々(ここでは批判的意味をこめて「立憲主義者」と呼ぶ)から、作文の内容を称賛するような言説が散見された。「平和」や「核廃絶」に言及していることも原因であろう。
しかし、彼らから、愛子さまの「自由の現況」についての憂いや、皇室制度そのものへの考察、ひいては、それを含めた現在そして将来にわたる日本型立憲秩序への言説は、一切聞かれない。
その理由は単純で、愛子さまの作文の内容が、彼らの主張にとって親和的である限りにおいて援用しているからにほかならない。だからこそ、その作文を書かれた本人の「自由の現況」や、日本型立憲主義の核にある皇室制度については、言及がない。現代社会における皇室制度をどのように考えるのか、存続させるべきか否かも含め、これについての意見表明も自由にすればいいではないか。その中で、市民的自由が著しく制限された皇室制度における皇族の方々の自由について、いかに考えていくのかということに触れるべきであろう。
同じ日本国に存在する自然人でありながら自由を制限されつつも日本型統治機構を実質的に支えている皇室制度という日本型の権威と権力の関係等、立憲主義及び憲法秩序について真にコミットするならば、現代日本及び憲法秩序における自由及び統治の根幹でもある皇室制度の在り方と、皇族の方々の「自由の現況」について言及すべきである。立憲主義の核心は個人の自律であり、「自由」であるにもかかわらず、そこには言及しない。これは、まさに、「自由」や「立憲主義」のご都合主義的な援用であり、ダブルスタンダードである。
私は、譲位問題を含め、皇室制度の在り方をめぐる近年の議論状況に触れ、立憲主義やリベラルを標ぼうする人間にとって、「立憲主義」は片面的なイデオロギーでしかない、という思いをより一層強くすることになった。
その思いをさらに強くさせたのが、この愛子さまの作文をめぐる、人々の様々な言説である。

これはご譲位についての議論状況とも密接に関連している。今上陛下のお考えがリベラルであったり立憲主義についての深いご考察については賛意を表明することのある「立憲主義者」たちは、陛下ご自身の譲位問題について、陛下のお気持ちを叶えるための方策はおろか、ほぼ一切発言をすることすらなかった。皇族の方々を、立憲主義や憲法秩序の枠内と「飛び地」その間でご都合主義的に行き来させているのは誰か。
立憲主義やリベラリズムは、本来厳しい自己批判と自己吟味を我々に課すはずである。

愛子さま(皇族の方々)が見る「青い空」と、我々個人が見る「青い空」は、本来は同じである。しかし、それがあたりまえのようであってあたりまえではない、という命題が突き付けるこの国の「自由の現況」について、片面的・ご都合主義的な思想的態度ではなく、真正面から向き合わねばならないのではないだろうか。
共謀罪についても同じである。テロの脅威や安全・安心を語る言説には、監視や拘束の対象となる人間の自由と自分の自由はまるで別物のように扱う感覚がある。自由にはアプリオリに制限されてもよい二級の自由など存在しない。ここに欠如しているのは、自分が常に他者の立場と入れ替わるかもしれない、そして、入れ替わったとしてもそれを受容できるのかという視点である。
これからの社会を語り、そして生きていくために、我々の社会という同一平面上に広がる自由を遮断したり分断しようとする権力や自己欺瞞から解き放たれた、逞しい自由論の再生なくして、この社会の再生もない。
この社会の誰もが同じ「青い空」を見ているはずだ、というあたりまえのことをあたりまえに共有できる社会を築こうではないか。

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