倉持麟太郎の“Rin”sanity
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2017/04/27new

権力分立と道徳的中立性の黄昏(2)

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【国家権力の作法】

さて、国家権力同士の権力の分立・均衡を「横」の関係だとすれば、国家と個人の関係において、いわば「縦」のルールがある。それが、国家の個人の道徳観に対する中立性の要請である。国家は、ある特定の道徳観や思想にコミットし、奨励してはならない。典型的な例としては、日本国憲法20条にも定めのある政教分離である。なぜなら、国家が特定の価値観に「お墨付き」を与えれば、それ以外の価値観は“二級”となってしまうが、この社会に“二級”として劣後して扱われるべき道徳観や世界観など存在しないからである。「個人」であれば、どのような価値観を奉じていても独立対等に扱われる。これが立憲主義の目指した共生のプロジェクトだ。ここから、国家権力の活動する公的領域と我々個々人の私的領域を区分するという発想が生まれる。我々は、私的領域(個々人の「善き生き方」の決定)においては、他者加害にわたらない限りどのような道徳観に基づいて行動することも自由であり、故に、公的領域(「良き社会」の決定)における決定の場面では、国家は、特定の価値観を押し付けたりすることのないよう道徳的に中立であることを求められる。道徳的中立性の侵犯は、間接的に、我々個々人の私的領域への侵犯なのである。

個人の自律の核心は、「自己の生という物語の作者は自己でしかない」というところにあるが、国家がある特定の道徳観にコミットした決定をするということは、この物語を国家や政治権力に書かれてしまうのと同じことになってしまう。あくまで個々人の「善き生き方」は私的決定であり公共的な決定でありえない。国家が道徳的にある価値観にコミットするということは、善き生き方の決定を国家が代行するのに等しい。

【道徳的中立性を捨てた道徳的国家】

先日、文科省が、道徳教科書の検定で、教科書の物語の作中に「パン屋」の記述があったところ、「教科書全体で指導要領にある『我が国や郷土の文化と生活に親しみ、愛着をもつ』という点が足りないため」「学習指導要領の示す内容に照らして、扱いが不適切」との検定意見を付した。これを東京書籍が「忖度」して、パン屋の記述を「和菓子屋」に変更したという事例である。これには、忖度の問題やパン屋か和菓子屋かという話もあるが、それ以前に、「我が国や郷土の文化と生活に親しみ、愛着をもつ」という特定の道徳的価値観を国家が教科書検定を通じて注入するということが大問題である。これは、明らかに“愛国心的”という特定の道徳観への誘導であり、国家の道徳的中立性に反する。具体的に、「記述を変更する」という明白な効果まで生じている。他にも、改正教育基本法によって幼稚園においても愛国心についての評価が行われる等々、すべて国家の道徳的中立性の弛緩と私領域への侵犯という文脈に連なっている。当然、愛国心自体を非難しているのではない。愛国という特定の道徳観は、私的領域において、各人が自由に保持すればいいものであるし、愛国心の有無の押しつけは、個人の人格の根源的対等性にも背馳する。なにより、“愛”は強制されるものでなく醸成されるものである。公的領域における良い社会の構築によって、人々の愛国心を獲得すべき筋の話である。

【社会システムとしての公私区分の崩壊】

さらに、実生活上の公私の破壊と侵犯がある。共謀罪(テロ等準備罪)だ。政府は、過去三回廃案になった共謀罪に絞りをかけたというが、組織的犯罪集団に「一変」するかどうか、共謀(計画)の有無・中身を検知するには、監視の目や耳を私生活に溶け込ませなければ実現できない。政府がその批准を共謀罪法案制定のよりどころとするTOC条約20条に「監視等」「必要な措置」を講ずる義務を締約国に課しているのは、まさに監視社会への政府の意思を端的に示す証左である。

繰り返しになるが、「公」の豊かさは「私」の豊かさに依存する。公権力による監視の拡大は、公私の悪しき同化、境界線のなし崩し的無力化を生む。委縮した「私」領域からは多様性や豊かさは消え、社会全体の収縮とともに、“息をつく余地”を失った自由は窒息死する。

国家が道徳的中立性を脱ぎ捨て、物理的にも私生活に国家権力の目が張り巡らされる可能性がある。人類が共生のために構築してきた公私の区分が、いとも簡単に、今まさに、決壊している。

【日本型立憲主義・民主主義の再考】

強大な国家権力の“間違いうる権力行使”を抑制することで、私的空間における我ら個人の「間違いうる」ダイナミズム、すなわち一人として同じでない多様な自己の善き生への試行錯誤・トライを保障する。これが立憲主義のプロジェクトであったはずだし、このような個々人の多様な善き生へのトライが保障されていない社会など生きる意味がない。

権力の集中・統合、そして道徳的中立の侵犯は、我々一人一人の多様性を奪い、ひいては我々の社会の多様性を奪う。公的空間と私的空間を切り分けるといっても、結局はその構成員は我ら個人であるから、登場人物は同じであり、公的空間の豊かさは私的空間の豊かさに依存する。権力集中は、一見、統治の便は良さそうだが、権力による価値の選別、単一的道徳観の称揚によって、権力の豊かさの調達源である私的空間が貧困化する。皆が“忖度”と“自主規制”によって萎縮した私的空間もろとも、公的空間も貧困化する。

多様性と寛容さを失った権力、そして社会は、自壊的ですらある。

我々は本当にそんな社会を望んでいるのか?意識的無自覚は最大の罪である。

立憲主義とは“やせ我慢”である。まったく違う価値観を持つ「他者」を承認しなければならない。自己の考える「正しさ」を意図的に相対化し、共生のための熟議を尽くさねばならない。本当は否定したい、正しさを教えてあげたい、という人間の性からすれば、相当にタフな目論見である。多数派(権力の側)にいれば、権力の集中を望むかもしれない。しかし、立憲主義は、常に自己が他者と立場が入れ替わる可能性とその想像力も要求する。だからこそ、「多数派だから」という理由だけでは、立憲主義のテストは通過できない。我々の社会が、生きる意味のある豊かさを獲得するためにも、もう一度、権力の均衡という観点から、日本型立憲主義・民主主義の再定位が迫られている。

昔、学校の教室には「教室は間違えるところ」という張り紙がされていた。
「間違えること」が認められるということは、絶対的な“正解”はないということを意味する。特に道徳については、数字や記号的な正解が存在しない。各人が多様な価値観を有していることを前提に、個々人の道徳観すべてを尊重するということだからだ。国家が教科書を通じて、ある道徳観を奨励すれば、それが“正解”となり、それ以外は不正解となる。画一的な正解の存在は、正解と不正解を分断し、不正解の劣後というレッテルを生み出す。このような「間違えること」のできない教室では、多様性は滅失する。

「教室」は社会の縮図である。教室で起こっていることは、今まさに社会においても生起している。だからこそ、「社会は間違えるところ」こんな張り紙のある寛容な社会を自分たちの手で再構築しようではないか。


10:26
2017/04/27new

権力分立と道徳的中立性の黄昏(1)

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人類がこの歴史の中で獲得できた唯一といってもよい教訓は、「人は間違いうる」という、人間の可謬性の確信である。

革命を経て、まさしく“間違いうる”「人」が支配した絶対王政が倒れた。しかし、主権が絶対君主から我々国民の手に戻っても、「法」の支配のタテマエのもと、国家権力の担当者は、相変わらず人間である。そこで、「間違いうる」人間の権力行使を抑制するべく編み出された知恵が「権力分立」だ。

なんのための権力分立か、権力行使の抑制か。すべては、我ら「個人」の尊厳を保障するためである。宗教戦争や革命を通じて、今までの「貴族」「聖職者」「封建領主」「奴隷」という看板をご破算にし、人種、価値観、年齢、性別関係なく、立憲主義社会の構成員の最小単位として、すべて人は独立・対等の「個人」であるとされた。教科書的に立憲主義の“本籍地”のように引用されるフランス人権宣言16条には、「権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていないすべての社会は、憲法をもたない」とあるが、これは、立憲主義(憲法)の核心的価値である「個人」の尊厳を暴走する権力から守る目的のため、権力分立を手段的に採用することを確認したものだ。

【権力分立を巡る変奏曲】

現代日本社会において、権力分立は、憲法典に「三権分立」として規定されているだけではなく、社会構造の中にも様々な形で装置として埋め込まれている。いわば“多元的”権力分立によって、Check&Balanceをはかっていたものが、現在、悉く分立のタガがはずれ、権力統合・権力集中の遠心力を止められなくなっている。以下に見ていきたい。

《権力vs法》

初めに、法規範及び法による権力分立の企てについてみたい。三権分立の本籍地である日本国憲法によれば、裁判所は違憲審査権により政治部門を牽制し、議院内閣制ではるものの立法府と行政府は、解散等による緊張関係を前提に、抑制均衡している「はず」である。しかし、最高裁は、「事件」の解決に必要最小限度でしか行使されない違憲審査制のもと(付随的違憲審査制)では、抽象的一般的に法令を審査することができず、違憲立法(安保法制)や、違憲の国家行為(例えば、2015年秋に、憲法53条に基づく臨時会の召集が適法に求められたが、政府は臨時会を開かなかった。これは憲法上の義務違反であるが、現行制度上是正するシステムが存在しない。)を正すことができない。解釈改憲にも何らの歯止めにもならず、まさに「憲法の番人」との呼び名は“名誉的称号”に堕している。憲法自体も、今指摘した制度的欠缺があるばかりか、自衛隊の存在と9条という欺瞞を抱えながら、まるで美しいもののように70歳を迎えてしまった。憲法を裸の王様にしないためにも、国会や国民の従来の「護憲vs改憲」という不毛な二項対立を超えた議論が求められるが、憲法審査会等をみても期待できそうにない。

 最高裁人事は、内閣が深く関与しているため、ここには「違憲判決をださない」ことと「人事に手を突っ込まない」こととのトレードオフが存在する。これでは、違憲立法審査権は、“刃の無い刀”である。

 また、政治部門に目を向ければ、議院内閣制とはいえ、もはや、国会の第一党である自民党は官邸(政府)の下請け機関と化し、まるで一体である。ここに何らの緊張関係はない。各委員会での委員長(立法府)の政府(行政府)への過剰な配慮は、立法府の矜持を放棄したものといって過言ではない。

 さらに、違憲立法審査権を実質的に補ってきた機関として内閣法制局がある。日本の違憲判決が少ないのは、内閣法制局による事前審査が極めて厳格に機能していたからだ。しかし、内閣法制局人事も、政策にあわせて挿げ替えられ(集団的自衛権行使賛成派の故・小松一郎氏を大抜擢した異例の人事は記憶に新しい)、答弁は政府擁護に堕し、政権の法的お墨付き与え機関になってしまった。

 もはや、法規範は権力集中を止められない。

《権力vsメディア》

 社会的権力として、第4の権力と言われたのがメディアであった。メディアも、権力の監視チェック機能として、権力との緊張関係の中で、憲法21条の表現の自由の“公共的使用”を認められた特別な職能集団である。しかし、大手メディアの幹部は総理とこぞって会食し、懐柔されなければまだしも、政権を忖度した報道しかしない。ジャーナリズムの役割を「官邸の情報をどれだけ早く伝えるか」などと考えている人間すらいる。このような批判的精神を失った記者は、とっとと政府の広報に転職すればよい。特に政治部記者の腐敗・堕落は著しい。議員や議会及び党の部屋にまるで党職員のように入りびたり、それをもって「情報収集」としている、これを通常のものとしている政治家とメディア双方の“ウェット”な感覚は、国民感覚とは程遠い。憲法は、このような者たちのために、表現の自由の公共的使用を認めたわけではない。

 さらに、政権側も、高市総務相が「電波停止」発言により、悪しき政治的中立性を掲げてメディアを統制したり、金田法相が、マスコミに「共謀罪については厳しい質問をしてくれるな」という趣旨のペーパーを配布するなど、メディアへの統制及び癒着の例は枚挙にいとまがない。これでは、現在のメディアには、社会的権力分立を担わせるには荷が重すぎる。

《権力(中央)vs地方》

 憲法92条以下にも「地方自治」の規定があるように、中央権力と地方権力も、権力分立の一形態である。しかし、沖縄問題をみればわかるとおり、住民の意思がどれだけ強大かつ画一的に表明されても、まったく顧みられることはない。住民自治など画餅だ。アベノミクスも、中央の利潤が地方へというモデルだし、自民党改憲草案に新設される緊急事態条項の発想も、緊急時の権力集中である。災害大国日本の教訓は、災害時は地方に権限を落とせ、ではなかったか。

《権力vs権威》

加えて、日本には特殊な権力分立があった。権力と権威、すなわち権力と天皇の権力分立である。今上陛下は、象徴の在り方として、憲法の枠内で、ご公務を積極的にされ“能動的象徴性”を確立された。政治的権能がない中、ハンセン病の施設訪問等、忘れ去られそうな少数者のところに訪問することにより、無言で「我らの同胞がここでも苦しんでいる」とメッセージを発し、弱者に寄り添った。これも「公務負担軽減」というミスリード有識者会議に始まり、今回ご譲位が「例外的」であることを確定的にすることによって、陛下の意思や、皇位の安定的継承への想いを踏みにじった。一代限りの特例法の悪しき先例性は、ときの多数派による強制退位を可能にすることである。本政権は、権威からの牽制も、無力化した。

《権力vs与党第一党》

 55年体制と言われた自民党一党体制においても、自民党は党内で右から左まで非常にバリエーション豊かな人材と派閥で構成されていたため、「党内政権交代」と言われるほど、党内勢力同士の均衡と抑制が働いていた。しかし、小選挙区制における公認権も相まって、人事権をちらつかせながら、現政権幹部は、自民党内における異論も排除し、党内においても「一強多弱」状態を作出した。議会内での強弱構造は覆りそうにない現在、党内熟議が頼みの綱であるが、これも期待できない。

 以上のとおり、現政権は、ありとあらゆる権力分立の契機を無力化することに成功している。


10:24
2017/04/02

【明日4月3日7時?『モーニングクロス』@東京MX】

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【明日4月3日7時?『モーニングクロス』@東京MX】
明日の新年度一発目のクロスにでます!
パン屋和菓子屋の話とか、社会への満足度、そしてそれと並走する権力について、話まっせ権力分立と皇室制度にも触れます!


20:43
2017/03/31

司法の敵は誰か?!法曹を育てる社会意識の衰退

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あまりに頭にきたので書く

本日3月31日にある衆議院法務委員会で議題に上る司法修習生に対する「給費制」について、極めて公平・公正を欠き、自分さえよければよい視野極小のエゴイスティックな議論をしている民進党議員がいるので、糾弾するために書く。あまり話題になっていないが、皆さんも注目してほしい。こいつは司法の敵だ。

弁護士になるには、ご存知のとおり、司法試験を受験し、合格したあとに、「司法修習」という研修期間(昔は2年、今は1年)を経て、もう一度研修所の卒業試験たる「二回試験(司法試験から数えて二回目だから)」に合格すれば、晴れて弁護士、検察官、裁判官、のどれかになれる。
(この最初の司法試験を受験するためにも、10数年前にできたロースクールを卒業しなければ受験資格を得られなかったのだが、予備試験という、大検みたいなもに受ければ受験資格を得られるようになった。)
今日ここで吠えたいのは、この司法修習生に対する「給料」の話である。
戦後、この研修期間には、「給費」として、一定額の給料が支払われていた。
しかし、2011年、民主党政権時代、この給費制が「貸与制」に変更された。
すなわち、司法試験に合格したのち、司法修習生になるときに、貸与制によって金を借りるか、金を借りないか、選ばされるのである。
つまり、300万円強の借金を背負って弁護士業を始めるかどうかの選択を強いられる。
では借りなければいいではないか。確かにそうだ。実家から通えばよい。貯金で暮らせばよい。アルバイトをすればよい。
しかし話はそんなに簡単ではない。司法修習は、全国的に配属され、自分の意とはまったく無関係に配属が決まる。引っ越し費用は?家賃は?生活費は?
しかも、司法修習生には、「修習専念義務」というのが法的に課されていて、兼業禁止である。つまり、アルバイトもできない。収入の道がない。これを読んでいるあなた、あなたが自分の縁もゆかりもない場所に配属され、実家は仕送りする体力もない、アルバイトもできない。それで司法修習できますか?本当の意味で専念しますか?
私はロースクール創設のときもその学費の高さをかなり問題視したが、これでは金持ちしか、あるいはたまたま環境的にフィットした人しかなれないではないか。
社会の階層の流動性を極めて鈍くする、階層間の参入障壁を上げてしまう、こんな政策には反対であった。
これが、司法修習でもう一回固定化する。
上記のような事情から、事実上、国からの貸与を受け入れなければ、修習ができない、事実上の貸与しか選択肢がない。

この世に存在する職業で、その職業になろうとしたら事実上300万円の借金を背負わされる職業があるか?

答えてほしい、あるか?
借金を背負わされたから闇稼業で働くのとは逆だぞ。
何かを始めたら金がかかる、というのとは違うぞ?国から借金をさせられるのだぞ?

この問題は、「弁護士を増やすべきか」「ロースクールをどうするのか」「司法試験の受験資格をどうするのか」等の問題とからめて論じられる。
しかし、極論をいえば、法曹という仕事に魅力がなくなったのである。2%しか受からなかった時代に5万人受けていた試験に、25%受かっても8千人しか受験しない。そもそもの志望者が激減している。これは、小手先の改革ではどうにもならない。

「ロースクールと受験資格の切り離し」という案もあるが、私はロースクール至上主義ではないため、予備試験含め受験の窓口は広げるべきと考えるが、しかし、切り離せば確実にロースクールは衰退する。司法試験塾が巨大マーケットを形成し、誰もがそこで答案作成の「パターン」を覚えて吐き出す「金太郎あめ答案」からの脱却をかかげ、これからの社会に対応すべく「考える力」を養うという理念で司法制度改革の目玉であったロースクール。ロースクールという社会資源は、残すなら活用すべきである。国費を投入したものを、ダメだったから放置する、というのではあまりに無責任である。

法曹資格というリスクが原因ともいわれる。しかし、私は、法曹は、弁護士法1条に「人権の擁護と社会正義の実現」という目的が謳われていることをいうまでもなく、そのリスクを超えてでもこの仕事にしかコミットできない価値がある、という理念型の職業だと思っている。そうであれば、リスクを負ってでも人間社会が希求する価値の実現者・行動者たりたい、という思い、ひいては、そのような価値へのコミット自体が衰退しているのではないか。同時に、国としても、社会自体、再チャレンジを認める、目指したい職業を安心して目指せる社会を構築する必要がある。

また、人数が膨れ上がっているから社会の受け入れ先がないというような需要との関係を持ち出すムキもあるが、そんなものは、我々一市民的自由としての社会保障の話とは違い、厳しい”法曹”市場における「競争」の話なのだから、「全弁護士に仕事があるべきだ」という前提自体が間違っている。無能な法曹はどんどん市場から退場したらよろしい。なぜ、民間のベンチャーや中小企業が裸で戦いがんばっているのに、弁護士のみ業界保護の話をするのか、より広く社会の隅々まで法律家が浸透する社会、ということよりも、目の前の食い扶持、という既得権益にしがみつく化石法曹たちは、とっとと市場から淘汰されるべきである。
私は、ロースクールの失敗も一部認めるし(これには、複数要因がある。ロースクールでの教育自体はとても良いものがある)、

そして、聞いてあきれるのが、このような議論に対して、衆議院法務委員会は「あなたのいうことはもっともである」という雰囲気で、反論もないそうだ。おそらく、この民進党議員が法務委員会でそこそのベテランだからだ、敵も味方も自分の頭で考えて中身を吟味して、批判的に検証することすらしない。聞いてあきれる。これぞ日本社会の悪しき側面の具現化。
つまり、"to do"(何をするか)より"to be"(なんであるか)が最優先される。どんな職業、身分、地位、性別、年齢、キャリアだろうが、そのひとのdoで判断するのがフェアネスであるが、日本社会は往々にして、「政治家だから」「弁護士だから」「医者だから」という、その人がなんであるか=to be によって批判的検証をパスしてしまう。
これが日本の”国権の最高機関”の法務委員会だぞ?これに無批判な連中が共謀罪を議論するのか?マスコミ批判もいいが、リーガルマインドとは、事実と論理だけに基づいて、常にそこにある多数派や通説に批判的吟味を加える精神のことのはずだ。日本の法務省にも大臣にも法務委員会にも、リーガルマインドもフェアネスもない。是非民進党含む野党から、このような不公平な議論を称揚する愚かな言説に批判的な声が上がることを期待している。

中世、いわゆる大学というものがこの社会に創設されたとき、学部は大体三つだった。

神学部(心の病を治す)
医学部(体の病を治す)
法学部(社会の病を治す)

この三つである。
我々市民の司法や法曹への無関心が、社会の病を進行させていないか?

今日このあとの法務委員会、注目だ。
「法曹養成」の問題は、とかく”内輪ネタ”になりやすい。しかし、違う。この問題は、「司法」という社会インフラ、ひいては、我々個人の自由の最後の砦を構成する人員の問題なのだ。最終的にその帰趨にもっとも影響を受けるのは、実は我々一個人なのである。是非自分事として、頭の片隅で全力で注目してほしい。

07:56
2017/03/23

籠池理事長の『駆け込み訴え』

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「申し上げます。申し上げます。旦那さま。あの人は、酷い。酷い。はい。厭な奴です。悪い人です。ああ。我慢ならない。生かして置けねえ。
 はい、はい。落ちついて申し上げます。あの人を、生かして置いてはなりません。世の中の
です。はい、何もかも、すっかり、全部、申し上げます。私は、あの人の居所を知っています。すぐに御案内申します。ずたずたに切りさいなんで、殺して下さい。あの人は、私の師です。主です。けれども私と同じ年です。三十四であります。私は、あの人よりたった二月おそく生れただけなのです。たいした違いが無い筈だ。人と人との間に、そんなにひどい差別は無い筈だ。それなのに私はきょう迄あの人に、どれほど意地悪くこき使われて来たことか。どんなに嘲弄されて来たことか。ああ、もう、いやだ。堪えられるところ迄は、堪えて来たのだ。怒る時に怒らなければ、人間の甲斐がありません。私は今まであの人を、どんなにこっそり庇ってあげたか。誰も、ご存じ無いのです。あの人ご自身だって、それに気がついていないのだ。いや、あの人は知っているのだ。ちゃんと知っています。知っているからこそ、尚更あの人は私を意地悪く軽蔑するのだ。あの人は傲慢だ。私から大きに世話を受けているので、それがご自身に口惜しいのだ。あの人は、阿呆なくらいに自惚屋だ。私などから世話を受けている、ということを、何かご自身の、ひどい引目ででもあるかのように思い込んでいなさるのです。あの人は、なんでもご自身で出来るかのように、ひとから見られたくてたまらないのだ。ばかな話だ。世の中はそんなものじゃ無いんだ。この世に暮して行くからには、どうしても誰かに、ぺこぺこ頭を下げなければいけないのだし、そうして歩一歩、苦労して人を抑えてゆくより他に仕様がないのだ。あの人に一体、何が出来ましょう。なんにも出来やしないのです。私から見れば青二才だ。私がもし居らなかったらあの人は、もう、とうの昔、あの無能でとんまの弟子たちと、どこかの野原でのたれ死していたに違いない」

これは、今日行われた籠池理事長の証人喚問における安倍首相に対する発言、ではない。
太宰治の『駆け込み訴え』の一節である。三島の「神の視点」とは対照的な主観最大化天才の太宰の真骨頂という作品である。これは、キリストを裏切ったユダが、キリストへの愛と憎しみ、そして、裏切った理由をまくしたてる、そんな場面だけを一気に描いた作品だ。文庫本にしてたった13Pの作品である。しかし、そのユダのグロテスクな心理描写の迫真性と、心の中に渦巻く愛憎逆説的な感情の相克と、それを語るスピード感で、本当に一気に読める。

は、今回、籠池理事長をの証人喚問を聞いていて、この『駆け込み訴え』のユダを思い出した。
すなわち、籠池理事長は、安倍晋三を愛していた。恋していた。
安倍首相は、この男の恋心を蔑ろにした。
籠池理事長は、証人喚問の中で何度も安倍首相を「敬愛していた」を繰り返した。

双方向だと確信していた愛が、一方的であったとわかったとき、それがないがしろにされたとき、愛が憎悪にそのまま変身し、牙をむく。今回にはあてはまらないが、ストーカーの心理構造もこれに近い。

安倍晋三は、否、安倍晋三という権力は、一人一人からの愛など関係なかった。そのような愛や憎しみが織りなし収斂された結果の政治権力という「世俗的パワー」の源泉を甘くみていた。もっとわかりやすくいえば、安倍晋三は「人の心」がわからなかった。
過小評価した、いや、安倍晋三が理解できなかった籠池の男の恋心が、事態をここまで動かした。
人の心の総体が政治権力の源泉だとすれば、その核心を理解していなかった安倍晋三は、この人の心のねじれによって足元をすくわれるかもしれない。
もちろん、安倍晋三を駆け込み訴えでいうイエスに見立てたり、籠池に肩入れするつもりなど毛頭ない。まったくない。
しかし、最高法規をはじめとした法規範や慣習、安定性や継続性、信頼や約束、暗黙のルール等、ありとあらゆる規範や論理を軽視・無視してきた政権が、それらよりもはるかに地べたに近い「人の心」の軽視・無視で、その権力を追われるかもしれないという状況に、政治と権力に埋め込まれた人間の業を感じずにはいられないのである。
繰り返すが、今、上に挙げた最高法規等々の源泉も、これまた「人の心」である。

さあ、次はだれの「駆け込み訴え」を聞こうか


18:26
2017/03/23

この「青い空」と立憲主義者たちの欺瞞ー愛子さまの卒業作文に寄せて

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昨日、愛子さまが学習院女子中等科をご卒業された。おめでとうございます。
ご卒業にあたり、記念文集に「世界の平和を願って」と題された作文を寄せられている。
内容は、僭越ながら趣旨をまとめれば、あたりまえの日常的な平和や自由があたりまえではないとお感じになられるようなり、この意識変化のきっかけは広島訪問によって戦時中に思いを馳せたからであるというものである。文末には、核なき世界への志向もされておられる。

この作文の核心部分は、以下であろう。このように綴られている。

「何気なく見た青い空。しかし、空が青いのは当たり前ではない。毎日不自由なく生活ができること、争いごとなく安心して暮らせることも、当たり前だと思ってはいけない。なぜなら、戦時中の人々は、それが当たり前にできなかったのだから。日常の生活の一つひとつ、他の人からの親切一つひとつに感謝し、他の人を思いやるところから「平和」は始まるのではないだろうか。」

もちろん、戦時中に思いをいたせば、我々個人にとっての「青い空」という日常があたりまえではないという主題がそこにはある。
これに加えて、この「青い空」について、愛子さまの意識にあるかどうかはわからないが、今一つの文脈を指摘したい。
すなわち、憲法及び立憲秩序の「飛び地=皇室」から見た空も、その秩序内にいる我々が見る空も、同じ「青い空」なはずである。しかし、ここには、これがあたりまえのようで当たり前ではないのだ、という文脈における、現代日本の自由及び統治構造が抱える諸問題への投げかけである。

「自由」という視点から考えたとき、皇族の方々は一般的市民が享受しうる自由を著しく制限されている。それは、美智子皇后から、雅子さま及び愛子さまの三代にわたって、「皇族」であられることでおかれている、内外からのその人格的重圧という非常に困難な環境ゆえに、過度な精神的負荷がかかっていることは明らかである。心身への影響も、三代続けて問題視されるべき状況にある。

この度、この作文が公表され、いわゆるリベラルや立憲主義等を「大切である」と標榜しているような人々(ここでは批判的意味をこめて「立憲主義者」と呼ぶ)から、作文の内容を称賛するような言説が散見された。「平和」や「核廃絶」に言及していることも原因であろう。
しかし、彼らから、愛子さまの「自由の現況」についての憂いや、皇室制度そのものへの考察、ひいては、それを含めた現在そして将来にわたる日本型立憲秩序への言説は、一切聞かれない。
その理由は単純で、愛子さまの作文の内容が、彼らの主張にとって親和的である限りにおいて援用しているからにほかならない。だからこそ、その作文を書かれた本人の「自由の現況」や、日本型立憲主義の核にある皇室制度については、言及がない。現代社会における皇室制度をどのように考えるのか、存続させるべきか否かも含め、これについての意見表明も自由にすればいいではないか。その中で、市民的自由が著しく制限された皇室制度における皇族の方々の自由について、いかに考えていくのかということに触れるべきであろう。
同じ日本国に存在する自然人でありながら自由を制限されつつも日本型統治機構を実質的に支えている皇室制度という日本型の権威と権力の関係等、立憲主義及び憲法秩序について真にコミットするならば、現代日本及び憲法秩序における自由及び統治の根幹でもある皇室制度の在り方と、皇族の方々の「自由の現況」について言及すべきである。立憲主義の核心は個人の自律であり、「自由」であるにもかかわらず、そこには言及しない。これは、まさに、「自由」や「立憲主義」のご都合主義的な援用であり、ダブルスタンダードである。
私は、譲位問題を含め、皇室制度の在り方をめぐる近年の議論状況に触れ、立憲主義やリベラルを標ぼうする人間にとって、「立憲主義」は片面的なイデオロギーでしかない、という思いをより一層強くすることになった。
その思いをさらに強くさせたのが、この愛子さまの作文をめぐる、人々の様々な言説である。

これはご譲位についての議論状況とも密接に関連している。今上陛下のお考えがリベラルであったり立憲主義についての深いご考察については賛意を表明することのある「立憲主義者」たちは、陛下ご自身の譲位問題について、陛下のお気持ちを叶えるための方策はおろか、ほぼ一切発言をすることすらなかった。皇族の方々を、立憲主義や憲法秩序の枠内と「飛び地」その間でご都合主義的に行き来させているのは誰か。
立憲主義やリベラリズムは、本来厳しい自己批判と自己吟味を我々に課すはずである。

愛子さま(皇族の方々)が見る「青い空」と、我々個人が見る「青い空」は、本来は同じである。しかし、それがあたりまえのようであってあたりまえではない、という命題が突き付けるこの国の「自由の現況」について、片面的・ご都合主義的な思想的態度ではなく、真正面から向き合わねばならないのではないだろうか。
共謀罪についても同じである。テロの脅威や安全・安心を語る言説には、監視や拘束の対象となる人間の自由と自分の自由はまるで別物のように扱う感覚がある。自由にはアプリオリに制限されてもよい二級の自由など存在しない。ここに欠如しているのは、自分が常に他者の立場と入れ替わるかもしれない、そして、入れ替わったとしてもそれを受容できるのかという視点である。
これからの社会を語り、そして生きていくために、我々の社会という同一平面上に広がる自由を遮断したり分断しようとする権力や自己欺瞞から解き放たれた、逞しい自由論の再生なくして、この社会の再生もない。
この社会の誰もが同じ「青い空」を見ているはずだ、というあたりまえのことをあたりまえに共有できる社会を築こうではないか。

08:35
2017/03/21

【本日3月21日東京新聞朝刊『退位こう考える』】

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今日の東京新聞の朝刊にインタビュー記事『退位こう考える』掲載されました。
議長とりまとめを受けて総括してます。
それにしても、普段、「憲法守れ」とか「立憲主義」とか叫ぶ人々(法律家含む)が、まさに日本の立憲主義と憲法語るのにど真ん中の皇位の問題につき、まったく発言しないのをみてると、結局、「立憲主義」をイデオロギーとしてしかみてないんだなという気がして冷めた気持ちになります。

道場での議論を経て、さらに、陛下を考える際に立憲主義の重要さ、そして、無色透明さを実感しています。こちらのブログでも総括していきたいと思います!


11:41
2017/03/16

明日3月17日(金)朝7時-『モーニングクロス』@東京MX

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明日の朝7時?、東京MXのモーニングクロスに出演します。
あたりまえのことが、あたりまえに行われないこの現代にドロップキック!怒りと共に突撃します!


15:02
2017/03/01

皇位問題をノーガードで戦うな

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裁判等で、法的な主張を構成するときに、二種類の主張をすることがある。
「貸した100万円返せ!」がテーマになっているとしよう。
貸金返還請求をされたときに、まずは、

1.「そもそも借りてない(主位的な主張)」
というところで争う。つまり、こちらからしてマックス100%の主張だ。

次に、主位的な主張につき、”たとえそうでなかったとしても”、という次善の主張として

2.「たしかに借りたが、これについては、おまえに貸してた100万円で相殺する(予備的な主張)」
というような主張をするのである。

つまり、主位的主張のみを全面展開したとしても、勝てば100%だが、もし負けたら獲得できるのは0%である。完全なノーガードだ。
そうではなく、もし主位的な主張が倒れたとしても、予備的な主張を展開することで、0%での敗北は防げる。これこそが戦略的な戦い方である。

皇位の問題を含めた、現在日本で起きている事象についての戦いも同じだ。
もちろん、皇室典範改正を掲げる民進党のみを100%応援するのがまず筋であろう。
しかし、民進党が敗れた、というだけでなく、もし現政権が何らかのスキャンダル等で倒れたとしたら??民進党の案がすぐに通るのか??政権を即奪取するのか?
現実はそうではないし、そうならない可能性をヘッジするのが戦略である。
自民党は圧倒的与党として存在するわけであり、現政権に代わるオルタナティブとして、自民党の中の良識派を応援し、育てなければならない。
どのように転んでも、100%の敗北をしないオプションを常にもっておくことこそが肝要だ。なぜなら、大事なのは、どこを応援するかどうか、ということではなく、この社会をより善きものにするという最終目標にとって、何が効果的か、だからである。

その意味で、現在埋もれている自民党の中にいる良識派を探し、光を当て、応援することは、我々の戦略として、潜在的な手段・選択肢の深化を広がりを意味する。

今回ゴー宣道場に登壇いただく船田元氏も、その一人である。自民党が”官邸の下請け業者”化している中で、党から声を上げることすら困難である。
そして、このような人が一人でも現れれば、それに呼応する議員も増えてくるかもしれない。「自分にもできるかもしれない」と。
自民党だからダメ、というような選好重視の幼稚な考えでは、この遥かなる戦いには勝てない。

我々も、日和見することなく、胆力をもって、一人一人で声を上げよう。

「コオロギは 鳴き続けたり 嵐の夜」

これは、私の憲法学の師である、駒村圭吾が本で紹介していた、桐生悠々(1873-1941)の句である。
信濃毎日の主筆も務め、反権力の論陣を張り続けた悠々が、当時の社会情勢が、軍靴の音が鳴り響き言論の世界も体制に同化し称揚する言説が嵐となっていた中で、かき消されたとしても、その嵐の轟音の中で、コオロギとして鳴き続けるのだ、という気概を読んだ句だ。
やがて、コオロギの鳴き声自体が嵐になり、嵐をものみ込むことにもなりうる。

「野党だからできない」「自民党にいるからダメ」
これらの言説は、内実何も言っていないのと同じ無責任な言説であり、嵐にかき消され藻屑となってしまう。
また、もし政治家でこのように考えている人間がいるのであれば、「公」と同化可能な存在である政治家が、その「公共心」を捨てた政治的廃人と等しいので、即刻やめていただきたい。少なくとも私はそのような人間は公共空間に「職業として」存在すべきでない有害な存在だと考えている。

我々一人一人が、悠々の句のコオロギのように、真に正しいと思うことに向けて鳴き続け、コオロギをかき消さんとしていた嵐を凌駕するような逞しい公論を形成しよう。

___________________________

「自民党にもいる尊皇派」


平成29年3月12日(日)午後2時 から
『人事労務会館』 にて開催します。



「人事労務会館」
(住所:東京都品川区大崎2-4-3 )は、
JR山手線・埼京線・湘南新宿ライン・りんかい線
『大崎駅』 の 北改札口 を出て左へ、
「西口」 側の左階段を降りて、徒歩3分です。


毎回、会場の場所が分からず迷われる方が、多くいらっしゃいます。

人事労務会館のHPにて、場所をよくご確認の上、ご来場下さい絵文字:重要
(HP掲載の、駅から会場までの地図を印刷し、持参されることをオススメします )

詳しくは、 
“ こちら ” でどうぞ。



312日(日曜)開催の「ゴー宣道場」は、
『天皇論 平成29年』発売記念として、
本書に関する議論を行なう。テーマとしては、

「自民党にもいる尊皇派」を掲げる。

 

男系固執の安倍政権による全体主義的な同調圧力に
屈せず、公の場で声を上げてくれる自民党議員は
少ない。

特例法に反対で、皇室典範改正支持、女性宮家創設に
賛成する議員はいるが、残念ながら「ゴー宣道場」と
日程が合わないケースもあった。

 

そんな中、勇気を持ってゲスト出演を了承してくれた
貴重な自民党議員が
船田元氏である!

 

ただし船田氏が地方から戻って、「ゴー宣道場」に駆け

つけてくれる時間が16時(午後4時)になるので、

今回の道場は、開始時間を14時(午後2時)からにして、

終了時間を17時(午後5時)にする。

 

今の自民党内で数少ない尊皇派の一人である船田氏が

果たして何を思い、何を語ってくれるか?

 

天皇陛下が皇室典範改正で、堂々と退位できるか否か、

いよいよ正念場が近づいている。

自民党は5月に法案を出すと言ってたから、3月、4月で

決まってしまうだろう。6月にはもう終わっている。

この状況では、毎月、「ゴー宣道場」を開催せざるを得ない。

しかも今回は、応募締め切りが31日(水曜)と迫っている。

何が起こるか分からない、予断を許さぬ時期だ。
ゲストもまだ増えるかもしれない。

ぜひ参加しよう!




当日、道場の入場料は、お一人様1000円です。


参加ご希望の方は、このweb上の申し込みフォームから申し込み可能です
絵文字:重要絵文字:パソコン

上 ↑ のメニュー「道場参加申し込み」もしくは下 ↓ の申し込みフォームバナー(画像)
クリックして、申し込みページにお進み下さい絵文字:よろしくお願いします
入力必須項目にご記入の上、お申し込み下さい絵文字:重要絵文字:メール


申し込みフォーム


お申し込み後、記入されたメールアドレス宛に「申し込み確認メール」が届きますので、
ご記入内容に間違いがないか、よくご確認下さい。

※「申し込み確認メール」が届かない方は、以下のような原因が考えられます。

・迷惑メール対策サービスを利用していて、「ゴー宣道場」からのメールが迷惑メールと判定されている
・着信拒否サービスを利用していて、「ゴー宣道場」からのメールが着信拒否の対象となっている
・ドメイン指定受信を利用していて、「gosen-dojo.com」のドメインが指定されていない
・セキュリティソフトやメールソフトで迷惑メール対策をしていて、 「ゴー宣道場」からのメールが迷惑メールと判定されている

reply@gosen-dojo.com」からのメールを受信できるよう再設定をお願い致します。

「申し込み確認メール」が届かない場合、当選メールも届かない可能性がありますので、
ご注意ください絵文字:重要



申し込み〆切後、当選された方にのみ「当選メール」を送らせて頂きます。

当選された方は、道場当日、
その「当選メール」をプリントアウトの上、会場までご持参下さい。
プリントアウトができない方は、当選メールの受信が確認できるもの
(携帯電話、タブレット等)をお持ちの上、ご来場ください。




 道場参加申し込みフォーム



応募〆切 は 平成29年3/1(水) です。

当選通知の送付は、応募〆切後になりますので、しばらくお待ち下さい絵文字:よろしくお願いします



皆様からの多数のご応募、お待ちしております絵文字:重要絵文字:晴れ





10:00
2017/02/24

権力の弛緩と僕らの自由について(2)自由の”共食い”を生む共謀罪(続き)

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【テロ等準備と共謀罪は違う?:2本の柱】

1つの論点として、過去3回廃案になった共謀罪と今回のテロ等準備罪の違いとして、「構成要件を厳格化した」点が挙がることがある。果たして、本当に「厳格化」することによって、見違える法案となっているのだろうか。

ちなみに、この中身を検討せずに、政府が言うままに「共謀罪の構成要件を厳格化したテロ等準備罪」と無批判に垂れ流しているマスコミがあるが、これは本当か。ついでにマスコミの自己検証能力も吟味できる。

 

●「組織的犯罪集団」:主体の問題

 まず、一つ目の柱が、テロ等準備罪の行為主体の問題である。つまり、どのような人が対象になるのか、という問題である。過去の共謀罪からの議論で単純に整理すれば、主体となるのは、暴力団やテロ組織のように、“そもそも”その団体の結合の目的が犯罪実行にある集団なのか、それとも、もともと正当な活動を行っていた団体(一般人)でも、犯罪実行をする団体に変化したと判断された場合も主体たりうるのか、という問題である。

後者であれば、一般人であっても、犯罪実行集団に「一変」したと判断された場合は逮捕・処罰の対象になるということである。

菅官房長官は、これにつき「一般人は対象にならない」という翻訳で説明していた。

 これに対して、法務省から統一見解として提出された、平成29年2月16日付「2月9日山尾志桜里君要求に係る理事会協議事項について」と題する書面(以下「本件書面」という。)にいう、テロ等準備罪における「組織的犯罪集団」の定義は、もともと正当な活動を行っていた団体であっても、犯罪を目的とした団体に「一変した」と認められれば組織的犯罪集団に該当するとしている。これは、過去の共謀罪における「団体が形成された当初の目的のみをいうものではなく、当該共謀が行われた時点における個別具体的な団体の活動実態に照らして判断されることになります」【平成171014日 衆)法務委 大林政府参考人】との説明とまったく同趣旨の定義であり、過去廃案となった共謀罪と、今回のテロ等準備罪は、要件の中核たるその犯罪主体の定義において、なんら変わるところがなく、要件を厳格化したとの説明も失当であるということになる。

共謀罪とテロ等準備罪の要件設定が同じであるということは「全くの誤り」【平成29年2月9日 衆】予算委 安倍内閣総理大臣】とした総理の説明自体が、「全くの誤り」である。

そしてまた、上記のとおり、共謀罪とテロ等準備罪における要件は同趣旨であるから、一般人であっても、犯罪実行集団に「一変」すれば本罪の対象になりうる。

本罪に該当しなければ「一般人」と言えるとしても、「一変」性が犯罪の対象か否かの分水嶺だとすれば、全国民が潜在的に「一変性」を有するわけで、もともと本罪に該当することがない「一般人」など想定しえない。

したがって、「一般人は対象にならない」との菅官房長官の説明は虚偽である。

以上のとおり、組織的犯罪集団の要件は厳格化されておらず、過去の共謀罪と同趣旨であるから、一本目の柱が倒れた。

●準備行為:行為の問題

政府が、テロ等準備罪を共謀罪ではない、ということの核心は、この準備行為性にある。

つまり、共謀罪とは、共謀及び合意をもって犯罪が成立し処罰するものであるところ、テロ等準備罪においては、さらに「準備行為」がなされなければ、処罰条件を満たさない、というのだ。つまり、さきにみた立法事実の事例2におけるハイジャックテロを例に考えれば、その話し合いだけでは処罰はされず、具体的に飛行機のチケットを予約しなければ処罰されないという。しかし、チケットの予約行為自体を取り上げると行為の危険性がないため、現行法では処罰できない、ということであった(この点は先に現行法でも対処できることは論じた)。「非行為(合意=内心)」で処罰するのが共謀罪、「行為」で処罰するのがテロ等準備罪、というわけだ。「行為」という発現形態をもって犯罪のメルクマールとすることは、より明確性をもつ。

しかし、いやしくも政府の説明にあるとおり、その行為自体は具体的危険性をもたない。飛行機のチケットを購入している人を処罰できるかどうか、当該行為が危険かどうかは、その人の内心に立ち入らなければわからない。さらにいえば、犯罪の準備のための「共謀」があるという前提があるからこそ、その行為を処罰できるのである。

今回、政府は明示していないが、犯罪成立及び、自由保障機能のメルクマールたる構成要件は、あくまで「合意・共謀」であり、これをもとに犯罪捜査が行われるとすれば、本罪の本質は、人々の共謀や合意を取り締まることにある。また、後述のとおり、これを包括的に認めれば、我々の社会は変容する。

したがって、「準備行為」を要求することにより構成要件を厳格化したということも言えない。

二本目の柱も維持しえない。

 

以上書いてきた通り、「共謀罪の構成要件を厳格化したテロ等準備罪」とは到底断言できない状態であることは明らかである。少なくとも、断言はできないはずだ。

にもかかわらず、メディアでは、いまだに「構成要件を厳格化した」などと断定的に冠して報道しているところが少なくない。どれだけ論理や言葉に不誠実なのか。論理や事実しか依るものがないはずであるのに、その点の誠実性を放棄することはメディアの自殺であり、表現の公共的使用を認められた主体として不適格である。

2月23日付けの読売新聞の社説でも、本罪について「不安煽る言説は慎みたい」などと、正しい分析や論理的言説を放棄して、その議論姿勢をまるで“大人”としてたしなめるかのような記事を書いているが、その内容は、まるで本罪の議論をつきつめたものではなく、あきれるばかりである。教育に悪いので、知的誠実性の放棄を慎んでもらいたい。

一方で、「平成の治安維持法」などというほぼレッテル張りとしてしか意味をもたない粗雑なキャッチフレーズ(や、これに準ずる、「飲み屋で上司を殴りに行こうと言ったら共謀罪」というような議論)も厳に慎んでもらいたい。(具体的には後述するが、今回の法案は、2006年のときよりもさらに情報化された2017年の社会にこそ自由への危険性が新たな形で立ち現れるのである。その意味で治安維持法とはむしろ文脈が異なる。)まさにこれこそが自由についての本質的議論を阻害する有害な言説である。安保のときの「戦争法案反対」と同じで、標語を叫ぶことで一部には訴求するかもしれないが、私が議論したい、もっと胆力のいる自由についての議論は、この標語に覆いかぶされ、ついには放逐されてしまう。

この両者どちらも、本質的には自由について真剣に議論する知的態度が欠如している。


【正しき看板をかけ、民主的正統性を獲得すべき】

今回、包括的な共謀罪の創設にあたっては、私は自由をめぐる長調と短調の主題があると考えている。それは、
1.テロの恐怖からの自由(“安全・安心”)
2.国家からの自由(個人の自由)

である。

そして、既述のとおり、今回提出されるテロ等準備罪について、今回の法案の立法事実があるのかないのか(三つの穴)と、過去三回廃案になった法案から厳格化されたのか(=過去の共謀罪と違うのか)(2本の柱)、という二つの論点がある。

 なぜこれらをここまで細かく確認するかというと、自由を論じる前提として、一体この法案が何をどこまで制限しようとしているか、議論の対象を明らかにしなければならないからである。そして、できれば各個人がどう考えるかの材料を提供したい。

 法案の「看板」ではなく「中身」がどうかを正しく提示し、正しく認識・議論することがもっとも大事である。

 以前、高級料亭において国内産の高級食材と謳っていた食材が実は輸入物の価値にしてかなり低いものを使用していた、といった食品偽装事件が多発した時期があった。舌を肥やせ、という審美眼的見地からの批判もあろうが、そもそも、“偽装”したことによって、消費者の正しい判断の前提を確保できないところに問題がある。

 国会は、多元的な価値や利益の対立と妥協(バーゲニング)というテストをくぐりぬけることによって、その帰結に正統性が付与されうる。

聞こえのよい偽の看板で偽装しては、そのバーゲニング・テストを不当にスルーしてしまう可能性があるのだ(purarismの観点から経済的自由における規制目的二分論を説明した長谷部恭男教授の分析参照)。過去の共謀罪と同じなのか、違うのか、同じだとしても受け入れるべきなのか、これらを正しく議論するためにも、正しい看板をかけて、国会というバーゲニングテストに臨む姿勢が強く求められる。そうでなければ、国会及び国民を欺いているのと同義である。

 

 ここまでの議論を裏から、というか人々の意識から分類すると、

a.今回要件が厳格になっていたとしてもテロ等準備罪はいらない

b.厳格になっているならば必要である
c
.これまでの共謀罪と同じ(厳格になっていない)であれば必要ない

d.これまでの共謀罪と同じであっても必要である。

というグラデーションが存在する。

aが上の「1.国家からの自由」へのインセンティブが一番高く、dは「2.安全・安心の価値」により強く親和的な人々の考えであろうか。

これを読んでいる方は、自分はどの考えにより親和的だろうか。

 

【テロとの戦いも国際社会への貢献ももちろん大事:共謀罪を論じる困難さ】

共謀罪について、議論が難しいのは、共謀罪を創設することが、まったく新しい概念を創設するのではない点である。すでに個別の法律に「共謀罪」は存在する(特定秘密保護法など13の法律に規定されている)ので、集団的自衛権や、退位の問題(歴史的にどうかは措いておいて現行法として)のように、まったくなかったものを創設する、というのとは、わけが違う。つまり、0か100か、という論理の問題ではなく、程度問題であると考えられやすい。なんの程度問題か。我々の社会がどこまで自由を認めていくのか、という極めてセンシティブな程度問題である。
 そして何より、「安全・安心」「テロの抑止・防止」という看板は、現代を生きる人々の肌感覚に危機感とそれへの救済として直接に訴えかけるため、自由の価値との相克関係を吟味し、どこに自由と安全の一線を引くのかという緻密な議論ができない。
 テロの脅威に対しては、絶対に屈することなく、断固として戦わなければならない(テロを生んだ背景ばかりを論じて、現実の対応に言及しない言説などは、違和感を感じる。どんな大儀や背景があろうと、同じ状況でテロをしないという選択をする人間がいるのに、テロをすることは許されない。それは、この社会から共生への意志を奪い、まさに「万人の万人に対する社会」に巻き戻してしまう。)。また、国際的な価値秩序にコミットすることは、責任ある主権国家としてあたりまえのことだ。
 しかし、今回の包括的共謀罪によって、我々が意識的・無意識的に獲得し、その一線を守ってきた自由のラインを後退させるという自覚が果たして我が国の国民にはあるのだろうか。
先に見た「より制限的でない他の手段」があるなら、そちらを選択すべきだ、という価値観は、自由の制限は緻密かつ慎重になされるべきで、なるべく自由が制限されないことが望ましい、という、大きく言えば、我々一人一人が真に自由を最も尊い価値であるとの認識を共有しているか、が問われている。自由について敏感でない、価値をおかない社会では、自由は「安全・安心」にすぐに飲み込まれてしまう。

【2017年現在の社会における共謀罪は、2006年の共謀罪よりも自由と緊張関係がある】

そしてここからはさらなるイマジネーションが要求される。すなわち、本罪が成立したあとのこの社会の変容である。

法は、実体が変わればそれを履践・担保するための手続も変わる。

共謀罪は、その犯罪の核心を「共謀=合意」におくため、捜査機関は、“共謀していること”を探知し、摘発しなければならない。テロのためには、共謀段階で検挙することが、この法のねらいだからだ。

想像してみてほしい。人々の私生活における話し合いや合意、これは通常、非常にプライベートな空間でなされるはずである。これらを可視化し把握・探知するためには、我々の私生活に捜査機関=国家権力の目や耳が網の目のように潜在化して配置されなければならない。すなわち、監視の強化と、会話・通信等の傍受の拡大である。

事実、2月23日の衆議院予算委員会第三分科会において、金田法相は、「メーリングリスト」や「LINEグループ」による合意でも共謀罪における合意を形成する可能性は「否定しない」とした。これらをどのように把握するのか。人々のメールやLINEグループを常時監視できるシステムを構築しなければ不可能である。

2017年の現代社会は、高度に情報及びサイバー空間に依存する社会である。このような社会は、個人の意思を越えて、まったく無意識的に人間同士のつながりをほぼ自動的に拡大・構築したがゆえに、利便性と引き換えに、包括的な監視や情報把握及び干渉に対して非常に脆弱な社会になった。真偽はいまだわからないとしても、ロシアのサイバー攻撃によるアメリカ大統領選の結果への影響の有無を例にとれば、これは自国の民主主義が、サイバー空間によって破壊され、主権への他律の混入の途が開かれてしまっている好例(悪例?)だ。

根本的な社会制度設計についてのコンセンサスや、人々の自由観より先に、実態が変化してきてしまった。

昨今、最高裁も含めて「忘れられる権利」についての議論がなされているが、サイバー空間は、一度立ち入ってしまえば、入り口はあっても、出口はない。ドアを閉めた瞬間に、もうサイバー空間からは退出できない。忘れられる権利は、ここに出口を設けさせてくれ、という、サイバー空間への入退場の自由についての議論である。

プライバシー権は、古典的には自己情報コントロール権として論じられてきたが、もはや現代社会のサイバー空間では、コントロール不可能である。

出口無きサイバー空間に監視者の目や耳が入れば、“白”か“黒”か関係なく、まさに「一網打尽(安倍総理大臣【平成29年1月26日:衆院予算委】)」である。

LINEグループに参加したが、そのまま放置していることもあるだろう、メーリングリストもそうだ。それらが一網打尽にされてしまうのであれば、実は、今回のテロ等準備罪は、過去の共謀罪よりも、さらに自由制約的な法律である、ということである。構成要件の厳格化どころではない。

これは、社会がそのように変化してきていることと呼応しあうものであり、その意味で、過去の議論よりも、さらに「2017年現在」における本罪と自由の関係をきめ細やかに論じなくてはいけない。

そして、傍受が、社会生活への不可視の網の目だとすれば、もし、傍受の拡大を認めないとすると、その網の目は可視化せざるを得ない。具体的には、LINEグループに入っている人をすべて参考人として呼んで白黒の判断をして、白ければ釈放する。つまり、文字通り広く“関係者”に網をかけ、その後に白黒を判断する。これは、そもそも身体拘束のハードルが著しく下がってしまうと同時に、冤罪を生む。

監視の拡大か、冤罪か。どちらを選ぶか?どちらも選びえない選択肢ではないのか。ではなぜこうなるのか、包括的共謀罪自体に、このような自由への挑戦が内在しているからである。

フーコーのパノプティコンをひくまでもなく、監視されているということだけ認識させられ、その監視主体が不可視の状態、つんまり、どこで誰が監視しているかわからないけども、確実に監視はされているという状態を作るだけで、監視体制の構築は完成である。あとは、監視されている客体が、監視を勝手に過大評価し、自ら自由を減縮していく。萎縮の構造である。萎縮の病理に感染した自由は自壊するのみだ。後述のとおり、監視によって萎縮した自由は、お互いの自由の外延を懐疑で接着し、共生社会自体を破壊する。

包括的共謀罪から逆算して設計される社会の核心的な装置には、自由を自壊させるメカニズムが内包されている。

 

【「共謀罪」の議論で我々は何を承認しようとしているのか】
 誤解なきように釘を刺すが、過去の共謀罪と同じ、という論証に成功すれば、即本罪は必要ない、などと論じているのではない。

真に、「安全」「安心」「テロの根絶」のためなら「監視か冤罪か」という社会への変容可能性を理解し、自らの自由のラインは後退してもよい、との前提を共有して、包括的共謀罪を承認するなら、我々はそのような社会を選んだのだ、というだけのことである。我々が我々の自由観として、そのような社会を採択すればよい。


 しかし、果たしてそこまで真剣に自由の価値を考えているか。

また、政府(メディア)は、正しき議論の材料を誠実に提供しているか。
 

威勢よく「テロ対策」や「グローバルスタンダード」と叫ぶのも、表現の自由が保障されているからだということを明確に認識しているのか。そのような発言が今回の共謀罪の関係で取り締まられるなどという話をしているのではない、自由の制限を主張する者が享受する自由と、制限対象としての自由は、異質のものではなく、むしろ同じ自由なのである。

民主主義が、多数の専制に堕しないのは、その熟議の過程で、なされた決定がもし自分とまったく反対の価値や利益であってもその決定を受け入れることができるというテストをクリアするからである。およそ自分が逆の立場になったとしたら受容できない決定を強行することは、民主主義や、その産物である法自体の正義要求を満たさない。

さらに進めれば、受容できない決定の敗者は、この決定に服する納得感を得れない。そうなれば、共同体の維持も困難になり、ひいては、リベラルデモクラシーがその眼目とする「共生」のプロジェクトも、瓦解する。
自己が行使する自由と、それによって制限される自由を完全に切り離し、自己の行使する自由を優先させるような言説は、典型的なご都合主義的なダブルスタンダードである。
 そこには、常に自身の自由も制限の対象になりうるのだ、という節度と緊張感がまったく欠如している。これは、裏を返せば、他者の自由の軽視である。他者の自由の軽視は、リベラルデモクラシーの基礎を掘り崩す。

この社会の自由に、制限されるべき”二級”の自由は存在しない。

包括的共謀罪の創設は、我々個人に保障されている自由のintegrityを破壊、分断し、制限されても良い自由と、そうでない自由を創設してしまう。ウイルスとされてしまう自由と、そのワクチンとしての自由を観念し、それぞれが共食いしあうことになり、最後は、自由そのものが死滅する。

我々が享受する自由には死守すべき自明のラインは存在しない。我々が決めたラインが我々の自由のラインである。監視と不信に満ちた社会が実際にくるのか本当にこれでいいのか?我々の社会における自由のラインをここに引いていいのか?

概念的で難しいといって放棄してはならない。1+1=2を理解するのに、実際の物体を二個並べて理解するのと同時に、「1+1=2」という概念を理解しなければ、一億+一億は理解できなかったはずだ。それと同じである。

いったい我々が自由をどのように考え、リベラルデモクラシーをどのように考え、そして、どのような社会形成を採択するのか、包括的共謀罪の是非への態度決定は、我らが市民社会と僕らの自由の価値にあなたがどのようにコミットするのかという態度決定と同義である。

自由という言葉自体の弱体化は否めない。しかし、私たち一人一人が、我らの個人の自由とリベラルデモクラシーという価値に対してどれだけコミットしていくかを示すチャンスである。ここは、一方で“テロ対策”を掲げて「不安を煽る言説は慎みたい」や、他方で「平成の治安維持法」などというような両端において極めて“雑”な議論に乗っかることなく、僕らの自由の中身を自分たちで再考し再定位しようではないか。

 

 


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