デイリー新潮の山尾しおりさんインタビュー(https://www.dailyshincho.jp/article/2025/07281131/)を読んでの、ちょっとピントが外れてるかもしれませんが、私が一番頭に浮かんだ「素直な」感想を書きます。
話題になっている「玉木さんを恨む気持ちは全くありません」ですが、実は(「山尾さんもこう思っているだろう」ではなく、自分自身が似た立場だったらという意味で)けっこう「解る」気がするんです。
私自身の感覚ですが、「自分がされた事」に対して湧いた怒りを持続するのって、けっこう難しいんですよ。一度大きく憤ったとしても、普段から他にやりたい事が山積しているので、憤怒をモチベーションに何かやろうとしてもすぐ他の事がやりたくなり「面倒くさく」なってしまう。
これが、他人がされた事への「義憤」だと、その方が脳内物質が噴出して、いてもたってもいられなくなる度合いが強い。たぶん、山尾さんより自分の方が玉木雄一郎に対して「怒って」いると感じます(笑)。
これは人が良いのでも義侠心が強いのでもなく、私憤より義憤のために動いた方が、感謝されたり称賛されたりする度合いがずっと大きいので、その快感を求めての心理だと自己分析しています(笑)(くどいようですが、山尾さんがそうと言うわけではなく、自分だったらという話です)。
一連の公認取り消しの顛末の中でも、「愛知出禁」のような、今後ほかの人が遭遇するかもしれない理不尽のほうが「義憤」として怒りを持続できるかもしれない。だけど自分自身の処遇といった事に関しては、命を取られたのでも無い限り(命を取られたら怒れませんが)、他の事がやりたくて怒るのが「面倒になってしまう」ような気がする。
その一方で、自分がされたら一番頭に来るのは何かと言うと「やる気満々でイメージが膨らんでいる事を、無理やり止められる」事です。
国政に再チャレンジする気が満ち満ちている所、「たかが公認取り消し」で出馬自体を無しにしてしまったら、まず自分自身を許す事ができない。例え無謀であっても無所属であっても、既にエンジンフル出力になっていた立候補を実行する。そこにおいて、もう玉木ンなんてどうでも良い!という心理を想像すると、すごく納得できるんです(もうおわかりでしょうが、山尾さんがというんじゃなく自分だったら、です)。
さすがに「初当選同期として今も仲間意識がありますし、人間関係が壊れたとも思っていない。」というのは優等生的発言すぎるんじゃない?とは思いますが、もしかしたら「もう関心がない、どうでも良い存在」に対しての方がそう言えるかもしれない…とちょっと思ってしまいます(笑)。
万一、万一ですが、山尾さんに自分と似た種類の「ぶっ壊れた部分」があるとしたら、その根底には「理性で抗えない快楽主義」があり、根気よく自身への仕打ちを恨み続けられず「もっと脳内物質がドバーッとでるエキサイティングな事だけやりたい!」と(意識、無意識は別にして)いう方向に突っ走るのが凄くわかる気がします。
以上、インタビューの感想として的を射ているのかさっぱりわかりませんが、想像が広がって脳内物質がドバーッとなるのを止められずに(笑)思った事を素直に記してみました。





















