高市政権にまつわるゴタゴタが続くなか、改めて「権威」と「権力」について考える瞬間が多くなっています。
権威と権力それぞれの指す所は渾然とした部分もありますが、例えば「虎の威を借る狐」という諺において虎は実際には何もしていないように、直接的な行動を伴わなくとも影響力を発揮するというニュアンスが「権〝威〟」には存在します。
一方で「権力」は、「力」の意味が示す通り、直接的な実行において支配的になれる要素を持つものに発生します。
ここで重要になるのは、権力の発生は状況により極めて相対的であるという点。例えば、俗に「弱者権力」と呼ばれるものは、本来は立場の弱い存在に提供された配慮が濫用されて、「他者を抑圧する力」として本末転倒に機能してしまった状態を指します。
上記の言い方を変えると、権力は常に「拮抗」(バランス)の中に存在し、それを持つ者、望む者の両方が、それを自分に有利な方向に傾けるためにあらゆる策を講じている場面は、世界規模から個人まで無数に存在しています。
さて、「日本で一番大きな権力を持つ人物は?」と問われたら、ストレートに考えれば間違いなく内閣総理大臣です。
内閣総理大臣が持つ権力は、私兵による武力制圧で得たものではなく、「主権者である国民」から「運用」を委託されたもの。そうした存在である内閣総理大臣の行いは、その全てが、冒頭に挙げた「直接的な実行」そのものと言えます。
「権力欲」という言葉は概ね悪いニュアンスで使われますが、あらゆる責任とリスクを負ってでも「直接的な実行の主体者になりたい!」という覚悟は誰にでも出来る事ではないので、相応の能力を備えた上で旺盛な権力欲を持った人間は、社会の発展においては不可欠です。歴代首相で言えば、田中角栄なんかはそうしたタイプの代表格だと私は捉えています。
一方、現代において「権力志向」は、非常に「コスパが悪い」観念であるという風潮が大勢を占めています。実行の主体者たる存在は常に莫大な責任を問われ続けますし、全てにおいて拮抗を意識して生きるのは過大なストレスを伴うものですから。
そして「権力者」に代わって志向されているのが「インフルエンサー」(影響力のある人)です。インフルエンサーと分類される人の大半は、自ら具体的な物を売ったり事を進めるといった「実行者」ではなく(その類をやっていても、それはメインではなく)、その「影響力」で物事を宣伝したり、また見解を求められるといった事の対価をビジネスの核にしています。
角度を変えると、インフルエンサーがその存在の足場にしているのは(規模の大小を問わない)「権威性」です。
国政から地方自治体まで、議員になるというのは「依託された権力を直接実行する立場を担う」のが本来の意味ですが、最近はインフルエンサーになるため(または権威をより盤石にするため)の道具として選挙が「ハッキング」される傾向がより強まり、「迷惑」(公の毀損)を広げる事態が横行しています。
インフルエンサーは、その性質から「マーケティング」と一体で語られる事が多いですが、多くのマーケティングにおいて本質的に目指されるのは(権力志向にも似た)「シェア・売り上げNo.1」的なものの追求ではなく、市場・ニーズへ確実にリーチして利益をあげ、存続する事。
「ネトウヨ」という属性は、リーチのしやすさという点では、もう超弩級に「使いやすいマーケティング素材」です。だから、「選挙ハッキング」を行おうとする者の大半は、エセ保守的な主張を用いるんですね。
高市早苗という人物は「〝大企業〟に籍をおきながら、特定層に熱狂支持されるインフルエンサー」みたいなもので、こうしたマーケティング構造の中では間違いなく「勝者」です。
「存立危機事態」の発言は、「支持層向けマーケティング」という面もありますが、もしかすると本当に天然で「国家間でも発言による牽制で〝影響〟を及ぼせる」といった、薄甘い意識の中で出た言葉ではないでしょうか?
「権力を持った実行者」(の最たる者である総理大臣)の言葉は、比喩ではなく「兵器」です。その自覚があったら、中国が本当に動いた時に自国の行動を正当化できる何枚ものカードを、こんなつまらない形で放り投げるような言動は絶対にしない。権威を示そうとしたばかりに、権力者としてマイナス無限大の行動をやらかしています。
高市早苗は間違いなく「権力者」の座を得ましたが、本当にあったのは「権力欲」じゃなく「権威欲」だったんじゃないか?
もし高市が本当に「権力欲」旺盛な人物だったら、もっと是認できたかもしれません。しかし、実際に権力を手にしてから露呈してくるのは(トランプとの諸々も併せて)「権威欲」の権化としての姿ばかり。
「インフルエンサーになりたガールゆるふわ女子」(高市早苗)じゃない、本当に「権力欲」が旺盛な政治家、求む!





















