最近、「ゴー宣道場」の門弟から、わしが私的に男尊女卑
なのに、公的に男女平等を訴えても説得力がないのでは?
という意見が出されたが、これは基本的に「私」と「公」は
真反対の位置にあり、「電車内で化粧するのは公私混同」と
いう例で分かり切ったこと。
わしの読者で「公私混同させろ」と言うのは読解力がない。
「私と公を一致させろ」とまで言うのは共謀罪の論理と
同じで、私的に危険なことを考えてもいけないという
ファシズムの論理。わしが戦うべき論理だ。
公に影響のないプライベートな部分で、何を考え、何をして
いようと勝手だろう。
ただしそれで私的な領域が壊れるかもしれない。
私的領域が壊れてもいい、壊れない自信があるのなら、
好きにやればいい。
「公私」の問題で、作家・表現者の狂気を語るのは一つの
真理であり、確かにわしも狂気を隠し持っているだろう。
だが、小林よしのりが男尊女卑か否かの方が、普遍性のある
議論だと言える。
わしの妻は、わしが冷蔵庫を開けても怒るので、ゴミ出し
なんかやってたら離婚される。
これは妻の方が男尊女卑なのか?
秘書みなぼんは、子供の頃から父親が食卓につかなければ、
家族の食事は始まらなかったし、父親のおかずは一品か
二品、多かったという。
わしの家庭もそうだった。
男女平等と言うなら、少なくとも夫と妻のおかずは同じ数
にしなければならない。
夫の方が多いから、これを男尊女卑と言うのか?
わしは妻が夫を立てる立派な家庭だと思う。
完全男女平等を唱えるフェミニストは、一体どんな家庭に
育ち、どんな男と交際してきたのか?
男女間が、まったく「平ら」で「等しい」世界、性差がない
世界など永遠に実現できない。
まず女が堂々と股間を開いて、男座りをすることから実践
してもらいたい。ミニスカートは穿けなくなる。
わしが公的に(男女平等)と言うより、「男女公平」を主張
するのは、現状の危機感を基にして、国家の永続を保守する
ためのリベラルである。
「おまえが産め」とか「男を産め」とか「男系にしろ」とか、
公的領域で言うのは亡国の徒であり、せいぜい私的領域で
言って、妻に離婚されてしまえと言っているのだ。
公私混同の馬鹿オヤジ、あるいは論壇ホステスは、保守では
ない!