ゴー宣DOJO

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笹幸恵
2017.10.8 16:14

今日の整理

本日のゴー宣道場。

疑惑のイケメン弁護士が熱弁を振るってくれました。

理路整然と話をしてくれたので何だかわかったような

気持ちになったけれど、自分の言葉で十分には説明できない。

ということは、理解も中途半端ということなのだろう。

 

ただ少なくとも今日わかったことや感じたことを

ちょっと整理しておきたいと思います。

 

1)9条2項の削除を言うだけでは不十分で、

本当はそれに付随する様々な改正を伴わなければ

(憲法をパッケージとして考えなければ)、

意味のある改正にはならないということ。

(3項加憲は論外であること)

 

2)国家の暴力装置が実際にあるのだから、

それをちゃんと認めて統制していく必要があること、

集団的自衛権ではなく、そもそも個別的自衛権について

議論を深めていかなければ後世に対し無責任の誹りは免れないこと。

 

3)倉持師範は普遍的なリベラルの価値を守るという

至極真っ当な点からアプローチしていたけれど、

私自身は対米従属からの脱却という観点でしか

憲法改正を捉えていなかったこと。

それは果たして本来あるべきスタートラインなのかという疑義。

 

4)高森先生がおっしゃっていた、過去の政党政治の変遷から

捉えてみるというご指摘、私にはまだ何らの答えも出せないけれど、

じつに興味深い視点だったこと。

 

5)9条の精神について、倉持師範は軍縮を謳い、

抑止力信仰を捨てることだと説いていたように思いますが、

理念としてはわかるけれど果たしてそれは

現実に可能なのかということ。

 

6)上記5)から、ではどんな安全保障があり得るのか。

抑止力信仰に依るにせよ、そうでないにせよ、

つまるところ、国家ビジョンが先になければ

小手先の憲法改正に終わってしまうということ。

我が国をどんな国家にしたいのか。

それを描くところからしか始まらない。

これまでも日本は国防の責務をいわばアメリカに外注して

いるような状態で、中長期の国家ビジョンは持ち得なかった。

持つ必要もなかった。その状態から脱却するためには、

リベラルの目指す、一人ひとりの「個」の確立が不可欠であること。

リベラルと保守が対立概念ではないというのはこういう意味だろうか。

 

その他、今日の発見。

97条の【基本的人権の本質】が、

最高法規の章にわざわざ記されていること。

これはじつに大きな意味を持つんだなあ。

 

 

時間の関係で触れることができなかった

憲法の問題点、まだまだあると思います。

とはいえ、ゴー宣道場の憲法論議の出発点としては

ものすごく中身が濃くて、充実していました!

ふー、お腹いっぱい。

 

そして打ち上げで、ホントにお腹いっぱいに。

今日はタイ料理でございました。

笹幸恵

昭和49年、神奈川県生まれ。ジャーナリスト。大妻女子大学短期大学部卒業後、出版社の編集記者を経て、平成13年にフリーとなる。国内外の戦争遺跡巡りや、戦場となった地への慰霊巡拝などを続け、大東亜戦争をテーマにした記事や書籍を発表。現在は、戦友会である「全国ソロモン会」常任理事を務める。戦争経験者の講演会を中心とする近現代史研究会(PandA会)主宰。大妻女子大学非常勤講師。國學院大學大学院文学研究科博士前期課程修了(歴史学修士)。著書に『女ひとり玉砕の島を行く』(文藝春秋)、『「白紙召集」で散る-軍属たちのガダルカナル戦記』(新潮社)、『「日本男児」という生き方』(草思社)、『沖縄戦 二十四歳の大隊長』(学研パブリッシング)など。

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