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トッキー
2018.11.15 15:31ゴー宣道場

読む人のキャパシティをも問う『戦争論』

本日予定されていた生放送は延期になりましたので、チケットご購入の方は、改めて行われる放送の際、そのままご利用になれます。

さてここで、先日の道場感想のご紹介です!

 


 

笹師範の基調講演で深く首肯したのは、「自分が現場にいたらどうしていたか」を考えるべし、ということです。
結果が全て分かってからあれこれ言うことは誰にでもできます。
結果的に間違ったことだとしても、その時こう動くと決断した心境まで間違いだと言えるかどうかは慎重に考えなければいけません。
これは歴史や報道を見るときだけではなく、生活や仕事の色々な場面で言えることでしょう。
安田さんの件に関して言えば、武装組織の虐待の手口など、非常に興味深い内容を知らせてくれました。
私はアラブを舞台にした小説を投稿したこともあるので、大いに参考になります。

さて、大東亜戦争を自分事として考える1つの「よすが」が『戦争論』です。
特に第15章「痛快な戦争体験」では、全編を通して戦争(戦闘)を疑似体験できます。
これは高村氏の体験もさることながら、それを鬼気迫る技術と熱量でエンタメ作品に仕上げたよしりん先生の筆力にもよる所が大きいでしょう。
「自分だったら、敵の銃弾が雨あられと降り注ぐ中、壕から飛び出す決断ができるか?」
「自分だったら、身を乗り出したところを弾が掠めることなく、喉に命中して死んでいたのではないか?」
そうした自分に対する問いかけが渦巻く中で、高村氏が「俺は指揮官なんだ!」と自らを奮い立たせるシーンには心が躍ります。

私が初めて『戦争論』を読んだのは大学生の時であり、これまでの読書経験の中でも指折りの衝撃を受けました。
しかし今回改めて読み返すと、また別種の驚きがありました。
理論の組み立てや言葉選びが非常に慎重で、笹師範が仰る通り緻密な作品であることに気付きました。
公平に見て、ヒステリックに批判するような内容は見当たりません。

逆に疑問だったのは、大学生当時の自分は『戦争論』のどこにそこまでの衝撃を受けたのだろう、ということです。
と言いますのは、今以上に未熟だった大学生の私は、本作を読んだ後、少し熱に浮かれた言動をしていた時期がありました。
思い出すと青臭い恥ずかしさが込み上げます。
もっとしっかり読んでいれば、あんなことをせずに深く考えることが出来た筈です。
それができなかったのは何故か。
それは恐らく、小林よしのりという漫画家の表現力、筆致、情念といった感性的な部分だけを受け止めるのに手一杯だったからではないかと思います。

学校教育で語られる戦争は画一的な価値観しか提示しておらず、非常に薄っぺらい事象として脳の表面を滑るだけでした。
しかし本作で描かれる戦争は、愛も憎しみも勇気も卑劣も歓喜も悲惨も笑いも涙も、人間の全てが現出する一大叙事詩として描かれています。
戦争が面白く感じてしまうのです。
当時薄らサヨクだった私は、そこに衝撃を受けたのでしょう。
そして本作を批判(というより非難)する人々も、自分がこれまで浸かってきた戦争観から引きずり出されることに異様な危機感を覚え、反発するのではないでしょうか。
要するに本作を十全に受け止めるだけのキャパシティを持っていないのです。
自戒も込めてそのように分析します。
(ゾウムシ村長さん)

 


 

『戦争論』は読む人の方のキャパシティまで問う、恐るべき書だというわけですね。

残念ながら町山智浩氏は、たとえ読んだとしても受け止めるキャパシティがないのはもう明らかです。
何しろ、よしりん先生が「パンドラの箱を開けた」と言ったことについて、「ギリシア神話によれば、パンドラの箱から出てきたのは、痛風、リュウマチなどの病、貧困、嫉妬、怨恨、復讐、不和、犯罪ですよ。そんなもの開けたと威張られてもなあ。」とツイート、もはや「寓意」というものすら理解できなくなったざまをさらけ出しており、本当にこの人、映画評論家としても大丈夫なのか?と思わざるを得ません。

トッキー

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