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トッキー
2019.4.18 20:06新刊情報

体罰論は、実体験が全てではない

FLASH4月30日号掲載
『よしりん辻説法』の
感想ご紹介連打です!

 


 

よしりん辻説法「子に過ぎたる宝なし」を読みました。

私は大正ヒトケタ生まれの母方の祖父にも、戦時中生まれの父親にも、教師にも、ぶたれたり、ぶん殴られたりした経験がありましたが、自分自身は「嫌だなあ」という感覚をずっと持っていました。
しかし、周りの感覚は「それが当たり前」みたいな感じでしたし、物語や映画やドラマでも、時には殴って教える時もある、みたいな感じで描かれているものをよく見てきたので、自分の「嫌だなあ」という感覚の方が「甘え」なんだろうか、とか「エゴ」なんだろうか、と、そんな風に思ってきました。
私は独身ですが、自分の周囲の友人達の中にも、私より年下の友人の中にも、
「体罰はアリ」と考えている人が結構いるようで、アナクロな考えという訳でもないのかな、なんて思ってきました。

しかし、今回「よしりん辻説法」で描かれた、心愛ちゃんの父親の勇一郎容疑者の仕打ちだけが、度を超えた異常なもの、という訳ではなく、これは共同体が崩壊した中で「しつけ=体罰」という因習が歪な形で継承されている一つの例だと、自分の中での認識を改めるに至りました。
また、体罰が明治以前の日本には無かった、ということも知りませんでした。
時代劇などで体罰の場面が出て来るものがあったとしたら、それは明治以後の価値観で作られたものだから、ということなのですね。

また、よしりん先生が言う「体罰はダメだ」の理由が、リベラル左翼的な理由からではなく、長幼の序の大切さを言っていたり、家族や共同体の大切さを言っているところに、保守としての根拠を感じて、しかも時代と共に少しずつ変化していく必要として、もう法律で罰するしかないところまで来ている、という主張に、強い説得力を感じました。

「生きる喜び」を知らずに亡くなってしまった心愛ちゃんが気の毒でなりませんし、父親の鬼畜の所業に、恐ろしさと、強い嫌悪と、怒りを覚えます。

このことを、道徳の教科書のような堅苦しさで学ぶのではなく、毒と笑いを含んだ「よしりん辻説法」で学ぶということが、凄く心に染みます。
「実体験」が全てではないのだと。
「しつけの為の体罰は仕方がない」という思い込みから、ようやく解き放たれた思いがします。
(皿うどんさん)

 


 

旧約聖書には
「まだ望みのあるうちに、あなたの子を打ち懲らせ」(箴言19章18節)
「あざける者をあなたは打つべきである。それは経験のない者が明敏な者となるためである」(箴言19章25節)
という言葉があって、これが西洋の子育てのベースにあるようです。
そう考えれば、キリスト教を禁じていた江戸時代には子供への体罰はなかったという話も、すごく納得いきます。

トッキー

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