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高森明勅
2019.9.18 06:00皇室

即位礼・大嘗祭が「東京」で行われる意味

令和の即位礼と大嘗祭が東京(皇居)で行われる。
多くの国民はそれを当たり前だと思っているだろう。
しかし、これは平成の“新例”を踏襲したもの。
大正・昭和は京都で行われた。
明治の皇室典範には以下の規定があったからだ。

「即位ノ礼及(および)大嘗祭ハ京都ニ於(おい)テ之(これ)ヲ行フ」
(第11条)と。

典範制定当時(明治22年)、既に東京が事実上の首都だった。
にも拘らず、このような規定が設けられた。
その頃はまだ「千年の都」だった京都への強い郷愁が残っていた
からに他ならない。
同規定の“心理的な”拘束力は、明治典範が法的に失効した後の
平成の御代替(みよが)わりにも、ある程度は残っていた。
国民のごく一部ながら即位礼・大嘗祭を京都で行うように求める声もあり、
宮内庁がまとめた『平成大礼記録』を見ても、警備や経費などの問題を挙げて、
京都では行えなかったと説明している。

しかし、即位礼・大嘗祭は皇位継承に伴う重大儀式だ
(今の憲法下でも、前者は国事行為、後者は公的な性格を持つ皇室行事)。
ならば、「首都」で行う事こそが最も相応しい。
実際に明治までの実例も皆しかり。
明治の場合は、天皇が東京に移られる前に京都で即位礼、
東京に移られてからは同地で大嘗祭を行われた。
平安遷都の前の奈良時代には当然、2つの儀礼とも平城京で行われていた。

京都で行うのが伝統なのではなく、首都で行うのが伝統だった。
ただ京都が首都だった時代が長く続いたに過ぎない
(無論、それが往時の人々に強い愛着心を生んだのは理解できる)。
従って大正・昭和の場合は、皇位継承の長い歴史から見れば“過渡的な”
姿だった事になる。
首都から離れた京都で行ったので、難題もあった。
それこそ経費面などの制約からも、性格の異なる(即位礼は華美、大嘗祭は
静謐〔せいひつ〕で、むしろ対照的な)2つの儀式を、立て続けに行う必要があった。

大正・昭和共に両行事の間隔は僅か3日間しか無かった。
その事による弊害も指摘されていた(柳田国男など)。
こんなやり方は勿論、全く前例が無い。
平成では9日間、令和ではもっと間隔を空ける事になった
(即位礼が10月22日、大嘗祭が11月14・15日)。
これも東京で行われるからこそ可能になった。
しかも大嘗祭では歴史的に、天皇のお膝元と言うべき地域(畿内〔きない〕)の
“外”側(畿外〔きがい〕)から選ばれるのが通例だった悠紀(ゆき)・主基(すき)
両地方のうち、今回は主基地方が亀卜(きぼく)によって京都に決まった。
歴史が一巡(ひとめぐ)りしたのを感じさせる。

【高森明勅公式サイト】
https://www.a-takamori.com/

高森明勅

昭和32年岡山県生まれ。神道学者、皇室研究者。國學院大學文学部卒。同大学院博士課程単位取得。拓殖大学客員教授、防衛省統合幕僚学校「歴史観・国家観」講座担当、などを歴任。
「皇室典範に関する有識者会議」においてヒアリングに応じる。
現在、日本文化総合研究所代表、神道宗教学会理事、國學院大學講師、靖国神社崇敬奉賛会顧問など。
ミス日本コンテストのファイナリスト達に日本の歴史や文化についてレクチャー。
主な著書。『天皇「生前退位」の真実』(幻冬舎新書)『天皇陛下からわたしたちへのおことば』(双葉社)『謎とき「日本」誕生』(ちくま新書)『はじめて読む「日本の神話」』『天皇と民の大嘗祭』(展転社)など。

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