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倉持麟太郎
2021.3.26 10:42

【コロナ禍の“このクソ素晴らしき世界”を訴訟で問う~コロナ違憲訴訟3つの意義@論座】を寄稿しました

朝日新聞の言論サイト「論座」に、3月22日に提訴したコロナ特措法違憲訴訟の3つの意義について寄稿しました。
僕はこの訴訟とその提起のプロセス、そしてクラウドファンディングによる支援の声に、もうやってられないと絶望と立て直しを行き来していたこの社会を「このクソ素晴らしき世界」と思えるようになりました。それを、少しでも皆様と共有したいと書きました。
よくこのタイトルを朝日も通していただきました、ありがとうございます。
3つの意義は
①特措法それ自体の法的問題点を炙り出すこと(違憲・違法であること)
②政治的責任とは独立に司法の場での説明責任を課せること
③クラウドファンディングを利用することによる司法と直接民主主義の逆説的な接合
です。
でも、一番言いたかったのは最後のチャプター。
笹さんもブログで言及してくださった、22日の記者会見での記者さんからの象徴的な質問に対して感じたことです。
↓ 以下 引用  ↓
「本訴訟を提起した日、原告弁護団で記者会見を行った。記者からは、「違憲訴訟ということですが、それとは別に、今回の実害は何ですか」との質問が飛んだ。
 私は、記者会見の最後に、あえてこの質問について以下のような趣旨の回答をした。
 「体が叩かれれば痛みで害がわかる、お財布からお金がなくなればなくなったと害がわ かる、でも自由は目に見えないから、制限されてもわからない。しかし、自由は、制約・侵害されることそれ自体が実害なんです。我々一人一人、特に表現を扱う人々がこれを理解しなければ、この社会は変わりません」
 肉体的痛み、経済的痛みは、感覚や数字で目に見えるからわかる。しかし、我々は自由についての「痛み」、もっといえば「痛覚」が、あまりに鈍感になっていはいないか。
このことは、コロナ禍の我々日本市民社会が露呈した根源的病理ではないだろうか。この記者の問いには、象徴的含意がある。
 自分の自由にとっての「痛み」が麻痺すれば、当然他者の「痛み」にはもっと鈍感になる。自由の「痛覚」を失った我々は、自己の尊厳や他者への思いやりをも失い、同調圧力や相互不信はもちろんのこと、社会でしわ寄せを受けて声を上げられない人達を見て見ぬフリをし、あるいはそもそも見えなくなっていく。
 私はこの訴訟を通じて、自由に対する人々の「痛み」や痛覚を取り戻したい。自分の痛みも、そして他者の痛みも感じることができる人間社会を取り戻したい。痛いことがわかれば、他者が痛いと言っているときに、自分が痛くなくても想像ができるはずである。「ああ、これは本当に痛いはずだ」と。
 訴訟ではもちろん細かい法的論点を緻密に主張立証していくことが主たる活動にはなるが、その背後に無限に広がるのは、法という外延がはっきりしたツール&共通言語を媒介にした「人間らしく生きる感覚」を、皆がお互いに持てる社会の再構築である。
 これが、「誰もが原告」という本訴訟の“キモ”であり、その意味では私は代理人であり原告である。“このクソ素晴らしき世界”への挑戦に、あなたも「原告」になってみないか。」
倉持麟太郎

慶応義塾⼤学法学部卒業、 中央⼤学法科⼤学院修了 2012年弁護⼠登録 (第⼆東京弁護⼠会)
日本弁護士連合会憲法問題対策本部幹事。東京MX「モーニングクロ ス」レギュラーコメンテーター、。2015年衆議院平和安全法制特別委員会公聴会で参考⼈として意⾒陳述、同年World forum for Democracy (欧州評議会主催)にてSpeakerとして参加。2017年度アメリカ国務省International Visitor Leadership Program(IVLP)招聘、朝日新聞言論サイトWEBRONZAレギュラー執筆等、幅広く活動中。

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