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2023.12.29 07:00ゴー宣道場

「集団性」は単純じゃない

おはようございます。
今回は先日のみなぼんさんのブログ

「日本人は集団主義ではなかった」???
https://www.gosen-dojo.com/blog/44032/

の感想として書きます。
まず元記事の「「日本人=集団主義」はほんとうか?」というのは、議論の出発点が間違っていますね。
日本人の集団性が強いというのは現実に観測できることなので、ほんとうか?もへったくれもないでしょう。
そして一言で集団性と言っても様々で、いい面も悪い面もあります。
おかしなことでも止められないことを指すのなら、大東亜戦争やブラジルの勝ち組がそうですし、コロナ騒動、ジャニーズキャンセル問題、男系固執問題、原発問題などがありますし、厚労省の薬害を繰り返す体質とか、企業の不正とか駄目な方向に突っ走って大赤字とかもありますね。
そうなってしまうことについてゴー宣では、「西洋人の一神教によるGODとの対話ではなく、日本人は世間で生きているから」という分析がされており、それは現場感覚とも一致します。
現実がそうなのだから、「実験では違う結果が出たんだー」と唐突に言い張られても困ります。
同時に、日本人の集団性のいいところももちろんあります。
野球やサッカーをはじめとして、東京オリンピック・パラリンピックでも多く見られましたし、今ノッてる会社や団体はチームワークが機能しているということでしょうし、大きく言えば幕末に倒幕して近代国家と国軍を作ったことも間違いなく良かったことです。
(※ちなみにその攘夷運動の原動力になったのが会沢正志斎の『新論』で、これは幕末における『戦争論』です。日本には本で時代が変わった歴史があります。)

集団を形容する言葉もいろいろで、いい面を表すのにはざっくり以下のようなものがあります。
協力、チームワーク、連携、少数精鋭、合体ロボ、団結力、公民 etc…
その集団の公を守る人が保守です(左派の逆張りをしたり「何も変えるな」と言うのが保守というのは完全に間違い)。

反対に悪い面を表す言葉は、
群れ、烏合の衆、畜群、寄せ集め、有象無象、群衆、大衆、暴徒、カルト化 etc…
さらにその集団(またはトップ)に従うだけの主体性のない個人の様子を形容する言葉なら、
保身、受け身、指示待ち人間、イエスマン、マニュアル人間、妄信者、カルト信者 etc…

元記事の人は
「日本人は、集団の和を何よりも大切にするので、集団と一体化しようとするあまり、自分というものをなくしてしまっているのだ」
↑こんな雑な、分析とも言えない「日本人論」を基に話を進めていますが、これは集団の特性の悪い面を指していると読み取れるので、上記のいい面のほうは全く説明できません。
なぜこうなるかと言えば、記事を書いた人の集団というものの定義がおかしい、または全く考えたことがないのが問題だと思います。
集団性と一言で言っても、「ただ集まりさえすればオールOK」なわけがないのは明らかです。サクラに囲まれた実験のような、見知らぬ人だらけの中で日常を生きてる人間なんて世界中探しても存在しません。
「集団主義」なんて呼ぶのも曲物で、誰も主義を持って世間を形成してるわけじゃないでしょう。

もっと究極の話をすると、人間(ホモ・サピエンス)は集団を作ることでここまで発展してきた種だという点です。
ゲーム『デス・ストランディング』の中にこのような説明がありました。

要約すると、ネアンデルタール人は身体は屈強で、脳も大きかったため、小さな集団を作るに留まった。
ホモ・サピエンスはそれより劣っていたが、だからこそ道具を使い、集団で狩りをした。弱かったからこそ多く集まったホモ・サピエンスは、宗教を発明し、社会を作って強くなって生き残った、という説です。

画期的な道具を作って、それをヨコ軸の社会に広めるのはもちろん、タテ軸にも継承されていったとすると、歴史と文化の始まりでもあるでしょう(「文明」と呼べるまでになるのは紀元前3000年あたりから)。

これは上記のゲームが勝手に言ってるものではありません。
ネアンデルタール人の絶滅理由については『わけあって絶滅しました。』という本にも同じ説明があります。
詳しくはこちら。

「世界一受けたい授業」に出演決定!いま話題の“絶滅動物図鑑”の魅力とは?
https://diamond.jp/articles/-/186952

他にも「ホモ・サピエンスは飛び道具を発明できたからだ」とか、「脳に認知革命が起きて言葉と論理的思考で危険を回避できたからだ」とかも言われますが、それらも大前提としてある程度の規模の集団だからこそ機能することでしょう。

世の中には、一匹狼を気取ってる人や、アナーキストやアウトサイダーや、リモート・テレワークが好きな人や、(玉川徹が好きな)自給自足生活をしてる人たちもいますが、社会や文化や歴史感覚と全く無縁に生きてるわけじゃないのは明らかです。
誰もが過去から積み重ねてきたバランス感覚である常識と言語を受け継いで、それらを使って生きて、誰かに影響を与えたりして受け継ぎながら、いつかは死んでいくので。
「人と関わりたくない」「一人が気楽」と言ったところで、人と一切話さずに生きていけるようには人間はできていないために、自己顕示欲もゼロにはできません。承認欲求や承認願望も良くも悪くもいつも頭をもたげてきます。
小林先生の「“良き”承認欲求を満たしている」という言葉からもそれを感じます。
それが人の本質だからこそ、逆に「家族も全部捨てて家を出ろ(出家)」とゴータマ・シッダールタ(釈迦)は言ったんでしょうね(岩波文庫の『ブッダのことば:スッタニパータ』を読むと、冒頭から本当にそう言ってます笑)。
それは実行すれば確かに気分は良いでしょうが、結局その過激なまんまの形では現代には伝わっていません。

ともかく集団を作るのが人間というもので、だからゴー宣からの「プロになって現場を取れ」「自分の頭で考えなさい」「執着は断ち切れ」「一身独立して一国独立す」「一人でいて淋しくない人間になれ」というメッセージが核心を突いているし、沁みるわけです。
実際、人は一人では寂しくて仕方ないものだから、粘着も嫌がらせもやる人はいなくなりません。本人はどんな反応でもあれば嬉しいのですから。承認願望のダークサイドに堕ちたのがアンチでありストーカーという存在です。

こんな感じで、集団性について語ると「人間とは?」みたいなところまで行くのですが、元記事や新書の著者や的外れな実験をした人たちは、集団についてどういう認識なのでしょう?それが見えない時点でいい加減なこと言ってるなぁとしか思えませんが。

ひとまず集団性というものについて、「実験で日本人は集団主義じゃなかったんだって。へー」とかで済ませるんじゃなく、もっと真剣に考えた方がいいと思います。
日本人は特に。

 


 

 

【トッキーコメント】
その新書が記事どおりの薄っぺらなものだったとして、それが売れているというのなら、それは「日本人は集団主義だというネガティブな説が一般的だったけど、それは違って、日本人はもっとすごいんだ!」みたいな感じで、「日本スゴイ論」の一種の変形として読まれているのかもしれません。

「自虐」か「自尊」かどっちかの極端にしかいかないなんて、馬鹿げた状況はもう終わらせましょう!
来年はよしりん先生の『日本人論』が登場します!!

 

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