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2024.2.2 07:00ゴー宣道場

ピクミンと社会契約論

本日は『ピクミン』という恐ろしくも深いゲームの紹介をします。

小さくいる赤、青、黄色いのが“ピクミン”で、その集団に指示を出して、障害物を取り除いて道を切り拓いたり、敵を倒したり、資源を回収したりして進めていくゲームになっています。

赤ピクミンは火に強く、青ピクミンは水に強い、といった個性を持っています。

恐ろしさのポイントは、まず集団をコントロールするディレクション(指示出し)を、わかりやすい遊びにしているところです。
そういったゲーム自体は昔からありましたが、その性質上、どうしても主役が軍隊や国家や人間といった生々しいものになりがちで、ここまでカジュアルに仕上げたものは珍しいです。

また、そのゲーム性のために“ピクミン”というオリジナルのキャラを創造したのも、なかなかできることではありません。
今でこそ第4弾まで出る人気シリーズになり、JR山手線の広告ディスプレイでも見かけたりしますが、当初は誰も見たことのないわけのわからないキャラクターでした。
そういうものをメインキャラに据えても売れる保証はないので、普通はやれません。
任天堂はゲームの面白さを表現するためであれば、それに合わせたキャラを躊躇なく用意するわけで、徹底してゲーム作りに真摯な姿勢が感じられます。
同時に、本当は残酷なことを、誰も見たことのないキャラを用意することで納得させているわけで、剛腕とも言えます。

何が残酷かというと、ここは僕が考えるピクミンの最大の特徴にもつながりますが、「ピクミンは死ぬ」のです。
それも「やられる」とか「倒される」とかでなく、画面にはっきりと「死んだピクミンの数〇〇匹」と出ます。
ゲーム内でやっていることは未開の地の探索で、国家同士の戦争をしてるわけじゃないのですが、やはり軍隊っぽいです。

そうなると、『社会契約論』の「統治者が市民に向かって『お前の死ぬことが国家に役立つのだ』と言うとき、市民は死なねばならぬ」を彷彿とさせます。
「プレイヤーがピクミンに向かって『お前の死ぬことが私に役立つのだ』と言うとき、ピクミンは死なねばならぬ」ということですね。

もしピクミンに「命は地球より重い!戦争反対!」のイデオロギーを適用したら、全くゲームが進みません。
このゲームでは外国から侵略されることはないので、ただ進まなくなるだけで済むのですが、ピクミンを1匹も死なせたくないならゲームの電源を切るのが一番いいということになります。
実際にはピクミンを死なせずに進めるのはかなり難しいので、犠牲を出しつつ進めることになるでしょう。
ただ、何しろピクミンは可愛いので、なるべく死なせたくないという心理が働きますし、死んでしまった時にはピクミンは「アアァ…」と無念そうに叫びながら幽霊になって消えていくので、「ゲームのキャラだし、いくら死んだって関係ないや」と思える人は少ないはずです。

ちなみにピクミンは命令拒否はしません。仲間割れもしませんし、離反も謀反もありません。
ただ強敵に無策のまま突撃させたり、無茶な指示を出してしまうと、大量の被害を出して、自分が悲しい思いをします。ゲーム攻略にも支障が出ます。

任務を遂行したことでどんどん死んでいくピクミンを想うと、贈る言葉があるとするなら「よく頑張ってくれた。ありがとう」であって、顕彰するしかないよなーなんて思ったりもします。
少なくとも「ピクミンが死ぬのは無駄死にだ」なんて言っても、何を他人事のように言ってるんだ?お前がそういう指示出しをしたんだろう、何もしなければよかったと言うのか?という話にしかなりません。

ともかく、そんなピクミンの集団を駆使して、先に進むためにいろいろな障害に立ち向かっていくわけですが、この一連の行動はゲーム中で“ダンドリ”と呼ばれています。
例えば、赤ピクミンに火の障害物を破壊してもらっている時に、その間ただ待っていては時間の無駄なので、同時に青ピクミンに水の中の資源を回収してもらえば、いいダンドリ、ということになります。
これって、それぞれの個性を見極めて仕事を振るという意味では現場尊重ということですし、仕事を早く正確に進めるための段取りとなると論理的思考でもあるなと思いました。

逆に、この集団が今何を目指すかのビジョンがなかったり、論理的・具体的に考えられていない指示や、現場を無視した無茶な命令を出したりすれば、現場は混乱しますし、待ち時間が発生すれば仕事は遅くなったり、最悪の場合犠牲を増やすことにもなります。
どこの職場でも見られることですね。

よく「政治家は将来ビジョンを示すことが大事」と言われ、けど現実は全然できておらず、あったとしても「皇統は男系男子で」とか、無理で非論理的で自分勝手なことを一方的に決めてたりするだけなのですが、こういう行為は政治家・国会議員・官僚という国民に指示出しをする立場として、つまりは国を治める者として、仕事をしているとは言えません。

社会契約論が言う国民国家の原則として、政府から「お前の死ぬことが国家に役立つ」と言われたら、国民は死ななければならないわけで、であれば政府が現場も論理も無視で勝手なことを決めたら「ふざけるな」と言いたくなるのは当然でしょう。
当たり前ですが国民はピクミンと違って意思があるので。

ピクミンのゲーム性は歌にもなっており、『愛のうた』というタイトルで2001年に大ヒットしています。「従い尽くす」というところに焦点が当てられ、主にサラリーマンの悲哀として捉えられています。
自分としてはピクミンのことはそれだけに留まらず、軍隊や、国防を担う意味での国民の姿にも重なるところがありますし、
指示を出す者という視点では、日々の仕事の進め方、現場無視の政府や政治家や上司、国家観のない医者のことを重ねてしまうのです。

ピクミンは“集団”というものについて、また一つ考える機会になりました。

 

 


 

 

【トッキーコメント】
私はゲームをしないので、「ピクミン」も山手線の車内でしか知らなかったのですが、こういうゲームがあるのかと興味深かったです。
しかし、このゲームで下手なことやって、どんどん犠牲が増えてったりしたら、大東亜戦争末期、大本営に何万人玉砕という報告が続々入ってきたような状況を連想しちゃいそうですけど、その時の大本営参謀って、現地の兵隊をピクミンみたいな感じに思ってたんでしょうかね?

 

 

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