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大須賀淳
2024.3.29 22:14その他ニュース

「情報」と「状報」

情報」という日本語は、森鴎外が クラウゼヴィッツの戦争論を訳す際にドイツ語の「Nachricht」に対応させて作ったそうで、元々軍事用語のニュアンスがあったんですね(ヤバい、左翼の人は「情報」って言葉使えないね(笑))。

 

戦場において、仮に「◯◯に敵がいる」という情報が有った時、指揮官の判断が「攻めろ!」と「逃げろ!」のゼロイチしかなかったら、その軍は早々に破綻してしまうでしょう。

 

まず情報の真偽からはじまり、現在の戦力や地の利、天候、補給…ありとあらゆる要素と併せての考慮が必要になります。

 

しかし、あらゆる情報が集まっても(または集まるほどに)、ただ情報を持っているだけで何も決められなくては、これもまた短絡的な直情と変わりません。

 

左脳的な理性の処理と、右脳的な本能的直感による「覚悟」が絡み合う事で、初めて「人の行い」と呼べる深みが生じます。

 

本来、「原理主義」と呼べるほどのゼロイチ思考は、余程の「覚悟」はなければできないものだと私は考えますが、世の中には「絶対正義」をうそぶく者へおんぶ&だっこになりながら思考を放棄して原理主義的に振る舞う者も少なくありません。

 

また、自分は「情強」であると自分自身も暗示にかけるような素振りで、実の所は「いつまで1980年代やってんだよ…」というレベルの価値相対主義に、おそらくこのまま一生浸っているのだろうな、という感じの輩も多数存在します。

 

実はこの語は、元々は「情報」「状報」両方の表記があるようですが、現代から見ると、前者は「主観」、後者は「客観」を表しているようで、対義語のようにさえ見えてしまいます。

 

「情」「状」をならべると、この2つは「別の語」として、令和のこの時に再定義するべきなんじゃないか?とさえ思えてきました。既に使われている「情状酌量」だって、異なる2 つの要素を鑑みてって事だものね。

 

20世紀末には「高度情報化社会」などと言われたのに、今の我々はあまりにも、特に「情」報を雑に扱っています。

 

我々は、明治以降に外国語からコンバート(トランスレートではなく、あえてこう呼ぶ)された熟語を当たり前に使い、思考の根源にさえしています。

 

しかし、言葉の誕生時とはあまりにも状況が異なる現代において、過去と未来の両方を見据えた上での、言葉との徹底的な対峙が必要なのではと、最近思えてなりません。

 

「先例」は土台にすぎず、むしろ我々は未来の先例となれる新義をいかに行えるのかを問われているのだと感じます(後醍醐天皇ぶりっ子(笑))。

大須賀淳

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