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大須賀淳
2024.4.14 10:25メディア

北朝鮮による拉致は「人権問題」?

人権」という言葉は濫用されすぎて、物事の本質について深く考察したり、正しく認識することを阻害している場面が非常に多く存在します。

 

私が違和感を抱いている例を一つ挙げてみます。

 

こちらは、法務省Webサイト内の、北朝鮮による拉致問題関連のページ冒頭部ですが、何か違和感が無いでしょうか?

 

ここでは拉致の事を「北朝鮮当局による人権侵害問題」と呼んでいるんですね。なんだか、随分と弱々しいニュアンスになってしまっています。

 

普通の生活を送っていた国民が、ある日突然工作員により連れ去られ、大多数の人は日本に戻れていない。こんなのは国家ぐるみの極めて野蛮な暴力であり、人権以前に生命そのものを侵害する行為です。また「権」という語を使うなら、戦争が勃発しても不思議でないレベルの国家主権の侵害です。

 

ページ内には、サムネイルにも用いた啓発ポスターが過去分も含めて置いてあり、少なくともここ20年ぐらいは「北朝鮮による人権侵害問題」という表現が使われているようです。

それにしても、このポスターは一体「誰に何を」啓発するものなのでしょうか?当然、北朝鮮を「拉致は人権侵害だからダメですよ!メッ!」と諭すものではないでしょう。

 

日本国民に対してであれば、「人権侵害問題」と個々の被害者レベルに矮小化してしまうと、まったくピントがずれてしまいます。これは、我々の平穏な社会生活そのものの根本を脅かす、国家の安全保障に関する重大な事件なのですから。

 

さらに言えば、北朝鮮に対してわく怒りは「人権侵害をしているから」よりずっと以前に「同胞を誘拐し、本人や家族の人生と、日本という国の尊厳を踏みにじった事」という感情に基づくもののはずです。

 

拉致を「人権侵害」と呼ぶのって、なんだか他人行儀で、すごく冷たい印象を受けてしまいます。

 

「人権」という語を使ってお手軽に表現してしまうと、皮肉にも「人間らしさ」の最大要因である「情」への想像力が、一気に貧困になる場面が非常に多いと感じています。

 

「人権」という表現でパッケージされてしまった物事は、個別にしっかりと内容を見つめ、考えていくクセをつけたいと思います。

大須賀淳

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