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2024.5.1 07:00ゴー宣道場

陰翳礼讃を礼賛する

陰翳礼讃を礼賛する byともピー

 

漫画家小林よしのり先生の著書「日本人論」に紹介されている「陰翳礼讃」という小説家谷崎潤一郎の文章と写真家の写真で構成されている本を読んで感銘を受けてしまった。

影響されやすいたちなので、日本の風景の中に存在する陰翳を自分もとらえてみたいと思いカメラを取り出してきて何かを写そうとするのだが、何をどうして撮ればよいのか見当がつかない。

陰翳というものをどう撮影してよいか、その技術もなければ、撮るに値する美しい陰翳も見つけられず右往左往するだけだった。

実はデジタルの一眼レフカメラを持っているが、持っているカメラがどれほどの性能のものなのかよくわからず望遠レンズが付いているらしいことだけは知っていた。

親父が亡くなる数ヶ月前に譲ってくれたもので、カメラにはまったく興味がなかったため親父が亡くなってから数年間放置したままだった。

ある日なんとなく充電しなおして、親父がそのデジタルカメラの中に残した画像データを見てみたらアップで写された満月の写真があった。

その写真が妙に印象的で、それから月を望遠レンズで撮影するのが自分の中で流行り出してしまい、望遠の一眼レフを持っていれば誰でも撮影できるレベルの写真なのだと思うが、何枚も撮影している。

そして、満月よりも欠けている月の方が表情の変化に富んでいて、見ていて飽きないものだと気付いた。

月の表面の明るいところから暗くなるその明暗の境目あたり、クレーターが印象的に浮き彫りになっている様子に萌える。

月の輪郭すらない深い闇の部分の表面温度は最も低いところでマイナス170℃の低温になるそうで、生物を寄せ付けない無の世界を妄想して悦に入っている。

陰翳をなかなか見つけ出せない現代人が、望遠レンズという現代の利器を使用して見つけた美しい陰翳、これも一つの陰翳礼讃と言えるだろうか。

 

照明器具が発達してとても便利になった。

夜、部屋の中でも小さな文字の本も読めるし光の環境としては昼間と大差ないと言ってもよいくらいだ。

照明器具を取り入れる前の日本の昔の家屋は西洋の建築物と比べて庇が深く、白昼でさえも庇の下に濃い闇が漂っていたらしい。

その陰翳の濃淡に美を感じたり、深い闇に時が止まったような閑寂を感じたりと幻想を抱いてきたのだろう。

最近は部屋の隅々までが煌々と照らし出され、陰影や闇の存在は人々の意識から消えかかっている。

自分自身にとっても恐れを抱くほどの陰翳や闇の存在はないと言ってしまってもよいほどだ。

それが良いことなのかどうかは、わからない。

「陰翳礼讃」を読んで思ったのは陰翳や闇を感じる機会が極端に少なくなっていくとともに、日本人は日本の文化のかなり多くの部分を忘却してしまったのだろうということ。

「陰翳礼讃」に次のような記述がある

「西洋の方は順当な方向を辿って今日に到達したのであり、我等の方は、優秀な文明に逢着してそれを取り入れざるを得なかった代わりに、過去数千年来発展し来った進路とは違った方向へ歩み出すようになった、そこからいろいろな故障や不便が起こっていると思われる」

陰翳や闇の存在を忘却する過程は日本が西洋文化を受け入れる過程と一致しているのだろうと思う。

我々、現代人は心の中から消えかかっている陰翳や闇の存在を見出そうとした時、感覚を研ぎ澄まして、あえて探しに行かなければそれを見ることができないような状況の中にいるのかもしれない。

「陰翳礼讃」の文章が書かれたのが戦前の1933年(昭和8年)ということに驚きを隠せない。

その時点ですでに、谷崎潤一郎は失われつつある陰翳や闇について語っている。

そこから90年、そして没後60年近くの時が流れた現代社会の様子を彼が見れたとしたら、どう感じただろうか。

 

 

日本人はあまりにも多くのものを無自覚に捨て去ってきたのかもしれません。
なくしたものを取り戻そうとする前に、まず何をなくしたのかがわからなくなっているという状態です。
まずは、日本人は何をなくしてきたのか、そしていま現在、さらに何をなくそうとしているのかを、自覚するところから始めなければならないのです。

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