人間の脳という器官がもたらす機能や、そこから生まれる観念には、考えれば考えるほど不可思議なものも少なくありません。
例えば「退屈」という感覚なんて、その最たるものの一つです。
生命の危機たる事態が眼前に迫っている場面では、まず退屈は生まれません。逆に言えば、退屈が生じる環境とは、本来生物にとって「極めてポジティブな状況」と捉える事もできます。
人間以外の生物にどこまで退屈という感覚があるのかは判りませんが、食や繁殖や睡眠、物理的な危険の回避といった本能(個体や種の維持に不可欠な行動)を促す要素が無ければ、あまり余計な行動はしないのが原則であると思います。動けば、それだけ新たなリスクに遭遇する可能性も高まるのですから。
だけど、少なくとも人間の脳には「退屈」が生じ、(個人差はあれど)それを打破する新たな刺激を求めて、生命の維持に必須ではないリスクを伴う行動をしてしまう。
これは、人間だけが「文化」を築く礎となった、優れた特性なのか?
それとも、それこそただの「バグ」であり、文化は偶然の結果に過ぎないのか?
まさに「タマゴとニワトリ問題」的に、答えの出ないテーマです。
ただし、「退屈の発生」において絶対に欠かせない要素は明確。それは「時間」です。
時間は、気体・液体・個体といった物質では無いにも関わらず、我々は下手すると物質よりも時間の方を強く意識して生活しています。
そしてその流れが不可逆的であると認識しているからこそ、刺激なく消費され続ける状態を(時には、物理的な欠乏や欠損以上の)ストレス=退屈として感じるのでしょう。
ところで、刑務所に収監されて、自分の欲求とリンクしない「極めて規則的な生活」を長期間続けた人には、意思や主体性が低下してしまう傾向が強いそうです。意思・主体性は「ストレスを打破しようと思考・行動する力」に他ならないので、もしかすると(懲役経験無いのでわかりませんが)それは「ストレスの少ない状態」なのかもしれません。
しかし、その状態ってある意味、社会的な立場や金銭を失う以上に怖い(意思・主体性が弱ければ、そうした状況から這い上がる事もできないし)。そう思うと懲役刑って、百叩きなどの折檻や、下手すると死刑よりも恐ろしい刑罰だなーと思ってしまいます。
これは視点を変えると、思考停止による固執って、たとえ身体は娑婆にあろうとも、精神を自ら牢獄に放り込んでしまう事に他ならないのかもしれません。それで「ストレスの発生を抑えられる効用」がありそうな部分が、これまた余計に恐ろしい。
この記事のサムネ画像は、まったく釈明の余地が無いダジャレに基づく出来心でついつい作ってしまったのですが

タイクツは、意外とどんな場所へも向かう気力を湧き起こし、足取りを軽くする「優れた靴」なのかもしれません。





















