「核兵器による抑止力」は確かに存在するのだと、つくづく実感しました。
核兵器による「抑止」が飛び抜けて明瞭に効いている国はどこか?それは、アメリカに原爆を2発も投下され、夥しい数の国民を虐殺された唯一の被爆国・日本です。
高市政権で「非核三原則」見直し議論へ 安保3文書改定巡り 実現なら戦後の安保政策転換
上記記事によると、高市政権は非核三原則(持たず、作らず、持ち込ませず)のうち、米軍の核搭載艦船の日本寄港などが認められない事での抑止力低下への危惧などから、「持ち込ませず」のみの見直しについて議論する方向で検討に入ったとの事。
「持つこと」「作ること」といった主体的な項目は、そもそも議論の俎上に上げる事さえ放棄しているのですから、「一度核攻撃を受けた国は、自身も同等の力を持って対抗するという選択肢を放棄してしまう程に主体性が弱体化する」という実例を、明確に体現しています。
そして、生活都市の中心に原爆を投下して、数十万人の非戦闘員を虐殺した当事者である「アメリカの核」を持ち込む事だけを許可するご都合主義について議論を行うというのだから、一度核兵器で痛めつければ、未来永劫属国・ポチ化できるという事も証明してしまっているでしょう。
ここで問題になるのは、非核三原則そのものや、有事の際の例外的運用(当初からこれを想定しているから「三箇条」などではなく「三原則」なのでしょう)の是否よりも、「日本の主体性に立脚する選択肢のみを当初から排除する姿勢」です。
NPT(核拡散防止条約)は締結時点での保有国(アメリカ・フランス・イギリス・中国・ロシア)に有利な「不平等条約」であり、究極的な理想論である事は承知しつつも、これは「核兵器禁止・廃絶条約」にしないと道理が通らない。その追求に向けて、一番の「大義」を持つのは、唯一の被爆国である日本に他なりません。
しかし、交渉の場においては、「被害者である」という事〝だけ〟では、現実を動かしていく力になり得ません。確固たる主体性を持たない者は、交渉のテーブルにつく事さえできない。
「被害者」が、「加害者」による核の傘に守ってもらう事を大前提として議論さえ自粛してしまうほど主体性を萎縮させてしまう姿勢は、核兵器の(物理的破壊力以上の)「効果」を証明してしまう事であり、「平和という状態」の維持においては、むしろ逆効果にしかならないでしょう。
「存立危機事態」の件もそうですが、高市政権の動きは「媚米」と「支持者へのアピール」のために、実につまらない形で外交カードの力を弱体化させ続けている。
この「実につまらない形」(自らの心の空虚を誤魔化すための、アクセサリー的愛国しぐさ)で国を損なう行いは、皇統問題における男系男子固執も全く同じだと私は感じています。
国家も企業も個人の生活も、その破綻を招く最大の要因となるのは「突発的な非常時」よりも(それはトリガーにすぎず)、「長年にわたる日々の浪費」です。そうした浪費の中でも一番恐ろしいのは、形や数値ではわかりにくい「主体性を支える精神の浪費」ではないでしょうか。
「AIに支配される」までもなく、魂を抜かれて「ただ死んでいない」状態になってしまう事には、徹底的に抗って生きます。





















