昨日配信のライジング Vol.559「無知な勤勉は日本の存立危機」 に掲載されたもくれんさんの記事「泉美木蘭のトンデモ見聞録・第383回『フェミニズムの自死』」を読んで、「サナ活」や、さらにそれを包括するネトウヨ仕草って、いわゆる「自分探し」の亜種なのだな、と感じました。
「自分探し」という言葉が広がりだしたのは、私の認識では昭和末〜平成初頭の、いわゆるバブル期周辺。当時は、社会が経済的な栄華を貪るなかで「レール通りに生きたくない」という趣旨で、後の就職難の時代とは全く別のニュアンスで生まれた「フリーター」が持て囃されたり(一方、ここでの「フリーター」は、リクルート社のマーケティングにより整備された極めて「レール」的な存在だった)それと同じ時期には、いわゆる「学歴エリート」に属する者が続々とオウム真理教に入信するといった動きがありました。
その後も、少しずつトレンドが変化しながらも、「ホントの自分」、もしくは「ここではないどこか」を所望する「自分探し系」ムーブは存在し続けています。
一方、「自分」は今ここに居る自分以外に存在するはずもなく、「ホントの自分という事にした理想」に近づくためには自身が変わって行くしかありません。「ここではないどこか」に行きたくとも、そのために「保証された安定」を捨てる覚悟を持てるかどうか。
「自分探し」って手軽な逃避先のように思われるけど、もし本気で臨もうとすればそれは「求道」であり、逃避したい気持ちの元となった不全感以上の苦難が待ち受けています。
それを超えた所に存在する実存を得たいかどうか、覚悟が問われます(オウム信者は、一見それと似た(実体はハリボテにしても)構造に取り込まれ、個を崩壊させ麻原の狂気と一体化して行ったのだけど)。
そして、「〝自分探し〟のハードルの高さ」にみんな薄々気付き始めた頃に提供され始めたのが、高度にパッケージングされた「愛国しぐさ(=ネトウヨ性)」です。
これは社会と自我との拮抗の中から生まれるナショナリズムやパトリオティズムとは実際には全く関連していない、マニュアルやチェックシート的な「正解」(「男系男子固執」や「嫌中・嫌韓」などなど)をお題目にしていれば、「〝愛国者〟として承認される」という大変都合の良い「コンテンツ」です。
私には、高市早苗という人物は典型的な「自分探し型」であり、同時に「マニュアル型」人間であると感じられます。そうした人物が「首相」になれば、元々モノを考えるのが面倒くさいけど承認だけが欲しい者にとっては、インスタントに「推す」だけで自分アゲのできる格好の対象となる。
かくして、「ジブンラシクアリタイ…」とつぶやきながら魂が彷徨い続けていた衆によって、唯一無二の個とは真逆の「全体主義」が構築されるという、皮肉にも程があるホラーな様相が完成するわけです。
一つだけはっきり見えるのは、もし高市政権によって「破局的な事態」が招かれた場合、即物的な実害を負ったサナ活大衆は、最大級の憎悪を込めて高市を糾弾する側へと回るでしょう。自分も含めた、いま現在、高市を批判している人々よりも何倍も苛烈な形で。





















