ゴー宣ネット道場

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切通理作
2010.8.17 23:44

まるで知らなかった戦争 「ゴー宣道場 過去の戦争、現在の戦争」1

 8月8日に靖国會舘で行なわれた『第5回・ゴー宣道場・過去の戦争、現在の戦争』では、僕も末席で耳を傾けていました。

 今回は渡部陽一さんをゲストに、普段は司会の笹幸恵さんが基調講演をされます。 

 まず、笹幸恵さんのお話がありました。

「私、こう見えても、いつも戦争のこと考えてます」

 という最初の言葉に、僕はシビれてしまいました!


 普通こういう時「私、戦争の本書いてますけど、普段から戦争のことばかり考えてるわけじゃないんですよー」などと、聴衆にソフトに感じてもらうように装う人が多いのではないでしょうか。特に若い女性の書き手には。

 そんな粉飾が微塵も感じられない笹さんの態度は天晴れです。


 コンビニで大福を見ると、それが自由に食べられなかった戦時と感覚がつながると笹さんは言います。

 
 生き残った方が戦友に大福を供えるということが当たり前だったという、当時の人々の精神世界――戦争になったら民間人だって巻き込まれるのだから、誰にとってだって他人事じゃない――とつながるというのです。

 
 僕はこの日の前に笹さんの新刊『「白紙召集」で散る軍属たちのガダルカナル戦記』を拝読しました。


 この本は兵士ではない軍属の人々の等身大の姿から、戦争やそれを支えた当時の精神風土や戦略上の問題点を、単純に善とも悪とも決めつけないで見つめた良書であるといえます。


 ただそれだけに、わかりやすい「ひとつの物語」という補助線が引かれていないので、読む側を試す本でもあると思えました。


 たとえば私は最初に読んだ時、本の結びの「あのときガダルカナル島にいた設営隊員たちは、現在の日本につながる歴史の、唯一の『目撃者』なのである」という記述が、いまひとつ呑みこめませんでした。ガダルカナルが「負け戦」であったということで、その後日本が所謂「本土決戦」を避けることになったという歴史上、戦記上での意味合いなのでしょうか。そのことが本の一番最後のメッセージであるということが、どういうことなのか、すぐにパッとは把握できなかったのです。

 
 しかし、この日の基調講演で、笹さんにとって、「戦争は現在につながるんだ」ということがそれ自体メッセージだったんだと気づいたのです。

 戦争は過去でもなく、日常の狭間に埋もれた存在でもなく、いまにつながっているのだなということが瞬時に伝わってきました。

 

 笹さんは、自身の戦争への関心は、決して「趣味」じゃないと言い切ります。

 私は歴史オタクじゃない、<歴女>じゃありません!と。

 <歴女>の中にだって、戦国武将が生きた時代と、自分の「いま」が感覚的につながることに喜びを感じている人もいると思います。

 しかし問題なのは、タイムスリップを疑似体験することではなくて、自分を「歴史的存在」だと認識できるかどうかということだと、私は受け止めました。

 「縦軸がないと、横軸を引っかけるところもなくなります」という笹さんの言葉は、そういう意味でしょう。

 では「歴史的存在」を生きるとは、どういうことか。

 それはわかりやすい物語としての歴史を語るということではなく、過去の戦争の具体的な局面について「なぜそうなったのか」「問題があるとしたら、今後そうならないためにはどうしたらいいのか」ということを自分たちの身に降りかかる出来事として捉え直すということです。

 

 いまだに連合国が求めた謝罪をなぞっている人も多くいますが、

「全否定も全肯定も、どちらも自己愛である」

という笹さんの言葉は心に響きました。

 「全部悪かった」というのも「全部正しかった」というのも、結局は自分が気持ち良くなるための言葉に過ぎない。どちらも客観的な自分の姿を見ていない。

 「真の反省とは自己の客観化である」とパネラーの宮城能彦さんが呼応した時、僕も我が意を得たりと思いました。この場合の「自己」は「わが国」と同義です。

 戦争状態の時にどうだったかで「わが国」のありのままが見える。

戦争を「例外的状況」と捉えるのではなく、国民の体験として内面化するということ。

 笹さんは本の中で繰り返し「負け戦」という言葉を使います。

 安全地帯からものを言うのではなく、「負けた」ことが事実だとしたら、それはなぜなのかをちゃんと見つめる。

 先の大戦で死んだ人たちが「無駄死にだった」としないためには、それはいまの私たちのあり方にかかってる、のだと。

 『「白紙召集」で散る軍属たちのガダルカナル戦記』を読んで、僕自身、知らないことがいっぱいあると思いました。

 戦争を学ぶということは、己自身の無知を自覚することだな、と。

 それに、たとえ戦争の時代を生きた人々に取材しても、わかりきることの出来ないこともあります。

 小林よしのりさんは、笹さんが取材したような、今でもまだ生きている人は末端の兵士だった世代であり、もっと上には古き良き日本の益荒男ともいうべき、明治生まれの根っからの軍人がいて、彼らは戦争を振り返っても楽しかった青春の話しかしない。その年代がいま、いなくなってしまったと言います。

 笹さんの本自体にも多数の文献が使われているように、私たちは今、残されたたくさんの資料の中から想像をめぐらしていくことが必要な時代を生きはじめているのです。

 ゲストの渡部陽一さんの口からは、僕の知らない「現代」の戦争が語られました。

 イラクの兵士は「家族を守るため」に戦争に参加しているが、アメリカの兵士は「将来の目的のため」で参加している。

 そしてアメリカの兵士はイラクのことを全然知らない。

 つまり両者ではまったく戦争に行く目的が違う。

 戦争に対する捉え方そのものが違う両者は、お互いに向き合う存在ではないのでしょう。

 そして戦地に於いても両者は必ずしも切り結ばない。

 渡部さんは、兵が前線に行かなくても、戦争がはじまり継続されている現代の戦争について語ります。アメリカの無人機が爆撃を繰り返して、人間の体温まで感知する。まさに『ターミネーター』の世界が到来している、と。

 渡部さんは9月には米軍の従軍カメラマンとして戦地に赴くそうですが、イラク戦争がすでに技術的には過去のものとなっていると聞いて、僕は戦争についてまるで知らなかった自分を思い知らされます。

 

 無人機が国境を越えても、人が乗っていないため、それを罰する法律が追いついていないというお話など、まさに戦争が現在から未来に差し掛かっていることを感じざるを得ません。

 お互いに赴く目的も違うまま、お互いの顔も見えずに進行する戦争。

 戦争が起こればすべてガチンコでぶつかり合い、問題が全体化するわけではないのだなあ、と。

「頭がよくないと戦争が出来ない時代に来ている」と小林よしのりさんがおっしゃったのは、なるほどと思いました。

 それは単にテクノロジーの問題だけではなく、戦争のルールの問題でもあります。小林さんは第3回のゲストでもある原口一博大臣の、「国際社会はルールを死守する戦いの場なのだ」という言葉を引きます。

 我々日本人は過去・現在・未来にわたって国際法の遵守を言っていかねばならない、という小林さんの言葉は、重く響きます。

 笹さんも「<顔の見えない戦争>の原型はガダルカナル戦にも見られる」と言っていましたが、一般民衆をも巻き込む戦略爆撃から始まった近代戦は原爆にひとつの帰結をみせていることは言うまでもありません。

 こうして考えると、戦争が表立って行われていない現代日本でも、水面下の「ルールの取り合い」は社会のいたるところで行われているのではないかという気がします。

 日本人は戦争に蓋をし、国際社会の緊張感から目を背けようとしている。そしてアメリカに追従することで安心を得ようとしている。

 しかし日本がアメリカにされてきたことがなんなのか、歴史的主体を持つことで、初めて国際社会において他者と接することが出来るのではないでしょうか。

 歴史を知るということは、いま現在の自分の位置を明確に持とうとすることにつながるんだな、と。

 渡部さんは、現代アメリカ兵の「将来の目的のため」という「ビジネスライク」な動機に対して、イラク兵士の「家族を守るため」という動機を「モラル」と呼びます。

 イラクでもアフガンでも、情勢が不安定だから外に移りたいという人はほとんどいないと渡部さんは言います。あくまで自分の家郷にこだわる、と。

 これを「モラル」と呼んでいるのです。

 
 自分と自分の家族が生きている連続性。家郷、そして国家への帰属意識。歴史に身を置くモラルについて学ぶところの多い「第5回 ゴー宣道場」でした。


(この項続く)

切通理作

昭和39年、東京都生まれ。和光大学卒業。文化批評、エッセイを主に手がける。
『宮崎駿の<世界>』(ちくま新書)で第24回サントリー学芸賞受賞。著書に『サンタ服を着た女の子ーときめきクリスマス論』(白水社)、『失恋論』(角川学芸出版)、『山田洋次の<世界>』(ちくま新著)、『ポップカルチャー 若者の世紀』(廣済堂出版)、『特撮黙示録』(太田出版)、『ある朝、セカイは死んでいた』(文藝春秋)、『地球はウルトラマンの星』(ソニー・マガジンズ)、『お前がセカイを殺したいなら』(フィルムアート社)、『怪獣使いと少年 ウルトラマンの作家たち』(宝島社)、『本多猪四郎 無冠の巨匠』『怪獣少年の〈復讐〉~70年代怪獣ブームの光と影』(洋泉社)など。

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