ゴー宣ネット道場

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切通理作
2010.8.18 10:52

もうひとつの普通に出会う  「ゴー宣道場 過去の戦争、現在の戦争」2


  小林よしのりさんが、第3回のゲストであった原口一博大臣の、

 「国際社会はルールの取り合いなのだ」

  という言葉を今回、改めて強調したことについて、もうちょっと考えてみます。

 強者は常にルールを再設定して自分の優位を脅かされないようにします。そこに対して目を光らせることも、ひとつの「戦争」なのだと、僕は聴いていて思いました。

 そして、『ゴー宣ネット道場』における動画「戦場からこんにちは」での、渡部陽一さんの発言を思い起こしたのです。

 イラクでもアフガンでも、売っている食べ物には値段が決まっていない。買い物ははじめから「交渉ありき」であり、うっかりしてると同じものでも十倍以上の値段がついてしまう。

 つまり彼らは「食べる」という日々の生活の基本的なところから不断に「ルールの再設定」を戦っているのです。


 そういう環境で暮らすと「自分の感じたことが、正しくても、正しくなくても、しっかり手を挙げて、相手に対する」姿勢が身についてくると渡部さんは言います。


 日本の学校の教室のように、意見を求めても、お互いの顔色をうかがい誰も発言しない……なんてことはあり得ない。

 「みんなが我も我もと挙手をして『オレを指してくれ』と主張する。そうじゃないと食べていけない。日本以外は全部そうです」と渡部さんは言います。

 それを聞いて、僕は「しっかりものを言う」ということすら、実は単なる個性や積極性の問題ではなかったのだなと感じました。

 つまり、イラクやアフガンの人たちは、特別そういう意識を持とうとしているのではなく、向こうではそれが「普通」なのだと。


 場所や時代が変われば「普通」も変わる。違う世界に生きている人間も、根っから異質なわけではないのかなという風にも感じました。

 笹幸恵さんの『「白紙召集」で散る軍属たちのガダルカナル戦記』では、一時的に配属されただけの、兵士でもない設営隊員が、自らも決死の総攻撃に参加したいと中隊長に申し出た……というエピソードを紹介します。その理由を笹さんに問われ、彼は「一緒に今までいたもんだでね」と言います。笹さんは、戦後生まれの自分にはその気持ちをわかりようがないと書いています。


 笹さんはきっと、安易にわかったようなフリをしてはいけないという戒めで「わからない」と書いたのでしょう。

 でも僕は、あのくだりを読んで「わかる!」と思ってしまいました。

  「お国のために」という大きなものがまずあり、その中で、たとえ自分が正式な軍人でなくても、苛烈な中で寝食を共にした仲間と一緒にいたい……それは渡部陽一さんがいう、人が人と一緒にいることで生まれる「モラル」ではないでしょうか。


 僕は笹さんの著書によって、同じ日本でありながら、時代が違う人々の価値観に出会えた気がしました。

 ノンフィクション作家の仕事はメッセージを直接言葉にするのではなく、読み手と、時代も場所も違う人々の価値観を「出会わせる」ことなのだなと認識を新たにしました。

 戦争で亡くなった人たちを「無駄死に」にしないかどうかは、いまの私たちのあり方にかかってるということも、たしかに戒めにしないといけないと思います。


 けれど、僕が笹さんの本を読んで一番感じたのは「戦争の死には<尊い死>はあっても、<無駄死に>はないんだな」ということでした。だって彼らにとっては、徴用された場所に行って働くことが「普通」だったのですから。

 そうした前提に立った時、戦略的に失敗したとされている作戦で散華した命と、功を奏した作戦で散華した命に、違いなどあろうはずもありません。

 小林よしのりさんが8/15のブログ『「べき論を超える」=「行動」と誤解していないか?』で、小林さん自身も含めたゴー宣道場の講師陣は「『非日常』を生活の場として生きている『異能』の者たちである」と語っています。

 笹さんも渡部さんも、かつて戦地だった場所やいま戦地である場所を自らの仕事の現場としている点において、日本国内に仕事の現場を持つ一般読者にとって<非日常>の存在です。


 渡部陽一さんは「どうか一度海外に出てみてください。ノッキング・ドアしてください」と言います。そうすることで、日本の外にある「普通」がわかり、我々が当り前だと思っていたいまの日本の「普通」を見つめ直すことが出来ることは、確かだと思います。

 ただ、それぞれ日々の仕事に追われている中で、誰もが戦場に取材に行けるわけではないし、誰もが戦地の足跡をたどれるわけではない。

 その代わりに彼ら「異能」を持った人々の存在がある。

 彼らのおかげで、国や時代が違うけれど、その中では「普通」に生きている人々の価値観を、我々は垣間見ることが出来るのです。

 そして、各々の日常の中の「気づき」にしていくことが出来る。それを、いまこうやって、言葉にしたり、交換することが出来る。

 笹さんは道場に来た皆さんに「評論家になるな」と檄を飛ばしましたが、僕は本来評論とは、日常の中でそういうことに気づいていくことであると信じています。

 すぐれた評論とは、どこかで聞いたような話を予定調和で語ることではない――ということは、自分も評論家を名乗る者として言っておきたいと思います。


 今回、堀辺正史さんが「私は専門に両足は突っ込まない。常にもう片方はどこにでも足を突っ込むようにしている」とおっしゃっていましたが、専門ではないことで意見交換できることが「評論」の意義だと思うのです。あるいは、視野狭窄になり、「べき論」に凝り固まっている頭をほぐす役割が真の評論だと思います。


 もちろん、それは目指すべき地平であり、私も時には紋切り型の論議に加担してしまうこともあります。テクニカルな面では、物事を単純化することだって必要な側面もあります。

 しかし、どこかで「べき論」を越えることを目指す、予定調和でない「気づき」を織り込んだ論議が出来るように願っています。


 道場参加者の皆さん、『ゴー宣』読者のみなさん、こんな僕でも及ばずながら精進していきたいと思います。

 一緒に「べき論」を超えた地平を目指しましょう。

切通理作

昭和39年、東京都生まれ。和光大学卒業。文化批評、エッセイを主に手がける。
『宮崎駿の<世界>』(ちくま新書)で第24回サントリー学芸賞受賞。著書に『サンタ服を着た女の子ーときめきクリスマス論』(白水社)、『失恋論』(角川学芸出版)、『山田洋次の<世界>』(ちくま新著)、『ポップカルチャー 若者の世紀』(廣済堂出版)、『特撮黙示録』(太田出版)、『ある朝、セカイは死んでいた』(文藝春秋)、『地球はウルトラマンの星』(ソニー・マガジンズ)、『お前がセカイを殺したいなら』(フィルムアート社)、『怪獣使いと少年 ウルトラマンの作家たち』(宝島社)、『本多猪四郎 無冠の巨匠』『怪獣少年の〈復讐〉~70年代怪獣ブームの光と影』(洋泉社)など。

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