ゴー宣DOJO

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切通理作
2011.3.8 02:41

ふたたび「日本をあきらめない」

先日UPさせていただいた記事で
「先人たちに敬意を払うのは、その歴史性に対してであって、
『俺の世代は頑張ってきた』というような
自閉的なノスタルジーの中で硬直してしまってはならない」
そう書きましたが、やや誤解を招く表現だったかもしれないと思い、
今日はそのことを書きます。

自分たちの働く現場が、
上から教育された仕事を後輩に引継いでいく
「担う意識」の相互関係として育まれてきた
歴史があるとしたら、
それを「もう古い」と手放さずに、
自分たちの受けたいい部分の歴史を、
下の世代にももたらされるように
努力することも大事だと思うのです。

それは、あらゆることに言えると思うのです。

以前、このブログで、小林さんがひろゆき氏と対談した時、
ひろゆき氏も会場の若い人も、多くが
黒沢明監督の映画を全然見ておらず、
衝撃を受けていたことを書きました。
あの時、僕も驚きました。
映画史は受け継がれていないんだと。

しかし、あの時僕が思ったことは、
「若者はダメだ」ということではありませんでした。
若者が、白黒の時代に作られた、
いまとはテンポもリズムも違う映画に対して、
自然には受け止められないのは当然です。

あの時、省みたのは自分のことでした。
僕自身、映画のことも書く機会がある評論家として、
「名作」を空気のように感じているばかりで、
下の世代に継承するような努力を払ってなかったのではないかと
思いました。

その証拠に、
あの場で小林さんが黒沢作品『生きる』のどこがよかったのかを
語った時、ちゃんと会場のみんなにも
ニコ動を見ている多くの人にも
伝わっていたではないですか。

映画『生きる』に描かれた、
余命いくばくもない役所の係員が
地元の人々のために残そうとしたもの、
その結果は、
公務員としての仕事をまっとうされた小林さんのお父さんが守ろうとした
「普通の人々」の生活と
つながっているように僕には思えました。

まさに人が社会に「生きる」ことの意味は
あの場の若者にもまっすぐに伝わっていました。

若者におもねるのではなく、
一歩前に進んで対話しようとする努力が必要だし、
その場を作ることが重要だと思うのです。

笹幸恵さん(今後ブログ楽しみです)の『「日本男児」という生き方』
を読んで、個々には僕は異論もあります。
でも、笹さんが見知った上の世代の美しさを、
なんとかして伝えようとする姿勢を軽くは見れないと思います。

安倍元首相がかつて「美しい国へ」と言った時、
現役の政治家がノスタルジーみたいなこと言ってると、
当時否定的に見ていました。

でも今、かつて安倍元首相が書いた同名の著書を読むと、
それこそ、堀辺師範の言葉ではありませんが、
胸躍る言葉がいくつもあります。

お父さんの安倍晋太郎さんから受け継がれた
政治家としての信念、そのたたずまいは
まさに「ザッツ・保守」。
昨日今日培われたものではありません。

そして日本の進むべき方向も
ハッキリ書かれています。

自民党のCMで
安倍元首相が
「日本をあきらめない」と言ってるのが
一日中テレビに流れていた時、
当時の僕は違和感を
抱きました。

日本国民が
そんなにもダメになってるという
認識を勝手に押し付けられた
気がしたのです。

しかし、いまはどうでしょう。
「日本をあきらめない」。
この言葉が本気で発せられる限り、
小林よしのりさんの言う
「あと3年」の再生も
現実味を帯びてくるのではないでしょうか!

切通理作

昭和39年、東京都生まれ。和光大学卒業。文化批評、エッセイを主に手がける。
『宮崎駿の<世界>』(ちくま新書)で第24回サントリー学芸賞受賞。著書に『サンタ服を着た女の子ーときめきクリスマス論』(白水社)、『失恋論』(角川学芸出版)、『山田洋次の<世界>』(ちくま新著)、『ポップカルチャー 若者の世紀』(廣済堂出版)、『特撮黙示録』(太田出版)、『ある朝、セカイは死んでいた』(文藝春秋)、『地球はウルトラマンの星』(ソニー・マガジンズ)、『お前がセカイを殺したいなら』(フィルムアート社)、『怪獣使いと少年 ウルトラマンの作家たち』(宝島社)、『本多猪四郎 無冠の巨匠』『怪獣少年の〈復讐〉~70年代怪獣ブームの光と影』(洋泉社)など。

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