ゴー宣ネット道場

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切通理作
2013.4.16 08:31

ゴー宣道場「体罰って何だろう」で得たもの

     先日の、二か月ぶりの道場「体罰って何だろう」。
  最初、師範席に座っている人間たち自身、体罰を受けたことがあるのかどうかという
話になりました。
  

  僕は事前に、自分の体罰に対する考えを「こう言おう」と準備してきたのですが、体罰をほとんど受けて来なかったということを先に表明せざるを得ず、いささか出鼻をくじかれてしまいました。

  しかし、これでよかったのだと思います。

  体罰事件が起きると、マスコミは色々と取り沙汰しますが、その多くが、自分は高みに立って、当事者を叩きます。

  ゴー宣道場が、そんな場であるはずもありません。

  そして、家庭での体罰、学校での体罰、部活動での体罰と、レべルを分けて論議が出来たのもよかったと思います。

  一足飛びに大きな問題として語ってしまう前に、ほかならぬ自分自身が、当事者としてどうだったのか?

  僕は会場に来た皆さんに訊きたくなりました。「体罰をする側として、『いまでも後悔している』とか『しなければよかった』という体罰はありますか?」  

  すると、ある門弟の方が教えてくれました。
  自分は親として、体罰した時のことは、子どもが大人になってからも思いだし、いまだに、申し訳ないと思う。しかしそれでも、それは必要だったし、そのことを背負って生きている・・・・と。

  親から体罰を受けたことがほとんどない私と、親からたくさん体罰を受けてきたけれど、その理由がほとんど思いだせないという小林よしのりさん。

  真逆な両者ですが、ただひとつ共通しているのは、現在のところ、自分の子供を家庭で育てた経験がないということです。

  
  小林さんは自分が親の代になったらもう子どもを叩きたくないと言います。
  僕は、叩かれて育ったことがないから叩き方がわかりません。

  
  自分自身は、叩き方もわからないし、それが単なる暴力になってしまうのは怖い。

  しかしその葛藤の中をまさに生きている人の声を聞くことが大事であって、親は学校の先生に、学校の先生は部活動のコ?チに、そうした役割を押し付けて、何か問題が起きたら安心して人を叩けるポジションを確保するという構造がなくならない限り「問題としての体罰」は再生産されるに違いありません。

  今回の論議で「体罰って何だろう」という問いがすべてわかったとは言いませんが、「問題としての体罰」を生み出す構造は理解できた気がします。  
 
  
  

切通理作

昭和39年、東京都生まれ。和光大学卒業。文化批評、エッセイを主に手がける。
『宮崎駿の<世界>』(ちくま新書)で第24回サントリー学芸賞受賞。著書に『サンタ服を着た女の子ーときめきクリスマス論』(白水社)、『失恋論』(角川学芸出版)、『山田洋次の<世界>』(ちくま新著)、『ポップカルチャー 若者の世紀』(廣済堂出版)、『特撮黙示録』(太田出版)、『ある朝、セカイは死んでいた』(文藝春秋)、『地球はウルトラマンの星』(ソニー・マガジンズ)、『お前がセカイを殺したいなら』(フィルムアート社)、『怪獣使いと少年 ウルトラマンの作家たち』(宝島社)、『本多猪四郎 無冠の巨匠』『怪獣少年の〈復讐〉~70年代怪獣ブームの光と影』(洋泉社)など。

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