昭和天皇はご生前、靖国神社に戦前・戦中に20回、戦後に8回、
合計28回ご親拝になっている。
だが、昭和50年を最後に以後、遂に途絶えてしまった。
その理由は何だったのか?
いわゆるA級戦犯を合祀したのをご不快に思われたからだ、
という見方がある。
その根拠として挙げられるのが、「富田メモ」。
今回、一般公開された『昭和天皇実録』にも、
このメモの存在は一応、取り上げられたようだ。
しかし同メモは、
いわゆるA級戦犯合祀から10年もの歳月を経た後の、
昭和天皇のご発言と称するものの断片を、
舌足らずに書き留めたものに過ぎない。
信憑性にも、解釈の仕方にも、多くの疑問符がつく。
実はこの他にも、関連の資料はいくつかある。
(1)岩見隆夫氏『陛下の御質問』
(2)徳川義寛氏『侍従長の遺言』
(3)岡野弘彦氏『昭和天皇の御製 四季の歌』
(4)『卜部亮吾侍従日記』など。
これらが、実録で触れられているのか、どうか。
しかしどれも、中国が首相の「靖国」参拝に対し、
にわかに抗議を始めた、昭和60年8月以降のものばかり。
いわゆるA級戦犯の合祀が行われた昭和53年以降、
昭和60年迄の間に、
昭和天皇がこのことに言及されたことを示す記録は、
これまで皆無だった。
そもそも、A級合祀以前の昭和50年、
それまで当然のように続けられて来た靖国参拝が突如、政治問題化。
その為、既に天皇陛下のご親拝が継続困難な局面に突入していた。
このことは、実録によって改めて裏付けられたようだ。
だが一方、
昭和53〜60年の間に昭和天皇が合祀をご不快に思われ、
断固としてご親拝中止を決意されたことを窺わせる新たな史料は、
見つからなかったらしい。
例大祭での天皇陛下からの勅使のご差遣や、
弟宮の高松宮・三笠宮両殿下をはじめとする皇族方のご参拝などは、
合祀後も別段、変わりなく続けられている。
そうした事実も勘案すると、
A級合祀→ご不快→ご親拝中断説は、
いよいよ不審が深まったと言えよう。