2017/09/30

小さな憲法と舌切り雀

Tweet ThisSend to Facebook | by 倉持
●むかしむかし
怪我をしたスズメを看病した心優しいお爺さんに懐いたスズメをよく思わなかったお婆さんは、糊を食べたスズメの舌を切って捨ててしまう。
スズメを心配したお爺さんは藪にスズメを探しに行くとスズメのお宿に行き着き、あのスズメと再会する。時間を忘れるようなおもてなしを受けたお爺さん、帰らねばならない。そこで出てきたのが二つのつづらである。
大きいつづらと小さなつづら。
お爺さんは「自分の身の丈に合った」小さなつづらを持って帰る。すると、金銀財宝ではないか。これをみた欲深いお婆さんは、大きいつづらならさらに財宝の山に違いないといってスズメのお宿に乗り込む。大きいつづらを強引に受け取り、持ち帰ろうとするが、スズメは一つだけ約束を伝える。「家に帰るまではつづらをあけないでください」
強欲なお婆さんはつづらを開けてしまい・・・

●小さな憲法?

近時、各国憲法の語数を比較した研究がなされている。

国名       憲法の英単語数      憲法改正の数
アメリカ      7762        18回(戦後は6)
イタリア     11708        16回
韓  国      9059         9回
ドイツ      27379        60回
フランス     10180        24回
日  本      4998         0回

憲法の語数についての一般論を述べるとすれば、当然のことながら、憲法の語数が多ければカバーする範囲が広く細かい。語数が少なければカバーする範囲は狭く、文言も抽象的になる。
語数が多く細かく規定していれば、何か制度を変更するときもそれはその都度憲法を改正しなければならなくなる。
しかし、文言が抽象的であれば、何かを変更するときは条文を都度改正する必要はなく、抽象的な文言の解釈で対応することになる。

上の表を見ればわかるように、戦後憲法を新たに制定したドイツは約27000語で、約5000語の日本の5倍である。したがって、ドイツは統治機構について些細な変更でも憲法改正によらねばならなくなり、上記の表の各国の中でも、憲法改正の回数が60回とダントツ最多である。
これに対して、日本は(少なさが極端であり、これには他の要因もあるが)語数の少なさに比例して改正回数は0回である。
これは
1.憲法の文言が抽象的であるために、具体的なものについては法律で定められるよう投げられているから
2.抽象的な文言を「内閣法制局」(ないしは判例)が解釈で埋めてきたから
という説明があるだろう。

しかし、憲法とは国家権力を統制し、人権を保障する法規範だとすれば、この日本の現状はいささか問題である。

1.憲法上の権利や制度が、憲法ではなく法律で定められているとすれば、それは憲法上の権利の保障は弱まる
2.権力統制規範としての憲法という文脈からは、その統制が明文ではなく解釈でなされてきた、という側面が強くなる。おわかりのとおり、解釈が可能ということは、その前提として何パターンもの解釈がありうるわけだから、法的な安定性は明文よりも弱いし、おのずと権力の統制という面からも脆弱なものとなりうる。

このように、語数も少なく、カバーしている範囲が小さい、また、抽象的な法及びその条文群をもって「規律密度が低い」という言い方をする。
エレベーターでものすごいサイズの人が隣に密着してしまったとき、空間の密度は「高い」。他方、過疎の村などは人口密度が「低い」。この用法と基本的には同じである。規律密度が低ければ、サイズも小さくスカスカということになる。権力統制規範であるはずの憲法の規律密度がスカスカでは、統制もままならないのではないか、ということになる。

このような憲法になったのには理由がある。
憲法は終局的には、最高裁判所による違憲かどうかの憲法判断、「違憲立法審査権」によって統制が担保され、憲法自身の織りなす秩序が守られるわけである。
これで縛ろうとしているのは政治権力、守ろうとしているのは我々一人一人の権利・自由。
ということは、この統制が薄い、規律密度が低いということは、憲法による政治権力の統制が弱いということである。
これは、日本国憲法が「民主的に選ばれた代表者たちは憲法を遵守する政治をするはずだ」という民主制への信頼、言い換えると「民主制への敬譲」を前提としている。

だからこそ、ドイツでは、戦後、民主的に台頭したヒトラー及びナチスの反省から、政治部門への不信の裏返しとして、政治権力をガチガチに縛った語数の多い憲法を制定し、その憲法を強力に守らせる機関として、憲法裁判所の創設したのだった。

規律密度が低いから改憲せよ、というのは、憲法がスカスカではまずい!ということなのだから、「私たち縛りが弱いとだめだからもっと縛って」というSMも真っ青な主張であることを理解してほしい。

●お人好し憲法?時代の激変と普遍的価値の喪失に抗え
文言が抽象的だから、規律密度が低いから改正するというのはあまりに短絡的である。規律密度が高い、たとえば憲法53条のように4分の1の要求があれば臨時会を招集しなければならないとしているような、どう読んでも解釈の余地すらない規定を守らずに放置する為政者もいる。つまり、問題は、文言の抽象度だけではなく、法規範として権力を統制する「仕組み」である。もっといえば、守られなかったときにどのように守らせるかという制度的な担保である。
この「仕組み」がないのであれば、それは、権力の均衡を失しているといってもいいのではないだろうか。つまり、そのような破られたときに守らせる担保のない法規範は、どこかの権力部門が暴走しうるという内在的危険を孕んでいると言わざるを得ない。
これを統制するためには、憲法規範を担保する機関としての憲法裁判所の創設を提言したい。結局は、破られたときにこれを守らせるという「実効性」あっての法規範ということなのである。

悲しいが、今や日本国憲法が持っていた「言われなくても守る」という美徳を捨てざるを得ない。それは、言わないと守らない、言っても守らない人がいるからであり、憲法もただの「ポエム」や「道徳律」ではなく、「法」だからである。

日本の憲法が「小さい憲法」である所以として、民主制への過度な信頼、政治部門は、きっと憲法を遵守して正しき政治を行ってくれるだろうという「公正と信義」への信頼があったと指摘した。
これはあまりにお人好しが過ぎた。お人好し憲法であった。
しかし、もはやお人好しのままでは、憲法が目指した共生や普遍性への意思は死滅する。

今や、日本の立憲主義も民主義も圧倒的に変容しようとしている。
その根底にあるはずのリベラル・デモクラシーという発想も、風前の灯ではないか。
リベラルとは本来、個人の自由や尊厳、そして根源的対等性をどのように確保するのかということを核心としており、これらはイデオロギーによっては否定しえるものなのか?保守や革新という思想とは関係なく、それよりもさらに深いところで基底的に存在する価値ではないのか?
保守対リベラルというのは本当に正しい構図か?
リベラルな保守はいるはずだ。
自身がリベラルと表明すると、保守と対立するのか?それは違う、絶対に、違う。
リベラリズムは、「正しき」社会のために反転可能性を要求する。つまり、決定にあたって相手の立場にたってもそれが受け入れられるかというテストを課す。
しかし、私的領域におけるそれぞれの各人の「善き」生については口出ししない。
リベラリズムは、リベラリズムに対して攻撃的な価値ですら包摂し、多様性の1ページとして受容する。リベラルとは共生の知恵だ、普遍性への意思だ。
これは政治的対立に持ち込んではいけない。
より基底的な価値に敬意を払わなくなった社会は、共通言語を失い、分断される。
対立は目に見えるが、共生や調和は目に見えにくい。共生や調和は達成感がない、獲得感がない。調和は、調和が壊れたときに実感する。目に見える対立はわかりやすいが、これの一方に易く与するような態度をとってはいけない。自身が社会的分断の関数になってはいけない。

改憲についても、このような思想的対立と改憲がリンクしてはいけない。
憲法論議は戦後公論の分断を促進してきた側面がある。
これを越えなければいけない。
越えるときの船頭になるのは、言うまでもない、個人の尊厳を核としたリベラルな価値である。
個人の自由を最大限確保するために権力を統制し、権力の均衡を回復すべきだ。
個人の自由をよりよく保全するために、9条を改正し戦力と交戦権を認め統制すべきだ。憲法裁判所を創設すべきだ。
このようなリベラルな見地から、改憲を議論すべきだ。

覚えておいた方がいい、この視点が抜け落ちた改憲論議は、権力担当者と我々一人一人をまったく別の存在、もっといえば統治するものとされるものという視点でされる改憲論議だ。権力担当者も含めて全員対等で我慢を強いられる「個人」という前提にはたっていない改憲論だ。
そもそも「個人」に「二級な個人」がいるかもしれないような改憲論議に与してはならない。
なぜなら、「正しき社会」は常に反転可能性を要求する。そう、そんな社会はあなたも明日は「二級市民」かもしれない。

私はとてもリベラルな憲法論議をしているが、これは何か偏ったイデオロギーに満ちているか?ある特定の思想をとらなければ理解も賛同もできないものか?
繰り返すが、リベラリズムとは、保守や革新を越えた、もっと基底的な普遍的価値を視界にいれ、標ぼうしている。
絶対に対立の構図に矮小化してはならない。

それは、人類が獲得した共生の知恵の取り急ぎの最高到達点である。

●動機と手続きと大切なものと
冒頭のストーリーでお婆さんが破滅に陥ってしまった最大のキーは、お婆さんは大きなつづらを「欲望」に基づいて選んだということと、スズメの言いつけを聞かずに、道中でつづらを開けてしまう、という手続き違反をおかしてしまったということである。
もし動機が善で、手続きをきっちり守っていたら、このストーリーは、いや、大きなつづらの中身は変わっていたのではないか?中くらいの大きさのつづらがあったら?

さて、あなたは大きいつづらと小さいつづら、どちらを選ぶか

ちなみに一つの説では、お婆さんは大きなつづらから出てきた妖怪たちに食い殺されてしまう、というものもある

17:41